笑顔の裏側


「全て順調にいっているようで安心しました。薬もちゃんと飲んでいただいていますか?」
「はい。薬はちゃんと飲んでいます。…でも、今のところ杏寿郎様とそういうことはなくて…」
「そうですか。しかし夫婦なのですから、いつそんなことがあってもおかしくないでしょう」
「…はい」
「お嬢様の代わりである名前様と杏寿郎様の間に子が出来たら困ってしまいますから。薬の内服と日記の記載は引き続き宜しくお願いいたします」
 一か月分の薬が入った薬袋を私に手渡すと、送ります、と上質な洋服を纏った男性が立ち上がる。彼は、私の自宅を訪ねてきた大河内家の世話人だ。今日は定例報告のため、杏寿郎様が任務で留守の間に、大河内家を訪れていた。
 しかし大河内家の当主も奥方も私に顔を見せることはなく、目の前の男性も淡々と確認を済ませるだけだった。
「ま、待ってください!あの…母の治療費はどうなるんですか?元々、そういうお約束だったと思うのですが。それに、お嬢様は…麗華様の行方はまだ分からないのですか?」
 男性に釣られて立ち上がった私は、客間を出ていこうとする彼の腕を引く。金に卑しいと思われるかもしれないが、取引は取引だ。私は善意で麗華様の替玉をしているわけではない。それに、彼女の行方だって気になる。麗華様が見つからない限り、私はこの生活を続けなければならないのだから。
「成功報酬は纏めてお支払いします。ですが、それは全てが終わってからの話。お嬢様と問題なく入れ替わっていただくまでが、貴方の仕事なのです。それが上手くいかなければ、成功したとは言い難い」
「それはそう…ですけど」
「心配せずとも、お嬢様はじきに見つかります。もう場所の特定は出来ている」
「そうなんですか?」
「ええ。ですから貴方は、くれぐれも杏寿郎様にばれないよう、務めを果たしてください」
 上手く丸め込まれた気もするが、私は首を縦に振るしかなかった。一度引き受けた仕事だ。最後までやりきらなくてはならない。しかし、大河内家の難しい要求を呑み、従順に指示に従っている割には、私や家族への対応が素っ気なく感じる。足許を見られているのかもしれない。
 なんとなく腑に落ちないまま、私は杏寿郎様の屋敷に戻るため、準備された車に乗り込んだ。

