逢魔が時


 町の雑踏を抜け、人気のない小道に入って暫く緩やかな勾配を登ると、古いお寺の前に辿り着く。義勇さんのお姉さんのお墓は、ひささんと彼の屋敷の丁度真中くらいに位置する、小高い丘の上に建てられていた。墓地を囲むように林立する雑木林の枝には、春先に芽吹いた新緑が隙間なく茂っている。
「こちらだ、名前」
 義勇さんは私の手を引いて蕩けるような春風の中を歩いた。そして、本堂を参拝したあとに、隣接する墓地に入っていく。黒光りした立派な石が一定の間隔を空けて並んでおり、義勇さんは、一際立派な墓石の前で足を止める。
 彼の視線を追いかければ、「冨岡家之墓」と、石に刻まれた立派な文字を視界に捉える。
「…義勇さん。これが、お姉さんの…お墓ですか?」
「そうだ」
「立派なお墓ですね。…義勇さんが建てられたんですか?…凄く綺麗にされているんですね」
 自分が元の世界に居た頃は、こうして先祖を墓参りする機会は年に一度あればいい方だった。こんなに手入れが行き届いた墓石を見れば、義勇さんが毎月でも足を運んでいるのは容易に想像がついて、墓参りを蔑ろにしていた自分が恥ずかしくなる。
「ああ。両親は俺が幼い時に亡くなって、遺骨の行方が分からない。しかし、姉の遺骨だけは無事に埋葬することが出来た」
 しんとした墓地では、義勇さんの呟くような声もはっきりと聞こえた。なんと答えていいのか分からなかった私は、代わりに彼の手をぎゅっと握り返す。義勇さんがもう独りではないことを、私が隣にいることを、忘れてしまわぬように。
 すると義勇さんは切れ長の目を微かに見開いて、墓石から私に視線を移す。そして、切なくなるほど優しい笑みを浮かべ、繋がっていない方の手で私の頬を撫でた。
「…名前…ありがとう」
「義勇さん。…私は、ちゃんとここに居ますからね」
 彼の心に語り掛けるように言うと、義勇さんは幸せそうに目を細め、その端正な顔を近づけてくる。視線が絡み、息がかかる距離まで唇が近づいたところで、私は咄嗟に広い胸を押した。
「ぎ…義勇さん!まずはお姉さんのお墓参り…しないと」
 恥ずかしさにどもりながら慌てて言えば、義勇さんは「そうだったな」と息を吐くように笑って言った。
 それから私達は、桶に汲んだ水と麻布で丹念に墓石を洗い、周りの砂埃や落ち葉を箒で集める。一通りの掃除を終え、線香を供え墓の前で手を合わせる頃には、額にはうっすらと汗が滲んでいた。春の暖かくて心地よい日射しも、長時間その下にいればそれなりに身体も温まってくる。
 溜息の出そうな新緑の甘い匂いに、線香の香が混じる。水色の空に立ち昇っていくふた筋の白煙を眺めた後、私は手を合わせて瞼を閉じる。そして、心の中で義勇さんのお姉さんに語り掛ける。
 まずは自分の紹介から。そして私が此処とは違う世界から来た異邦人で、義勇さんに助けてもらったこと。彼と恋に落ち、いまこうして一緒にいること。ずっと傍にいると約束したこと。
 伝えたいことが多すぎて、日が暮れてしまいそうだった。でも私は祈るように手を合わせ続ける。どうか、どうか義勇さんを守って欲しいと。この愛しくて堪らない人の命が、どうか奪われませんようにと。
「随分と長いな。一体何を話しているんだ?」
 一向に合掌をやめない私の耳元で、義勇さんの苦笑混じりの声が滲む。釣られるように目を開け横に視線を移せば、義勇さんは既に参拝を済ませ立ち上がるところだった。
「そ…それは、色々です」
 最後にもう一度墓石に向かってお辞儀をし、義勇さんが差し出してくれた手にそろそろと自身のそれを伸ばす。強い力で引かれて立たされると、上手くバランスを保つことが出来ず、勢い余って義勇さんの胸に倒れ込んでしまう。大きな胸は容易に私を受け止めてくれる。
「ご…ごめんなさい」
 謝罪し直ぐに身体をどけようとすれば、彼はその必要はないと言わんばかりに肩を抱き、透き通った切れ長の目で私を見る。
「もういいか?」
「えっ」
 何がですか?と確認する間もなく、唇が奪われていた。
「んっ…」
 墓地でキスなんて、ある意味貴重な体験かもしれない。罰は当たらないだろうかと落ち着かない気持ちで義勇さんの唇の熱を受け止めていると、さらにぐっと腰を引き寄せられ、ぬるりと舌が差し込まれたため、パニックになって彼の胸を押す。
