最初の嘘


 大河内家は、この辺りでも一際賑わう街から少し離れた住宅街にひっそりと佇むように建っていた。私の実家とは全く違う巨大で瀟洒な洋館。まさか自分がこんな場所に足を踏み入れることになろうとは、人生何が起こるか分からない。
 結納までのひと月の間、私は大河内家に住み込んで、最低限の礼儀作法を身に付けることになった。華道や茶道、着物の着付けなどは付け焼刃だが、幼い頃から母の手伝いをしていたおかげで家事全般は問題なく行えたし、書物を読むことが好きだった父親の影響で字の読み書きは出来たため、婚約者の替玉として最低限の準備をすることが出来た。
 そして私は今、大河内家の広すぎる客間で初対面となる婚約者の到着を待っている。数日後に控えた結納の前に、先方の要望で顔合わせの場が設けられたのだ。
 生まれて初めて化粧をし、髪を綺麗に結って、青地に百合の花柄があしらわれた振袖に身を包んだ自分を姿見で確認した時は、まるで私ではない誰かがそこに居るのかと錯覚した。馬子にも衣裳とはこのことだ。
「名前さん、間もなくお相手がご到着されます。貴方はこれから、大河内麗華です。そちらの言い値で報酬は払うとお伝えしたのですから、くれぐれも粗相のないよう」
 私の隣に座る大河内家の奥方が、氷のような冷たい視線で私を一瞥して素っ気なく言った。彼女の向こう側に座る大河内家の当主も、渋面を作って腕を組み、机をじっと見つめている。
 大河内家を訪れてから、この二人は終始ぴりぴりしていた。当然といえば当然だ。嫁に行くはずだった一人娘が別の男と駆け落ちして行方不明なのだから、心中穏やかではいられないだろう。しかし、娘が行方不明になっても尚、私のような替玉を立てて何としてもこの縁談を纏めようという彼らに、恐怖を感じた。同時に、駆け落ちした娘への同情の気持ちも湧きあがってくる。
 私は、こんなに広い家に住むことも、絢燗な振袖を着ることも出来ないけれど、自分の方が余程、華族のお嬢様より幸せだと思えてしまう。そのくらい、この家の空気は殺伐としていた。
「旦那様、奥様、煉獄様がご到着されました。…ただ、どうやら当主の槇寿郎様のご体調が芳しくないようで、御子息の杏寿郎様だけお見えになっております」
 使用人が、婚約者の来客を告げる。いつもより早い脈動を刻んでいた心臓の鼓動が、また少し早くなる。緊張で全身にしっとりと汗が滲んだ。振袖の帯をきつく締められているせいか、やや呼吸もし辛く苦しかった。
 部屋の入口へと視線を向けると、使用人の案内で一人の青年が現れる。大河内家の当主と奥方は、先ほどの表情を一変させ菩薩のように笑いながら、その青年を出迎えた。
「失礼します」
「あら、杏寿郎さん。玄関までお迎えに伺おうと思っておりましたのに。大変失礼いたしました」
「いえ、結納前に麗華さんに会わせていただきたいと言ったのは私です。私の方こそ、父が不在の無礼をお許しください」
 二人に向かって、文句の付け所のない綺麗なお辞儀をした青年は、顔を上げると視線を私に向けて、口元に小さく笑みを作った。
 青年の名は、煉獄杏寿郎と聞いていた。初めてお目にかかった婚約者は、軍服に身を包み腰に立派な刀を差している。肩の辺りまで伸びたキラキラとした金糸と、力強く大きな瞳が印象的な杏寿郎様は、とても端正な顔立ちをしていた。それに笑った顔が、好青年の良い印象を与える。
 二人に促されて私の前に正座した杏寿郎様は、刀を畳へ置き一礼してから、ゆっくりと口を開いた。
「煉獄杏寿郎です。大河内麗華さんですね」
「はい…私が…大河内麗華です。よ、よろしくお願いします」
 自分ではない人物の名で自己紹介するのは違和感だった。そして今後も、目の前の優しそうな青年にこうした嘘を積み重ねていかなければならないと思うと、罪悪感に苛まれる。雄々しい瞳が、私を射抜くように見つめてくるので、嘘がばれてしまったのではないかと怖くなった。
「麗華さん。少し二人で、外で話が出来るでしょうか」
 まだお茶も運ばれてきていないうちに、杏寿郎様は唐突に言った。
「え、でも今来たばかりで…」
「麗華さん。杏寿郎様が誘って下さっているのですから、ご一緒して差し上げなさい。庭の奥の日本家屋にご案内して。あの辺りは日当たりも良くて、ゆっくりお二人で話をするには丁度良いでしょうから」
