どうか、気づかないで


 煉獄家の客間の布団の上ですぅすぅと穏やかな寝息を立てる麗華様は、写真で見るよりもずっと美しかった。確かに自分と容姿は似通ったところがある。しかし私はこんなに誰もが羨むような美人ではない。それに、溢れ出る気品や華麗さは、私では到底真似出来るものではなかったのだと、こうして眠る彼女を目の前にして思う。
 鬼に遭遇した私と麗華様は、杏寿郎様の登場により九死に一生を得た。しかし襲われた衝撃で気を失ってしまった麗華様を、杏寿郎様はこうして煉獄家へと連れ帰ってきたのだ。
――俺が女性の介抱をするのは気が引ける。悪いが手伝ってくれないか
 倒れた麗華様を横抱きにしてそう言った杏寿郎様は、答えを聞く間もなく私の手を引いた。それが彼の優しさなのだと分かり、嬉しくて、悲しかった。突然家を飛び出した私が煉獄家に戻る理由を作ってくれたのだ。こうして私は、もう二度と戻ることはないと思っていた杏寿郎様の屋敷に再び足を踏み入れることとなった。
「…彼女の様子はどうだ」
「あ…はい。よく、眠っておられるかと」
 頭上で揺らいだ声に顔を上げると、すぐ傍に杏寿郎様が立っていた。一瞬絡んだ視線が気まずくて、私はぱっと顔を背ける。すると、杏寿郎様が畳にゆっくりと膝を突いた。
「鬼に殺されかけたのだ。無理はない」
「…ええ。そうです…よね」
「君は…やはり度胸があるな。鬼の存在を知らない人々は、奴らに遭遇すれば卒倒する者が殆どだ。流石、違う人間になりきろうというだけのことはあるな」
 声は穏やかだったが、麗華様の替玉となった私を暗に責めているのかもしれない。申し訳なくて、怖くて、悲しくて、唇を噛んで膝の上で丸めた手をぎゅっと握り締める。
「……家族のために、母君のために…今回の話を受けたのだろう」
 時間が沈黙の中を流れ、居た堪れなさに再び家を飛び出してしまおうかと考え始めた時、杏寿郎様がゆっくりと口を開いた。一瞬自分の耳を疑い、目を見開く。
「…どうして…それを」
「…すまない。母君が君に宛てた手紙を…少々拝読した」
 杏寿郎様が私の名を呼んだ時、薄々その可能性には気づいていた。しかし、彼が手紙を読もうが読ままいが、私が彼へしたことは変わらない。許されるものではない。
「君の本当の名は……名前……というのだな」
「…っ、あのっ…私…」
「名前の話をもう一度聞かせてくれないか…。君の…正直な気持ちを話してほしい」
 瞬きもしない真剣な瞳で杏寿郎様は私に語り掛ける。全てを話して楽になりたい。杏寿郎様に抱いているこの気持ちを包み隠さずぶちまけてしまいたい。でも、杏寿郎様と同じくらい家族のことも大切だ。
「――そのお話、私もお伺いすることは出来ますか?」
 身を切り刻むような苦悩に顔を歪めた私の耳に、糸のように細く可憐な声が流れ込んでくる。それは麗華様の声であり、いつの間に目を覚ましたのか、彼女はゆっくりと布団から身を起こした。
「…苗字名前様。貴方のお話は、私が大河内家を出るために手引きをしてくれた従者からずっと報告を受けておりました。…私のために、大層辛い思いをさせたことでしょう。本当にごめんなさい」
「えっ…」
 麗華様は布団から出て居住まいを正すと、畳に額を付けて深々と私にお辞儀をした。そして一度頭を上げると、今度は杏寿郎様へ視線と体を向け、心の底から申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にした。
「煉獄杏寿郎様。先ほどは、危ないところを救っていただきありがとうございました。婚約者…今は夫となった杏寿郎様のことも聞いております。先ほど私を襲った鬼を討伐される任務にあたられていることも。…杏寿郎様にも酷いことをしました。…本当に申し訳ございませんでした」
 絶句したように黙り込んで返すべき言葉を探す私を余所に、麗華様は続けた。
「…私は、父と母の目に余る行動に耐えられなかった。自分達の私利私欲のためなら、自分の娘ですら利用する。このままでは、自分は家を大きくするために結婚させられてしまう。だから私はお慕いしていた男性と大河内家を出ました。…ですが結果として、その男性は両親に莫大な金をつぎ込まれて私を売りました。隠密にやり取りをしていた従者があと数分でも早く来てくれなければ、私はもっと酷い目にあわされていたと思います」
