触れられない


 玄関の掃き掃除を終えた私は箒を門に立てかけ、腰に手をあて身体を反らしながら、一等星が輝き始めた空を見上げる。夕方の色を残す空も、東のほうは既に紺色がかった夜に近い青に染まっている。 
 冬の陽が落ちるのは早い。屋敷の前の道に降り積もる落ち葉も殆どなくなるくらい、寒い季節になった。裸の枝が寒そうに震えており、漏れる息は外気に触れて白く染まった。
 あれから、また一月が経った。冨岡様はあの日以来、この藤の花の家紋の家を訪ねてくることはなかった。
 あの日、涙を頬にへばりつかせて帰宅した私を、ひささんは大層心配してくれた。勘のいい彼女のことだから、きっと私と冨岡様の間で何かがあったことは気づいていただろう。しかしひささんは、余計なことを探索することもなく、ただじっと私の傍で、背中をさすってくれていた。
 告白をした訳でもないのに徹底的にふられた気分だった。しかし、これで良かったのだと思う自分もいる。突然こちら世界に来てしまった時のように、私は忽然とこの世界から姿を消すかもしれない。そうなった時、誰かを恋い慕う気持ちなんて邪魔なだけだ。きっと苦しくて仕方なくなってしまうから。
――よく似合っている
 あの日の冨岡様の声が耳元で蘇る。素っ気ない言葉の裏側に確かに彼の優しさを感じた。後頭部の髪留めに触れ、トルコ石様のモチーフをぎゅっと握り締める。するとその直後、目の前でばさばさと黒い翼が空気を切った。それが何かを確認する前に、一羽の鎹烏が肩に舞い降りた。
「…この鎹烏…」
 何処か疲れたようにも見える鎹烏には見覚えがあった。そして、それが彼の鎹烏だと脳が情報を結びつけた時、心臓がドクンと大袈裟な音を立てた。微かに震え始めた手で濡羽色の羽を撫でれば、「カァー」と弱弱しい鳴き声に混ぜて、冨岡様が間もなくこの屋敷を訪れることを告げた。

「うむ、美味い!美味い!」
 堆く積まれていく空の皿、魔法のように無くなっていく御櫃の白米、大食漢の男性。
「これは君が作ったのか?料理の才があるな!感心する。ありがとう!」
 今日の食事の下ごしらえは殆どひささんがしてくれましたと訂正する間もなく、男性はまたお代わりを求めて空になった茶碗を差し出した。目の前の光景に唖然とする私とは対照的に、ひささんは動じることなくいつも通りの穏やかな笑みを浮かべながら、せっせと茶碗に白米を盛り付けていた。
 今日、この屋敷に冨岡様が来てしまう。彼の鎹烏である寛三郎さんからそれを聞かされた私は、ひささんに「今日だけは休ませて欲しい」と縋った。一体どんな顔をして冨岡様に会えばいいというのだろう。彼を目の前にすればきっと冷静で居られないと、そう思ったからだ。
 しかし、ひささんは私の心中を知ってか知らずか、それを許してくれなかった。いつもは菩薩のように優しいひささんがどうして、と嘆く間もなく、その時はやってきてしまった。
 しかし、屋敷を尋ねて来たのは冨岡様一人ではなく、彼の同僚である男性も一緒だった。ひささんによると、冨岡様と同じ柱の階級に就く立派な方なのだそうだ。名を、煉獄様と教えてくれた。
 冨岡様とは対照的で、太陽のように明るい性格の煉獄様の登場により、私は気まずい感情を起こす暇さえなかった。大食漢の煉獄様の食事の世話で天手古舞になってしまったからだ。
 逆にそれが有難い気もしたが、ふと息を吐いた瞬間に、煉獄様の隣で食事を口にする冨岡様を盗み見ても、彼と視線が絡むことはなかった。作り物のように整った無表情の顔からは、相変わらず何の感情も読み取れなかった。煉獄様のように美味いとも言わなければ、不味いとも言わない。
「美味かった!どうもありがとう。ご馳走様」
 一升炊いた白米が全て無くなると、煉獄様は手を合わせて綺麗な所作でお辞儀をした。良い所のお坊ちゃまなのだろうか。育ちの良さそうなに振る舞いに思わず目を奪われる。それにしてもフードファイター並みの食欲だと感心しながら、積み上がった皿を片付けようと腰を上げると、煉獄様は自分の使った食器を軽々と持ち上げて、「どこに運べばいいだろうか?」と私とひささんに笑みを向けた。
「炎柱様。それは私共の仕事にございます。風呂に湯を張ってありますので、湯浴みをしてお休みになってくださいまし」
「いや、俺も空の食器を運ぶことくらいしか出来ないのだ。手伝わせてくれ」
 煉獄様は心苦しそうに笑った。
 男らしくて気が利く彼に、自然と頬が緩んでしまう。流石組織の上に立つ人物だ。隊士の中には尊大な態度をとる者もいるが、彼はとても心優しい人だ。
 そして、冨岡様だって優しい。私はしかとこの目で見た。先ほど、冨岡様は煉獄様より一瞬早く、立ち上がろうと身体を動かした。それはきっと、この夥しい皿を一緒に運ぼうとしてくれたのだ。
 冨岡様が少しでも、煉獄様の十分の一でも感情を露わにしてくれたらと思わずにはいられない。そうすれば私は、もう少し勇気を持つことが出来るかもしれないのに。貴方の心の奥に、触れることが出来るかもしれないのに。