 戸惑う私の言葉に被せるように奥方が言う。私を見る彼女の目が「言う通りにしなさい」と冷たく命令しており、慌てて首を縦に振り立ち上がる。慣れない正座をしたものだから、立ち上がった瞬間足の痺れが襲ってきて、思わず眉を顰める。
「で、では杏寿郎様、お庭を案内いたします。どうぞこちらへ」
「ああ、ありがとう。無理を言って、申し訳ないな」
「い、いえ。とんでもないです」
 失敗は許さない、と言わんばかりの鋭い視線に見送られながら、私達は屋敷を出る。玄関口まで見送ってくれた使用人が一礼して去っていくと、ひと仕事終えたような安堵感が広がる。大変なのはこれからだというのに。
「正座は苦手なのか?」
 この後どう立ち回るべきかと必死に思考を巡らせていた私の耳元で、苦笑混じりの声が揺らいだ。
「えっ?」
「立ち上がった時、辛そうにしていたからな。足が痺れていたのだろう」
「も、申し訳ございません。お見苦しいところを」
「いや、構わない。こういう言い方は失礼なのかもしれんが、あまり令嬢らしくなくて、俺は好感がもてる」
 やはり、真のお嬢様は正座で足を痺れさせたりしないのだろう。一朝一夕で身に付けた作法で本当にどうにかなるのだろうか、とまだ始まってもいない替玉の夫婦生活に一気に不安が募る。
「も、申し訳ございません」
 慌てて謝罪の言葉を述べると、杏寿郎様は白い歯を見せ笑顔を作り、私に腕を差し出した。掴まれ、ということなのだろう。
「少し歩きながら話そう。…結納の前に、君に…麗華に確認したいことがあるのだ」
「は、はい」
 おずおずと彼の腕を掴むと、鉄のように硬いそれに驚いた。やはりこのくらい強靭な身体を持っていなければ、軍人など務まらないのかもしれない。
 多くの木々や植木が綺麗に刈り込まれ、手入れの行き届いた立派な庭の目に染みるような青葉を眺めながら、私達はゆっくりと足を動かす。こんな風に男性に差し添えしてもらうのは初めてで、心臓がにわかに鼓動を増した。
「…君は、本当に今日初めて会った男と夫婦になりたいと思うか?」
「え…」
「先ほどのご両親の様子を見るに、この縁談にかなり抵抗があっただろう」
「そ、そんなことは」
「俺は夫婦になるのであれば、義務的に夫の役目を果たすつもりはない。今日会ったばかりだが、麗華を大切にし、愛したいと思うし、一生添い遂げる覚悟だ」
 杏寿郎様の言葉に、胸が絞られたように痛んだ。こんなにも誠実で素晴らしい青年を、親の都合で一緒になる女性を精一杯愛すると宣言してくれる優しい青年を、私は騙し続けなければいけないのだ。
「…だが、麗華が辛ければ、無理する必要はないと俺は思う」
 良心が咎めて二の句が継げなくなってしまった私に、杏寿郎様が穏やかに言う。縁談でこんなにも素敵な人が現れたら、ひょっとすると大河内家の御令嬢も駆け落ちを考え直したのではないか。それほど、杏寿郎様は魅力的な人だった。
「……無理など、しておりません」
「…それは、本心か?」
 大河内家の敷地内に人工的に作られた池の前で足を止め、私はゆっくりと口を開く。上背のある杏寿郎様は、腰を少しだけ折って私の顔を覗き込み、窺うように問うた。
「はい、勿論でございます。…正直、どんな方がいらっしゃるのか…不安がなかったと言えば嘘になります。ですが…この短い時間でも、杏寿郎様がとても誠実な方なのだと分かりました。…不束者ですが、どうぞ今後とも宜しくお願い致します」
「そうか、ありがとう。俺のほうこそ、これから宜しく頼む」
 深々とお辞儀をして顔をあげると、杏寿郎様が少年のように無邪気に微笑んで言った。
 また、胸が痛んだ。いくら家のためとはいえ、人助けとはいえ、婚約者の替玉などすべきではなかったのかもしれない。しかし、もう後戻りは出来ない。なんとしても私は、大河内麗華を演じきらなければならない。嘘を吐き通し、杏寿郎様に正体がばれることなく、本物の麗華様と入れ替わらなければならない。
 それが、私に出来るせめてもの罪滅ぼしだ。
 


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