落涙を拭う人なし


 定食屋を出て、送っていくと言う冨岡様の申し出を断ろうとしたが、彼は頑として譲ってくれなかった。恐らく、先日私が鬼に襲われた件もあり、罪滅ぼしの気持ちがあるのかもしれない。
 定食屋の件がなければ、妙な期待を抱いただろう。しかし、冨岡様の言動に特別な意味はないのだと気づいた今、彼の隣に居るのが息苦しかった。心臓が、小さな悲鳴を上げているようにちくちくと痛むのだ。
「名前、どうした?」
 明らかに口数が少なくなった私を不審に思ったのか、冨岡様は彼の三歩後ろを歩く私を振り返りながら問うてくる。心の中の不安を見透かすように、綺麗な瞳がじっとこちらを見つめていた。
「な、なんでもないです!それより、連れて行ってくださった定食屋さんとっても美味しくて――」
 胸中を悟られまいと誤魔化すように努めて明るい声で言う。するとその間合いで、西の方角から突風が全身を叩くように吹きつけてきて、私は咄嗟に髪を抑えて目を瞑る。
「ひやぁ、凄い風でしたね」
 漸く風の勢いがおさまって目を開けた時には、頭の後ろで束ねていたはずの髪が風に靡いていた。そこで、髪留め代わりにしていた布切れを縫い合わせたリボンが、風に攫われてしまったことに気が付く。
「あはは、なんかリボンが飛ばされちゃったみたいです。冨岡様みたいに綺麗に纏めておかないからいけないですね」
 突風の名残を残す風にはためく髪を抑えつけ、苦笑混じりに言えば、冨岡様は数秒の間を挟んで「まだ時間はあるか?」と再び私に問いかけてくる。
「え、えっと…あの、はい、時間は全然あるんですけど」
 冨岡様の質問の意図がわからず、煮え切らない言い方をする私を見かねてか、彼は先刻と同じように毛先を意味もなく弄る私の手を引き歩き出した。
 全身を巡る血が、またドクンと大きな音を立てる。今度は、人にぶつかったわけでもないし、昼時のピーク時に比べれば大分通りからも人は捌けているのに、どうして冨岡様は私の手を取ったのだろうか。これも、彼の優しい一面の一つにすぎないのだろうか。
 冨岡様の考えていることなんてちっとも分からない。薄い表情からは、彼の思考や気持ちなんて何一つ読み取ることは出来ない。それが不安であるにも関わらず、再び繋がった手が嬉しくて、結局私は、冨岡様が女性物のアクセサリーや小物を扱う店に入るまで、その手を離すことが出来なかった。
「気に入った物を選ぶといい」
 店に入るなり、冨岡様はぽつりと言った。恐らく、先ほど私のリボンが風に飛ばされたのを見て、気を遣って連れてきてくれたのだろう。店内には玉簪や髪留め、リボンや組紐など女性が思わず胸を弾ませてしまいそうな商品が並べられていた。
「い、いいです。さっきのリボンは本当に布を縫い合わせて作った襤褸みたいなものなので、無くなってもなんてことなくて」
 気に入った物を選べと言うくらいだから、冨岡様は私に買ってくださるつもりなのだろう。しかし、彼に贈ってもらう理由がない。寧ろ、お礼をしなければいけないのは私の方だと言うのに。
「名前には色々と世話になっている。…俺が……礼をしたいだけだ」
「そ…そんな」
 心臓が細かく震えだす。平静を装うとすればするほど、顔が熱くなっていくのが分かる。冨岡様にとってはただの恩義にすぎないだろうに。変に意識しているのはきっと私だけだ。
「――あら、可愛らしいご夫婦さんですこと。いらっしゃいませ。今日は何をお探しかしら」
 肋骨の内側で跳ね回る心臓を抑えようと胸に手をあて、どうしたものかと落ち着きなく視線を漂わせていると、店の奥から五、六十代くらいの女性がニコニコと人の好さそうな笑みを浮かべて訪ねてくる。
「あ、私達は」
「女性用の髪留めを探している」
 咄嗟に夫婦であることを否定しようとした私の言葉を遮った冨岡様を、思わず凝視してしまう。しかし彼は、いつもと変わらぬポーカーフェイスだった。どうして、夫婦であることを否定しないのだろう。私達は夫婦どころか、恋人同士でもなんでもないというのに。
 それに冨岡様は、先ほどの定食屋の娘と好い仲なのではないのか。もしくは、たまたま入った店の店主にわざわざ訂正することでもないと思ったのだろうか。
「そうですねぇ。お客様は、この色の髪留めなんかが似合うんじゃないかしら?」
 店内を数秒眺め回し、女性店主は口元の笑みを深めて、ある商品を手にした。それは、ターコイズ色の組紐の真中にトルコ石のような星のモチーフが取りつけられている、私の時代で言うヘアゴムだった。ゴムの代わりに組紐を使用しているため、断然こちらの方が高級感があるのだが。
