仮初の夫婦


 祝言は、杏寿郎様の立派な屋敷で行われた。結納の際に一度訪れた煉獄家とは別の、杏寿郎様の屋敷だ。ここが、私達夫婦が生活していく場所となる。
 流石良家同士の祝言である。当日は多くの人々が参列し、口々に祝いの言葉を贈ってくれた。その言葉を受け取るたびに、杏寿郎様だけでなく、多くの人を騙しているのだと暗澹とした気分になった。
「はぁ…」
 祝言の後の祝宴を終え、漸く最後の参列者を見送った私は、安堵と疲労から無意識に溜息を漏らしてしまう。ただ祝言を挙げるだけならまだしも、一般家庭で育った私が、華族の御令嬢と身を偽って振る舞うのだ。心身ともに疲弊するのは最初から分かり切っていたことだった。
「麗華、大丈夫か?」
 そんな私の様子を心配した杏寿郎様が労わるように優しく声をかけてくれ、白無垢を纏った肩を引き寄せた。初めて父親や兄弟ではない男性に触れられて、少しだけ身を固くする。
「だ、大丈夫です。少し、疲れてしまって」
「無理もない。君の言う通りだ。…少し早いが、もう休もうか」
 一瞬間を置いて杏寿郎様が問うので、ゆっくりと首肯する。すると彼は、今日一日身の回りの世話をしてくれた煉獄家の女中である、ハナさんを呼んだ。
「麗華を寝室に連れて行くが、構わないか」
「勿論でございます。杏寿郎さんも麗華様も、本日はお疲れになったでしょう。寝床の準備は済んでおりますから、どうぞお休みください。私は片づけを終えたら、失礼しますね」
 ハナさんは穏やかな口調で私達を慰労し、微笑の皺を口角に刻んで一礼した後、再び屋敷の奥へと吸い込まれるように消えていった。
「麗華、手を」
「は、はいっ!」
 杏寿郎様は私の手を取り立たせてくれると、寝室へと足を進めた。二人で生活していくには広すぎる屋敷の一番奥の部屋が、閨になっている。立派な襖を開けて寝床の支度がされている部屋を見た途端、一気に不安な気持ちがせり上がってくる。薄暗い行燈によって照らされた、ぴったり寄り添うように敷かれた二組の布団の意味を分からないほど、私は子供ではない。
 替玉の話を引き受けた時は、夫婦の夜の営みについてなど考えもしなかった。そこまで考えが至れば、この話を引き受けなかったかもしれない。好きでもない男性に、本当の夫でもない男性に抱かれるというのは、一体、どんな気持ちなのだろうか。
 そして、大河内家の世話人を名乗る男性から、替玉をするにあたり毎日内服するよう言われていた薬の効果に漸く合点がいく。大河内家は、私が杏寿郎様との子を孕んでしまわぬよう、避妊薬を飲むよう命じたのだ。確かにそうだ。替玉の私が、実際に大河内家の血を引かない私が子供を身籠りでもしたら大変だ。しかし夫婦をする以上、こうした夜の営みは避けては通れない。
「麗華…大丈夫か?疲れているのなら、無理する必要はない」
 杏寿郎様が、自身の袴の帯を緩めながら優しい眼差しを私に向けてくれる。祝言後の初夜だからといって、無理やり行為に及ぶつもりなど毛頭ないらしい。杏寿郎様の配慮に感謝しながらゆっくり首を左右に振って、今度は私から質問を投げかける。
「私は、構いません。…それよりも…杏寿郎様は、本当によろしいのですか?」
 替玉として麗華様を、完璧な妻を演じきる。そうすることが、私は罪の気持ちを軽くしてくれる。優しい仮初の夫を悲しませないために、この身を捧げることには然程抵抗はなかった。誠実な杏寿郎様だからこそ、そのように思うのかもしれないが。
「初めて君に会った時も言ったと思うが、俺は親の決めた結婚だからといって義務的に夫婦をするつもりはない。麗華を誰よりも大切にしたいと思うし、麗華を愛すると、今日の祝言でも誓った」
「杏寿郎…様」
 真剣な瞳に射抜かれるように見つめられ、反射的に頬が熱くなる。そして杏寿郎様の誠実な言葉を聞くたびに、胸の痛みが降り積もっていく。複雑な胸中を悟られないよう視線を逸らしたのとほぼ同時に、打掛が畳にパサリと落ちる。咄嗟のことで反応出来ずにいると、杏寿郎様は流れるような動作で帯を解き、緩んだ襟元から覗いた項にそっと口付けを落とした。
「っ…ぁ」
 未知の刺激に、自分のものとは思えぬ湿っぽい声が漏れる。背筋が粟立ち身体の奥が妙に疼いて今まで経験したことのない感覚に身を包まれる。
「…麗華」
 耳に心地よい声で私の名を囁くと、杏寿郎様は私を軽々と抱え上げ、ガラス細工を扱うように布団へと横たえた。
「君の唇に…口付けても、いいか?」
 ゆっくりと私に覆いかぶさった杏寿郎様は、節くれだった指で唇をそっと撫でた。この期に及んでも私に無理を強いるつもりはないようだ。彼の優しさに鼻の奥がつんとなる。
「勿論です…杏寿郎様」
 これから口付けよりも凄いことをするのだ。私は躊躇なく首を縦に振ってから唇に触れていた杏寿郎様の手に自分のそれを重ねて、ぎゅっと目を瞑る。しかし、いくら待っても想像していた熱が落とされることはなかった。何か余計なことを言ってしまっただろうか、と閉じた目を開けようとした間合いで、息をするような微かな笑い声が降ってくる。
「ふっ、すまない。…怖がらせてしまったな」
