偽装痕跡


 祝言から少し経ったある日の昼下がり、専用に与えられた部屋の窓から差し込む陽を照明代わりにしながら、私は一冊の日記帳に筆を走らせていた。時折筆の尻で顎をかきながら、視線を宙に漂わせて杏寿郎様との遣り取りを想起する。
――名前様には毎日この日記帳に、その日の行動や杏寿郎様、その他の方とのやり取りを細かく記載していただきます。麗華お嬢様を無事に連れ戻し名前様と入れ替わった際に、齟齬が生じてはいけない
 替玉の話を引き受けた際、大河内家世話人の男性は薬の内服と一緒に私に指示を出した。彼のいうことは尤もで、杏寿郎様にばれないようにするためには欠かしてはならない作業だろう。反対するつもりはない。しかし、その日の出来事を書き連ねるたびに、私は自分の罪を自白しているようで、あまり愉しい気分にはなれなかった。
 祝言の翌日から、杏寿郎様は任務に発たれていた。祝言の夜に言っていた通り、彼はとんでもなく忙しい身だった。鬼殺隊で最高位の隊士であることも影響しているようだ。
 張り合いがないわけではないが、正直に言うと、安堵の気持ちの方が大きかった。杏寿郎様と一緒にいる時間があるだけ、彼に嘘を吐く時間が増えてしまうということだ。割り切って考えようとはしているが、時々良心の呵責に耐えられなくなる。
 日記を書き終えた私はそれを文机の引き出しにしまって、しっかりと鍵をかける。決して、杏寿郎様の目に留まることがあってはならない。天井に向かって身体を思いきり伸ばした後、ふと壁掛け時計に目を遣れば、すでに午後一時を回っていた。どうりで腹が減ってくるわけだ。煉獄家の女中のハナさんと一緒に作った朝食の残りがあるはずだ、と私はゆっくり腰をあげる。
 ハナさんは、一日一回はこの屋敷を訪れ、私の身の回りの世話をしてくれた。煉獄家に長く仕えている彼女は、とても温和な人柄で私も直ぐに打ち解けることが出来た。しかし、彼女のことも騙しているのかと思うと、胸が苦しかった。
「麗華!今戻った」
「っ!」
 部屋の襖に手をかけた間合いで、扉が勢いよく開け放たれる。同時に溌溂とした声がうるさいくらい耳に響いて、隊服姿の杏寿郎様が視界を覆った。
 心臓が止まりそうなくらい驚いた私は、声も出せないまま、よろけてストンと尻餅をついてしまう。
「む、すまない。間合いが悪かったか」
「ごめんなさい。ご帰還にはもう数日あると思っていたので、吃驚してしまって」
 驚愕を滲ませた声で言えば、杏寿郎様は申し訳なさそうに笑って、私の手を引き立たせてくれる。改めて対面したところで、彼は私の髪を優しく撫でてくれた。草の青い香りが鼻先を掠める。
「おかえりなさいませ、杏寿郎様。ご無事で嬉しいです」
「ありがとう。麗華も特に変わったことはなかったか」
「はい。私は何も。ハナさんにも色々と手伝っていただきましたので」
「そうか…」
「それよりも、随分早いご帰還でしたね」
 首を傾げながら言えば、杏寿郎様は目を細めて頭を撫でていた手を頬に滑らせてくる。
「折角夫婦になったというのに、俺は祝言の翌日から出ずっぱりで、麗華に何もしてやれないのが気掛かりでな」
 杏寿郎様の言葉にじんわりと胸が温かくなる。よく見ると、杏寿郎様の大きな瞳がうっすらと赤くなっている。寝る間も惜しんで、私のために一刻も早く帰ってきてくれたということなのだろうか。
「そんな!私のことなどお気になさらないでください」
「気にさせてくれ。俺は君の夫なのだから」
「杏寿郎様…」
「麗華、もう昼食は済ませてしまったか?」
「い、いえ。丁度今から準備をしようと」
「それならば良かった。昼食の準備は不要だ。今から少し外へ食事に行こう。君を連れて行きたい店が、実は沢山あるのだ」
 任務終わりとは思えぬ溌溂とした元気な声に気圧されて、反射的に首を縦に振ってしまう。
「俺は着替えてくるから、少し居間で待っていてくれ」
 破顔した杏寿郎様は、最後にもう一度私の髪を撫でると、羽織を翻して自室へと消えていく。
 触れられた箇所が何故だか焼かれているように熱くて、私は、先刻と同じくらい驚いた。