「ちょっ!義勇さんっ…ここ、外ですから!義勇さんのお姉さんの…前ですから」
「…そうだな。すまない」
 義勇さんは少し名残惜しそうに親指で自分の口端についた唾液を拭うと、美しい湖面のような瞳で私をじっと見つめる。
「名前は、姉にどんな話をしたんだ」
「え、どんな話って、それは…それは…私の自己紹介とか…義勇さんとの馴初めとか…色々です。…って、なんでそんなに恥ずかしいこと言わせるんですか!そういう義勇さんはどうなんですか?私をここに連れて来て下さったってことは…お姉さんに紹介してくれたってことで…いいんですよね?」
 大きな胸の中で、上目遣いに義勇さんに問う。しかし彼は眉根を少し寄せ、ふいと顔を背けてしまう。
「……行くか。まだ時間はあるのか?」
「ちょっ、義勇さんそれは狡いです!私はちゃんと言ったのに」
 誤魔化すように眉間をかくと、義勇さんはそのまま私の手を引いた。
「行くぞ、名前」
「義勇さん!ちょっと、待ってください」
 大きな彼の背中を追いかける。羽のような柔らかな風が、花立に挿した供花の花弁を揺らした。まるでそれは、義勇さんのお姉さんが、私達を祝福して微笑んでくれているようだった。

 疾うに桜の花びらは散り落ちて、新緑が繁茂する桜木の並木道を歩きながら、僅かに赤みを帯びたオレンジ色の空を見上げる。既に日は傾き、西の地平線あたりに浮かぶ太陽が鮮烈な光を放っている。もう夜も近い。そして、ひささんの屋敷も、義勇さんと離れるその時も、すぐそこだ。こうして二人で過ごす楽しい時間の終わりは容赦なくやってくる。次は、いつ義勇さんに会えるのだろうか。
 毎回、義勇さんとの別れはどうしようもなく苦しかった。だって彼は鬼殺隊士で、明日をも知れぬ身で、次に会える保障もないのだから。
 そして私も、いつ自分が元の世界に戻るのではないかと怯えていた。毎晩布団に入り目を瞑ると、次に目を開けた時にはこの世界に居ないのではないかと怖気立つ。
 義勇さんを好きになればなるほど、彼と離れるのが怖くなる。義勇さんに偉そうなことを言っておいて、形あるものが全てではないと言っておいて、結局私は彼を失うことが怖い。
「名前、大丈夫か?」
 急に口数が減った私を不審に思ったのか、義勇さんが憂慮を滲ませた声で名前を呟く。反射的に顔を上げれば、睫毛が触れるほど義勇さんの顔が近くにあって、彼の唇が私の髪に寄せられる。義勇さんの瞳の奥も、どこか不安に揺れているような気がした。
 ああ、義勇さんも一緒なんだ。彼も、私と同じような不安をいつも抱えてくれているのだろう。互いが不安定で弱い存在だからこそ、私達はそれを補い合う。それでいいんだ。そう思うと心が少しだけ軽くなり、素直な気持ちが唇から零れた。
「義勇さん…私、本当は寂しいです。義勇さんが鬼殺に行かなければいいのにって、ずっと自分の傍に居てくれたらいいのにって、そんな自分勝手なことを思ってしまいます」
「名前…」
「でも、信じてます。私は祈ることしか出来ないけど…次も、絶対義勇さんに会えるって。…って、こんなこと言ったら、義勇さんの負担になっちゃうのか――」
 言い終わらぬうちに、義勇さんの唇が私の言葉を封じる。熱烈なキスは、今度は途中で止めてもらえなかった。
「っ…ぅ…義勇さん…ふぁ…っ」
「名前…っ」
 二人きりの閨を思わせるような、鼻にかかった甘い声が出る。次に会える時まで、互いの熱を忘れぬようにとする官能的な口付けに、呼吸がままならなくなってくる。
 地平線に浮かんでいた太陽が沈み星と月の光が地上に降り注ぎ始めた頃、漸く唇を離した私達は、永遠の愛を誓うように見つめ合う。先に口を開いたのは義勇さんだった。
「…今日は、名前に伝えたいことがある」
「え?」
 改まっていったい何の話だろう?目を瞠って彼の秀麗な顔をさらに凝視すると、甘い雰囲気を霧散させる、禍々しい声が響く。
「緊急招集――――ッ!!産屋敷邸襲撃ッ!産屋敷邸襲撃ッ!!」
 それは、今までに聞いたことのない、全身が総毛立つような寛三郎さんの声。義勇さんの顔が、瞬時に険しいそれに変わる。
「あっ…あの」
「名前、俺はもう行く。続きは、帰ってきたら必ず伝える」
 そう言い残し、義勇さんは一瞬にして姿を消した。闇のように黒く染まった空に吸い込まれるように。