 杏寿郎様は私の乱れた掛下を丁寧に整えてくれると、そのまま布団に肘をついて身を横たえた。
「杏寿郎様!私、大丈夫です。どうぞ、続けてください」
「麗華、無理をする必要なないと言っただろう」
 無理なんてしていない。寧ろそれが、私に課せられたことだ。その謝礼として私はお金を受け取るのだから。
 余程必死な顔をしていたのか、杏寿郎様は口許の笑みを深めて、私の髪を大切そうに撫でた。そして額にかかった前髪を避け、そこに触れるだけの口付けを落とす。
「君は気づいていないのかもしれないが、大分身体に力が入っている」
「え…」
「それに俺も、よくなかった。考えてみれば麗華も俺も互いのことを殆ど知らない。…君が怖がるのも無理はない」
「互いのこと…」
「今日は、麗華の話を聞かせてくれないか。君の生い立ち、好きな物、知りたいことは山ほどあるのだ」
 頭に添えられていた手が肩に回され、体と体の距離を詰められる。端正な顔が視界を覆い、心臓がドクンと大袈裟な音をたてた。しかし、事前に大河内家で叩き込まれた麗華様の情報以外のことを聞かれた場合は返答に窮してしまうため、私は慌ただしく切り返す。
「で、では、まずは杏寿郎様のことを教えてください」
「む、確かにそうだ。自分の話もしないで女性に物を尋ねるのはいただけんな」
 何が聞きたい?と優しく目を細めた杏寿郎様に、咄嗟に頭に浮かんだ疑問を口にする。
「杏寿郎様のお仕事について、お聞きしたいです」
「よもや、ご両親から聞かされていないのか」
 杏寿郎様の大きな双眸がさらに見開かれる。大河内家が自分の娘を煉獄家に嫁がせたのは、煉獄家が大河内家にとって有益なものであるからなのは自明の理だ。娘が知っているのは当然と思うだろう。
 取り返しのつかない質問をしてしまったのではないかと、一瞬、背筋が寒くなる。しかし、杏寿郎様は私を訝しむ様子もなく、眉尻を下げ申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「麗華は煉獄家の家業を知った上で、俺の元に来てくれたのだと思っていた」
 彼の口から紡がれた言葉に疑問符が浮かぶ。煉獄家の家業を知れば、嫁ぎたくなくなるとでも言いたげな口ぶりだ。
「杏寿郎様…それは」
「うむ。…煉獄家は、代々鬼狩りの家系なのだ」
「鬼狩り?」
「麗華は鬼の存在を聞いたことがあるか?」
 以前母から、夜になると人を喰う鬼が出るという話を聞いたことがあった。でもそれは、私達子供を脅して従順させるための、単なる作り話だと思っていた。
「昔母から。…ただ、作り話だと思っていました」
「いや、謝る必要はない。ご両親も君を驚かせたくなかったのかもしれんな」
「杏寿郎様は、鬼狩り様の家系は嫁ぐ家として相応しくないような言い方をされました。…それは、どうしてなのですが」
「……明日の命の保障がないからだ」
「明日の命の…保障」
 十秒程の沈黙を挟んで、杏寿郎様が話し始める。彼の口から紡がれた言葉を繰り返し、私はそのまま続きに耳を傾けた。
「ああ。俺が所属する組織は、鬼殺隊という秘密裏の組織だ。鬼殺隊は、日々鬼の討伐にあたっている。鬼は夜しか活動出来ないから、活動するのは基本的には夜になる。鬼の目撃情報があれば、非番だろうとなんだろうと現場に出向かなければならないこともある。…故に、俺は家を不在にすることが多いだろう。それだけでも妻となる人に寂しい思いをさせてしまうと思うのだが…」
 一気に言った杏寿郎様が一度言葉を切って、小さく息を吸う。ここからが、「明日の命の保障がない」の答えなのだろう。
「俺達が相手にしている敵は…とても強大だ。正直…今の鬼殺隊士が全て束になってかかっていっても、返り討ちにされてしまう可能性も大いにある」
 杏寿郎様は少しの迷いも感じさせない言葉で私に言う。彼が常に死を覚悟し、自身の任務を遂行していることが真剣な口ぶりから伝わってきた。
「麗華はこの話を聞いても…俺の妻でいたいと思うだろうか」
「杏寿郎様…」
 ゆっくりと名前を呟いて、私は首を縦に動かした。本当に杏寿郎様は、強く優しい人なのだろう。
「麗華…」
「私はその話をお聞きして、改めて杏寿郎様を尊敬いたしました。どうか…お傍にいさせてください」
 私の言葉に嘘はなかった。仮初の夫。だが、せめて私が身代わりとなる間だけは、煉獄麗華として、杏寿郎様の心の拠り所になれるよう精一杯努めよう。
「…ありがとう。…君と一緒になれた俺は幸せ者だな」
 幸せを集めたように穏やかな笑みを浮かべた杏寿郎様は、「次は俺の番だ」と気分を変えるように言った。
 こうして私達は、いつしか眠りにつくまで互いの話をした。杏寿郎様とする会話はとても楽しくて、前向きな気持ちになれた。故に、苗字名前の生い立ちのことも、家族のことも、好きな食べ物も、真実を話すことが出来ないことが、少し寂しかった。
 私は期間限定の煉獄麗華であり、苗字名前として杏寿郎様へ本当のことを告げる日は、一生訪れない。否、決して訪れるようなことがあってはいけないのだから。



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