 隊服から鉄紺色の着流しに着替えた杏寿郎様が連れて来てくれたのは、私のような庶民では到底入ることが許されない、格式高そうな料亭だった。長屋門を潜って石段を登れば、広大な庭園が視界に飛び込んでくる。青々とした新緑が眩しく、どこかから甘い花の香りも漂ってくる。
 正直この料亭は、私の考えていた外食の範疇を超えていた。やはり良家の御子息と御息女が外で食事をするとなれば、必然的にこういう場所になってしまうのだろうか。
 屋内に入れば、漆塗りの廊下を通って数奇屋作りの個室に通される。付け焼刃の礼儀作法では店の者に正体がばれてしまうのではないかと冷や冷やしながら、慇懃に言葉をかけてくる女将に曖昧な笑みを返し、なんとかこの場をやり過ごした。
 折角杏寿郎様が気を遣って連れてきてくれたのに、心理的な圧迫感の中で口にする食事の味など、少しも覚えていなかった。
「ここは煉獄家が贔屓にさせてもらっている店なのだが…ひょっとすると、食事が口に合わなかったか?」
 昼食を済ませたところで、杏寿郎様は眉を窄めて私に尋ねた。
「とんでもございません。とても美味しくいただきました」
「すまない。君のような御令嬢の口にどんな食事が合うのか…俺も良く分からなかったのだ」
 私は自分を殴りたくなった。何が完璧に麗華様を演じてみせるだ。ちっともお嬢様らしく振舞えていないではないか。杏寿郎様は食事を楽しめなかった私の様子を敏感に察知して、自身の選択を悔いているのだ。
「違うんです。あの…少し緊張してしまっただけなのです。ですから、食事が口に合わないわけでは決してございません。杏寿郎様がここに連れてきて下さって、とても嬉しかったです。それに私は好き嫌いもありませんし、何処へ連れて行っていただいても嬉しいですし、何を食べても美味しいです」
 昂った声には奇妙な焦燥感が滲んでいた。杏寿郎様を悲しませたくないと思ったからだ。興奮した様子で言葉を並べた私に彼は一瞬目を張ったが、直ぐに相好を崩し言葉を続けた。
「麗華は、優しい子だな」
「そ、そんなことないです。…世の中には貧困で食事にありつけない人もいるのですから、こうして食事を口に出来る私達は幸せです。それに、食事や、その食材を作ってくれた人のことを考えたら、やっぱり食べることで感謝の気持ちを表現したいと思うんです」
「…やはり君は、俺の知る御令嬢達とは、少し違うな」
 饒舌に語った私に、杏寿郎様は少し間を置いてからゆっくりと呟いた。庶民の感覚で話をしてしまっただろうか、と言い終わってから慌てるも、彼は気にする様子もなく寧ろどこか嬉しそうに口元を緩めて立ち上がる。そして私が座る側へ回ると、大きな掌をすっと差し出してくれた。
「あの、杏寿郎様」
「そろそろ出よう。このあともう一軒、麗華を連れていきたい場所がある」
「もう一軒…ですか?」
「君は先日、甘いものが好きだと話していたな」
「は、はい!」
 杏寿郎様の手に自身の手を添えながら、こくこくと頷く。甘味は麗華様の好きな食べ物であったが、それは私も同じだった。好きな甘味の種類は違えど、数少ない彼女との共通点が少しだけ私の心を軽くしてくれる。
「その甘味処はこの店のように静かではないし、街の中にあるから少し煩いくらいかもしれんが、味は保証する」
「ありがとうございます。楽しみです」
 声を弾ませたとほぼ同時に杏寿郎様が腕を引いて立ち上がらせてくれる。刹那、泣きたくなるような痺れが瞬時に脹脛に広がって足の感覚がなくなり、私は体勢を崩してしまう。
「おっと、大丈夫か?」
 畳に倒れそうになった私を、杏寿郎様が大きな胸で咄嗟に受け止めてくれた。広くて硬い胸が頬にあたり、肋骨の内側が疼いた気がした。
「も、申し訳ありません。少し足が」
「ふっ…君はやはり、正座が苦手なのだろう」
「っ…ごめんなさい」
 情けない声で謝罪する。杏寿郎様と初めて会った時から何も成長出来ていない自分に心底呆れる。しかし彼はそれを咎める様子もなく可笑しそうに笑いながら、私の両脇に手を差し込んで崩れた態勢を整えてくれた。
 そして、凛々しい瞳を優しく細めると、杏寿郎様は私の両肩に手を置いて、耳元にそっと唇を寄せた。
「杏寿郎様…」
「麗華は可愛いな。俺は君のことを…益々好きになれそうだ」




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