重なる影


 冬枯れの景色が潤い、木々の梢には仄かな艶や芽の膨らみが見られる季節になった。朝晩の底冷えは残っていても、日中に射す陽射しは春の気配を感じさせる。
「名前さん、鬼狩り様がお見えです。手をお借りできますか?」
「え…」
 背後から聞こえたひささんの声に、思わず身体がびくりと反応し、竿にかけていたシーツを伸ばす手が止まる。
「…以前にも、一度うちを訪ねてきた鬼狩り様です。名前さんがここに来て、間もなくの頃だったのではないでしょうか」
「そ、そうですか。…あ、直ぐに行きます」
 私の気持ちを見透かしたように、ひささんは言葉を付け加えた。彼女の言葉に、全身の力が抜けていき、一瞬速まった心臓の鼓動も緩やかに元に戻っていく。
――もう…俺に構うな。二度と…此処に来ることもない
 大晦日の夜の宣言通り、冨岡様がこの藤の花の家紋の家に姿を現すことはなかった。鬼殺隊士、ましてや彼のように柱と呼ばれる位に就く者は忙しいし、ひと月以上その姿を見ないことはこれまでにも何度もあった。しかし、こんなに日が空いたのは初めてだった。本当に冨岡様は、もうこの屋敷を訪れることも、私に会うつもりもないのかもしれない。
「あ、お久しぶりです!」
 急いで残りの洗濯物を干し、ひささんの小さな背中を追って玄関へ向かえば、胸がすくようなはっきりとした明るい声が響いた。
「あ、貴方は…確か」
「はい!以前もこちらの屋敷でお世話になりました、竈門炭治郎です。貴方は確か、苗字名前さんと仰っていましたよね」
 玄関に立っていたのは、私がまだこちらの世界に来て間もない頃、この屋敷で数日静養した鬼殺隊士の少年だった。こんな小さな子も鬼と闘っているのかと、当時は驚いたものだ。
「お久しぶりです。…よくぞご無事で」
 まだ若い命が失われなくて良かったと、安堵の息に混ぜて無意識に言葉を漏らすと、隣に居たひささんが、とんとんと私の肩を叩いた。
「名前さん、風呂の湯加減を見て来てもらえますか。大分お身体が汚れておりますので、まずは清めていただきましょう。私は竈門様をお部屋に案内します。風呂の準備が整ったら、お声をかけて差し上げてください」
「は、はい!分かりました」
 すみません、と心苦しそうにする少年にぺこりと頭を下げ、慌てて風呂場へと向かう。浴室の風呂釜は、沸騰しているのではないかと思うほどの熱い湯で満たされていた。蛇口を捻って勢いよく湯船に注がれる水と熱い湯を手で攪拌させ、適温に調整すると、私はその足で竈門様の部屋へと向かう。
 部屋を汚さないための竈門様なりの気遣いなのか、彼は部屋の前の庭で汚染した羽織を脱ぎながら、縁側で羽を休める鎹烏にぽつりと話しかけていた。
「――なぁ、鎹烏。…義勇さんは、どうして俺や、他の柱の人達と距離をとろうとするんだろう。…あんなに優しくて強い人なのに」
 鎹烏は、興味がなさそうに「カァー」と啼いただけだった。一方私の心臓はばくばくと震えだす。竈門様は「義勇さん」と、間違いなくそう言った。それは、冨岡様のことだ。彼は、冨岡様のことを知っている?
「あの、冨岡様のことをご存知なんですか?」
 考えるよりも先に、身体と口が動いていた。私は竈門様に駆け寄ってその腕を掴み、縋るような口調で聞いた。
「えっ、あのっ、苗字さん?」
 竈門様は、大きな真ん丸の瞳をさらに見開き、驚いた様子で私を見つめた。
「あ…ご、ごめんなさい、いきなり…」
 呆気にとられた表情を浮かべる竈門様にはっと我に返った私は、慌てて隊服を掴んでいた手を離し、一歩後退る。自分の衝動的な行動が恥ずかしくなり、どう言い訳しようかと逡巡していると、目の前の竈門様が、小さく笑った気配がした。
「…苗字さんは、義勇さんを知っているんですね?」
「え…」
「すみません。俺…実は人より鼻が利くんです。苗字さんからは、不安そうな匂いと…その… 義勇さんを大切に思っている優しい匂いがして」
「ひぇっ、う、嘘?そ、そんなのが分かっちゃうの?」
 想像もしていなかった指摘に、声が上擦る。顔がみるみる熱くなっていくのを感じ、思わず両手で口を覆うも、匂いで感じ取ってしまうという彼に、自分から溢れ出る気持ちを隠す術はきっとないのだろう。
「それに…以前、義勇さんから貴方の匂いがしました」
「冨岡様から…」
「珍しかったので、俺、義勇さんに聞いたんです。そしたら義勇さん、分かりにくかったですけど、少し決まりが悪そうな顔をしていたので」
 目を三日月型に細めながら言う竈門様の言葉に、頬が益々朱に染まっていく。しかし、それは以前の煉獄様の言葉同様に、私の背中をそっと押してくれる。
「あのっ…竈門様」
「あ、俺のことは竈門でも、炭治郎でもいいですよ。苗字さんの方が年上なのに、様を付けられるなんて落ち着かないですから」