「…凄く、素敵な青色ですね」
「水浅葱という色です。お客様の優しい雰囲気にぴったりかと思いまして」
「みずあさぎ…」
 女性店主が商品を手渡してくれる。拒否する訳にもいかず、受け取ってそれをまじまじと眺めれば、きめ細やかな技術と透き通った水のような美しいブルーに目を奪われる。それは、冨岡様の瞳に似ているような気がした。
「良ければこれで髪を結ってみられますか?」
「え?だ、大丈夫です。そもそも買うつもりも本当はなくて…」
「名前、貸してみろ」
 私と店主のやりとりを何も言わずに眺めていた冨岡様だったが、私が試着を断ろうとすると、唐突に会話に口を挟み、するりと手から髪留めを奪っていく。
「あ、あのっ、とみおかさ…」
 言い終わらぬうちに、思わず赤面して口を噤む。冨岡様が躊躇なく私の髪に触れ、それを組紐で器用に束ねてくれたから。冨岡様がこんなにも見事な手さばきで女性の髪を結えるなど想定外だったが、彼自身も髪が長く一つに束ねているため、慣れているのだろうと一人得心する。
「あら、お客様、とてもお似合いですよ!ほら、こちらの手鏡と店の鏡でご覧になってみて」
 大袈裟にも聞こえる賞賛の言葉を口にした店主は、すかさず手鏡を渡して私を鏡の前に誘導した。合わせ鏡で髪を束ねる髪留めを確認すれば、確かに、上品な色合いが女らしさを引き立ててくれているような気がした。
「はい…私には勿体ないくらい素敵です」
「…いいんじゃないか」
「え?」
「店主、これを貰えるか。そのままつけていく」
 冨岡様は微かに口角を持ち上げ感想を述べると、こちらが躊躇する時間も与えてくれず、さっさと会計を済ませてしまった。
「冨岡様…こんな高価な物…私が頂くわけには」
「不要なら捨てればいい」
「と…冨岡様」
 間髪入れずに言った冨岡様に観念した私は、大きな息を吐いた後、折り目正しく礼を述べる。
「ありがとうございます。…ずっと大切にします」
「…ああ」
「本当に見た目も中身も素敵な旦那様で羨ましいです。うふふ、またいらして下さいね」
 商品が売れたこともあるのか、女性店主は殊更楽しそうに言って私達を送りだした。「旦那様」という言葉を、冨岡様はやはり否定する様子はなかった。

 藤の花の家紋の家に到着する頃には、太陽は既に沈み、頭上の空は落ち着いた黄色と橙色の夕焼けに輝いていた。
「あの、冨岡様。今日は本当に色々とありがとうございました。美味しい食事もご馳走になって、あの、こんな素敵な髪留めまで贈っていただいて」
「そう何度も礼を言われるようなことをしたつもりはない。それに……よく似合っている」
 数秒の間を置いて、冨岡様の口から紡がれた言葉は、私の胸に切ない痛みをもたらした。「冨岡様は…先ほどの定食屋の娘さんと恋人…あ、恋仲とはいかなくても、好い関係ではないんですか?」
 深く考えるよりも先に、唇からぽろりと零れてしまった言葉にしまったと思う。しかしそれは冨岡様にもしっかり届いてしまったようで、彼は眉を少しだけ動かして私を見た。
「店主が教えてくれたんです。その…冨岡様は、娘さんに会いに定食屋に通っていたんじゃないかって。…あ、あの娘さんも凄く美人ですもんね!誰が見ても冨岡様のこと凄く好きなんだって分かるし、正直…本当に美男美女でお似合いだなと思ったので。…だから…私と一緒に食事をしたり、お礼とはいえ私に贈り物をしたなんて知ったら傷つくんじゃないかな…と思いまして」
 引き返すことが出来ず無駄に明るい口調で言葉を続ければ、冨岡様は出会った頃の能面のような無表情に戻っていた。一瞬にして彼との距離が離れてしまったような、冷たい表情にも見えた。
「…俺達鬼殺隊の使命は、鬼を討つことだ」
「え…」
「それ以外のものなどない」
 早く屋敷に入れ。にべもなく言って、冨岡様は一瞬にして姿を消した。
 言葉が、心に重く圧し掛かる。
 先程の定食屋の娘だろうが私だろうが関係ない。冨岡様にとって愛だの恋だのといったことは些末なことなのだ。最初から、彼の頭にそんな色恋が入る隙などない。
 酷く自分が惨めに思えて、私は暫くその場を動くことが出来ないでいた。
「…だったら…こんな風に優しくしないでよ」
 贈られたばかりの髪留めに触れながら、雨粒が落ちるようにぽつりと呟いた言葉は、微かに震えていた。
 気づけば、目に映る景色は闇に呑み込まれており、徐々に視界が滲んでいった。