「…っ、そんな」
 血のつながった娘にするとは思えない非道な行動に思わず口を覆う。杏寿郎様も、眉間に深く皺を刻んで不快感を滲ませていた。
「…家に帰るのが嫌で…どうしたものかと懊悩しておりました。…ですが、従者から貴方のご家族のことを聞かされました。…お母様が病気で苦しんでおられるのですよね?」
「え…」
「聞けば、その治療費のために私の代わりを引き受けてくれたとか。…しかし、失敗すれば金はやらないと脅されていたのでしょう?」
「それは…」
「ですが、杏寿郎様がここにいらっしゃるということは、全て知られてしまっている。…違いますか?」
 私が唇を噛んで押し黙るのを肯定と捉えた麗華様は、もう一度畳に額を擦り付けるように体を低くした。
「私の両親に、入れ替わっていたことが杏寿郎様に気づかれたことば知れれば、報酬はおろか、名前様の身も危険です。あの方達は口封じのために何をしてくるか分からない。…ですから…杏寿郎様に私の願いを聞いていただきたいのです。…どうか、何も気が付かなかったことにして、私を妻として置いていただけないでしょうか。そうすれば、名前様の今までの努力は無駄にならない。…杏寿郎様が受け入れて下さるのなら、私は、煉獄家で貴方と生きていきたい。…他人様に多大なご迷惑をおかけして駆け落ちまでした女が何を戯けたこと言っているのだと思われるかもしれませんが…先ほど私を救って下さった杏寿郎様のお姿に…胸を打たれました。杏寿郎様に救っていただいたこの命、生涯貴方に捧げることを、どうか許していただけませんか」
 先程の細く消え入るようなものとは違い、凛とした声で言った麗華様を、杏寿郎様は驚いたような、困ったような、そんな表情で見つめてうた。
「……顔を上げてくれ。…すまないが……俺自身も戸惑っていてよく分からないのだ」
「杏寿郎様さえ許してくだされば、私達は何も代わりません。私も名前様も、同じような容姿をしております。杏寿郎様は、今まで名前様に接していたように、私に接して下さればいいのです」
 杏寿郎様の混乱を一蹴するように、麗華様ははっきりと言った。自分の両親にも抗おうとする彼女の強気な一面を垣間見た気がした。
「……名前は…それでいいのか?」
 永遠のように長く感じた沈黙のあと、杏寿郎様が重々しい口調で私に尋ねた。陽光を固めたみたいな綺麗な瞳の奥の方が不安そうに揺れている気がした。まるで私に「それでいいわけがない」と言って欲しいのではないかと勘違いしてしまいそうな、そんな瞳だった。
 それでいい?いいわけがない。杏寿郎様が好きで好きで堪らなかった。罪悪感から犠牲にしようとしていた恋慕に骨まで焼かれてしまいそうだった。本当は、麗華様が杏寿郎様の隣に居ることなど耐えられない。私ではない誰かが杏寿郎様と手を繋ぎ、唇を合わせ、身体を重ねることを想像するだけで、心臓が捩じられるような苦痛に苛まれる。
 好きなのに。こんなにも好きなのに。そして自分の腹には杏寿郎様との子が宿っているというのに。私は自分の本当の気持ちを、一文字も口にすることが出来ない。
「…名前…」
「杏寿郎様が許して下さるのであれば、こんなに有難いことはございません。私には、お金が必要です。…私からもお願いいたします。今回の件を不問にはしていただけませんか?どうか、大河内家に報告しないでいただけないでしょうか。一人の哀れな女を、その家族を救うと思って、杏寿郎様の心の中に留めておいてはいただけないでしょうか」
 麗華様に倣って、畳に額を擦りつける。重力で零れ出そうになる涙を、目に力を入れることで必死に堪えた。それでも止められなかった熱い雫が畳を濡らした。
 私の声が途絶えてからは、まるでこの世界から音が消えてしまったかのような静寂が訪れた。そして、長い長い沈黙を破ったのは、「承知した」という杏寿郎様の低い声だった。


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