「じ…じゃあ、えっと…炭治郎くん」
「はい!」
「その…えっと…私…私が、冨岡様に――」
「俺の鎹烏に、義勇さんの場所を案内させます」
 意を決して言葉を口にするよりも早く、炭治郎くんの穏やかな声が鼓膜に流れ込んでくる。まるで自分の思考が伝播しているのではないかと思うほど勘の良い彼に瞠目していると、いつの間にか私達の傍まで来ていたひささんが、口元の優しい笑い皺を深めた。
「名前さん、そうと決まれば善は急げですよ。陽が暮れてからでは、鬼が出るかもしれません」
「鎹烏。苗字さんを、義勇さんの屋敷まで案内してもらえるだろうか」
「カァーッ」
「あ、あのっ、私」
 私を置き去りにして進む話に漸く口を挟もうとしたタイミングで、炭治郎くんがやんわり言葉を遮る。 
「義勇さんは、俺と妹の命の恩人なんです。だから、義勇さんには幸せになってもらいたいし、笑っていて欲しい。…義勇さんにも、心が休まる場所が…安心できる場所があって欲しいと思ってます。…今の俺じゃ、多分そうなれないから。でも、苗字さんなら、きっと義勇さんを孤独から救い出してくれる。…貴方の優しい匂いから、俺はそう確信してます!」
 炭治郎くんの人柄が滲み出る、眩しい太陽のような笑顔。その隣で、にこにこと穏やかな笑みを浮かべるひささん。
 私は二人に目で頷いて、今度こそ口を開く。
「私を…冨岡様の屋敷に案内してください。お願いします」

 冨岡様の立派な屋敷に到着する頃には、美しい夕焼け雲が西の空から広がって、頭上をオレンジ色に染め上げていた。昼間は温かさを滲ませていた風も徐々に冷たくなってきて、ぶるりと身震いしたところで、地面を踏む微かな音が鼓膜を掠めた。
 私が振り返るのが先か、彼が「名前」と言葉を漏らすのが先だったかは分からないが、その瞬間、私達の周りだけ時間が止まったようだった。
「…冨岡様」
「……何故、名前がこんな所にいる」
 一瞬目を張った冨岡様だったが、即座に端正な顔から感情の一切を消し去って、抑揚のない声で呟くように言った。
 握りしめた手に汗が滲み、外気に触れて冷たくなった下唇を噛む。また、冨岡様に拒否されてしまうのが怖かった。突き放されてしまうのが怖かった。
――普段の冨岡を見ていれば分かる!彼は、君が大切で仕方がないのだろうな
――苗字さんなら、きっと義勇さんを孤独から救い出してくれる
 煉獄様と炭治郎くんの言葉が頭の中で何度も繰り返される。
 拒絶されるのは怖い。でも、冨岡様が孤独であることの方が、私には怖い。辛い。
「用がなければ帰れ。もう陽も暮れる…隊士に送らせる」
 流し目でこちらを一瞥し、風のように私の横を通り過ぎる冨岡様の腕を、咄嗟に掴んだ。双眼を見開く彼に構わず、腹の底から絞り出すように声を張り上げた。
「か、帰りません!…っ、冨岡様は、私に嫌われたくてあんなことをしたかもしれないですけど、私は…あんなものじゃ貴方を嫌いになんてなれません!…だって…冨岡様が優しい人だってもう知ってるから。鬼に襲われて助けてくれた時も、眠れなくなった私を抱きしめてくれた時も…凄く、凄く…嬉しかった。私が辛かった時に冨岡様が傍に居てくれたように、私も…私も貴方の傍に居たいです」
 一世一代の大告白にも、冨岡様は顔色一つ変えていないように見えた。
「…帰れ」
 相変わらずにべもなく言う冨岡様にいよいよイライラしてきて、私は彼の羽織を思いきり引っぱり身体を引き寄せる。そして、形の良い冨岡様の薄い唇に、自分のそれを押し付けるように重ねた。目を見開く冨岡様の端正な顔が視界を覆う。
「好きです。冨岡様のことが好き。私は…貴方が安心できる場所になりたいし…そうなれるように努力します」
 離れた唇が素直な思いを形づくり、数秒の静寂が訪れる。山の裾にその姿を隠そうとする夕日が、私達を柔らかく包んだ。
「…名前は…変わり者だな」
 伸びた二つの影が重なった。そして私は、あっという間に冨岡様の胸の中に引き寄せられる。降参だと言わんばかりの息のような苦笑が耳に滲み、ぱっと顔を上げれば、彼は微笑を含んだ表情で、私を優しく見つめていた。
 氷のように冷えた手で顎を掴まれたかと思うと、もう一度唇が重なった。今度は冨岡様から、唇を押し当てられる。大晦日の時とは比べものにならないほど、優しくて、彼の心が伝わってくるようなキス。
 冨岡様の隊服を掴み、負けじと自分の気持ちを伝えるように、必死にキスに応える。自然と深まっていく口付けに暫く浸り、ゆっくりと唇が離れると、私は彼の筋肉質な身体に腕を巻き付け大きな胸に顔を埋め、嬉しさを噛み締めながら呟いた。
「…冨岡様にだけは、変わり者って言われたくないです」