「左様でございますか。そうしましたら、お言葉に甘えさせていただきます。名前さん、炎柱様を台所までお連れして、そのまま浴室へ案内して差し上げてください」
「わ、分かりました!煉獄様、ありがとうございます。それではお手数ですが台所はあちらです」
「うむ、ありがとう!では冨岡、俺は先に風呂をいただくとする」
「承知した。俺は先に部屋に戻る」
 冨岡様も丁度食事を終えたところであった。煉獄様に事務的な返事だけすると、彼は流れる水のようにあっという間に食事場を後にした。一瞬でも目が合わないだろうか。そんなささやかな祈りを捧げながら冨岡様の背中を見つめたが、結局彼が私と煉獄様を振り返ることはなかった。
「君は、冨岡と好い仲なのだな」
 台所の流しに溜めた水に皿をつけた後、風呂場に煉獄様を案内している途中で、彼が興味深そうに言った。冬の夜の縁側は北極のようで、切れそうなほど冷たい風が容赦なく身体に吹き付け身を縮こませた、そのタイミングだった。
「ひ、ぇっ?」
 素っ頓狂な声を出しながら、思わず半歩後ろを歩いていた煉獄様を振り返る。彼の目には私と冨岡様が恋人に見えていたということか。
「ん?違うのか」
「ち、違います!私達はそんな関係じゃなくて…というか、そんなこと冨岡様は全く興味がないと思います」
「そんなことはないと思うが」
「ど…どういうことですか?」
 慌てて否定すれば、煉獄様は口端に柔らかい笑みを浮かべ、緩慢に首を左右に振った。私は、慌てて聞き返す。
「冨岡は、少し分かりにくいだろう。俺も、もう少し彼には大きな声でしゃべって欲しいと思うのだが」
「れ…煉獄様は声が大きいですもんね」
「はは、そうだな。…冨岡は感情や言葉をあまり外に出さない分、己の心の中では様々なことを考えているのだろうな。しかし、それ故に敵も作り易い。彼を勘違いしてしまう人間が多いのだ」
「そう…なんですね」
「正直俺は、冨岡がいつも他の人間と壁を作っている印象があった。それが柱である俺達でも変わらなかった。だが、君は違う!」
 一際大きな声で言うと、煉獄様はニコニコと小春日和みたいに笑いながら私の肩をぽんぽんと叩いた。
「私は…違う…んですか?」
「普段の冨岡を見ていれば分かる!彼は、君が大切で仕方がないのだろうな」
 どこか面白そうに言った煉獄様は、返すべき言葉か見つからず頬を染める私に向かって言葉を続けた。
「守るべき人がいるというのは大切なことだ。そしてそれは、大きな力になる」
「私が…私なんかがそんな」
「冨岡の心の拠り所になってやってくれ。君なら彼を上手く懐柔してくれそうだ」
 煉獄様は軽快に笑い、私の頭をまるで子供を褒めるようによしよしと撫でると、「もうここでいい」と、風呂場に向かって歩いて行ってしまった。ぽつんと縁側に取り残された私は、先ほどの煉獄様の言葉を頭の中で反芻する。
――普段の冨岡を見ていれば分かる!彼は、君が大切で仕方がないのだろうな
 冨岡様が、私を?
 そんなはずないと否定する自分と、そうだったらいいのにと冀う自分がいる。しかし、煉獄様がそう言ってくれたのだ。彼の力強い言葉には妙な説得力があった。背中を押された私は、踵を返して冨岡様の部屋へと向かう。今なら、彼の心に触れることが出来るような気がした。
 しかし、縁側の角を曲がったところで、何かにぶつかった。それが冨岡様だったと気が付くまで約一秒。そして、彼の冷たい声が耳に滲んだのは、それから数秒後のことだった。
「呑気なものだな」
「え…」
「俺が言ったことを…名前は少しも理解していない」
「ど、どういうことですか?」
 静かな怒りを滲ませたような冨岡様の声に一瞬怯むも、私は眉の辺りに力を込めて言い返す。
「鬼殺隊は、明日をも知れぬ身だ。そして俺達の使命は鬼を討つこと。それだけだ」
「なんで今そんなこと」
「…それは煉獄でも同じことだ」
 平坦な声で紡がれたその言葉の意味を漸く理解する。冨岡様に、先ほどの煉獄様との会話の一部を目撃されていたのだろう。そして彼の目には、私が煉獄様に色目を使っている、もしくはそれに近いような感情を持っている、緊張感のない女に見えてしまったに違いない。
「違う…違います!…っ、そうじゃない…そうじゃないのに。…なんでそんな風に言うんですか!」
 悔しくて、悲しくて、涙が体の奥から突き上げ瞼を熱くする。
 少しでも冨岡様に近づきたかった。冨岡様の心を打ち明けて欲しかった。初めて私に自分の話をしてくれた、あの夜のように。でも冨岡様は、こうして私を拒絶する。一時は凄く近くに感じた距離が、もう何光年も離れてしまった気がした。
「冨岡様の馬鹿っ」
 私の手は、彼の綺麗な顔を叩いていた。頬を幾筋も伝う涙をごしごしと拭って、目を張って頬を抑える冨岡様を置いて、彼の前から猛スピードで走り去る。
 今に雪でも降り出してきそうな寒さなのに、冨岡様を叩いてしまった私の掌は焼かれたようにじんじんと熱く、暫らく彼の頬の感触を残していた。