 屋敷に戻り玄関に入ると、土の匂いが鼻孔を掠めた。匂いに誘われるように広々とした玄関の一画へ視線を移せば、薩摩芋が溢れそうなほど入った段ボールが置かれていた。
「麗華様、お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
 玄関の戸を開ける音を聞きつけたハナさんが、恵比須顔で迎えてくれる。
「久々のご実家にしては早いご帰宅でしたね。杏寿郎さんはまだ戻りませんし、もっとゆっくりされて来ても良かったんですよ」
「はい、実家はあまり居心地が良くなくて。そ、それより、これは?」
 大河内家の話題については曖昧な笑みを返して誤魔化し、私は直ぐに話題を切り替える。
「そうそう、これ。煉獄家の御近所の農家さんからお裾分け。今は丁度薩摩芋の種付けの時期で、昨年収穫したお芋が食べきれないから杏寿郎さんに食べて欲しいって持ってきてくれたんです。杏寿郎さん、薩摩芋が大好物ですからね」
「そういえば、祝言の夜に仰っていました」
「今からこれで、杏寿郎さんの好きなお食事を作ろうかと思って。麗華様も手伝ってくれますか?」
 ハナさんは履物を引っ掻けて玄関に降りると、箱から形の良い大きな薩摩芋を取り出してニッコリと微笑んだ。家を不在にしがちな杏寿郎様に食事を作る機会はそう多くない。いつも彼に良くしてもらっている分、少しでも感謝の気持ちを伝えたい。それは麗華ではなく、私の、名前の気持ちだった。
「はい!お手伝いさせてください」
「ふふ、良かった。杏寿郎さんは、まぁ昔からよくお食べになりますから。ここにある量ならぺろりと平らげちゃうんじゃないかしら」
「ハナさん、流石にそれは杏寿郎様でも無理ですよ」
 ハナさんに倣っていくつか薩摩芋を手に取り笑いながら言えば、ハナさんは笑みの皺を深めてしみじみと呟いた。
「本当に、素敵な笑顔ね」
「え?」
「麗華様のその笑顔に、杏寿郎さんも力を貰っているんでしょうね」
「私の…笑顔に?」
 先日杏寿郎様とかき氷を食べに行った際、彼に笑顔を褒めてもらったことを思い出す。自分ではそんなに意識したことはなく、口を開けてぽかんとしていると、ハナさんは記憶を辿るようにぽつりぽつりと語り始める。
「麗華様も、杏寿郎さんの境遇はお聞きになっているでしょう。煉獄家は代々鬼狩りを生業とする由緒ある御家だけれども、お母様を早くに亡くされて。今は当主の槇寿郎様も酒浸り…。歳の離れた千寿郎さんもいらっしゃるし、多くのことを一人で背負ってこられたんです。当然、私達女中にも決して弱みを見せてくれることも、甘えてくれることもなかった」
「そうだったんですか…」
 杏寿郎様のご家族のことについては少しだけ聞いていた。しかし、あまり深くは踏み込んではいけないような気がして、私はその話題を意識的に避けていた。
「でも、麗華様と一緒になってからの杏寿郎さんは、穏やかな表情を見せるんですよ。勿論、ずっと小さな頃から彼を見てきた私だから、分かる変化なのかもしれないですけどね」
「本当に…本当にそうなんでしょうか?」
「ええ、勿論。麗華様が、杏寿郎様が唯一肩の力を抜ける存在なんだって、私も嬉しくなりました。親同士が決めた結婚で、正直、不安な気持ちもあったんですよ。実の母親じゃなくても、私も杏寿郎さんが可愛いですからね。でも、もうそんな心配は不要ですね。女中が偉そうに言えることではないですが、麗華様にお嫁に来てもらえた煉獄家は本当に幸せですよ」
「そんな、私なんて」
「いいえ。きっと麗華様でなければ、ダメでしたよ。…杏寿郎さんのこと、支えてあげてくださいね」
 ハナさんは少しだけ声を震わせ、私の手を取りぎゅっと握った。優しい目が少しだけ赤くなっているのを見て、ずきずきと胸が痛んだ。
 先日も、杏寿郎様の同僚である宇髄様から同じようなことを言われた。私が演じる麗華という存在が周囲に認められれば認められていくほど、罪悪感がどんどん膨れ上がってくる。私はそんな風に賞賛して貰える人間ではないというのに。
「じゃあ、夕餉の準備を始めましょうか。杏寿郎さん、きっとお腹を空かせて戻ってくるでしょうから」
「は、はい。私、着替えてきます」
「それにしてもこれだけ薩摩芋を食べたら、杏寿郎さんも頑張れるんじゃないかしら」
「え?」
 後ろめたい気持ちを抑え込んで、玄関の框を跨ごうとしたところ、ハナさんが茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべながら言う。
「あら、麗華様ご存知ないのかしら?この品種の薩摩芋は特にね、男性を元気にしてくれる栄養価が高いんですよ。早く二人の可愛い子が見たいというのは、我儘かしら」
「ハ、ハナさん」
 反射的に顔が熱くなり、反応に困った私は弱々しく彼女の名を呟くことしか出来なかった。ハナさんは殊更楽しそうに笑って、私よりも一足早く屋敷の奥へと消えていった。しかし、彼女の後姿が見えなくなると、恥ずかしい気持ちを塗り替えるように切ない気持ちが沸き上がってきた。
 ハナさん、ごめんなさい。貴方の願いを叶えてあげることは一生出来そうにありません。私は下唇を噛んで、薬袋を忍ばせた左胸のあたりを、ぎゅっと掴んだ。



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