相応しい花


  大河内家の世話人への定期報告を終えた私は、煉獄家まで送るという申し出を丁重に断って、うろこ雲が広がる空の下を一人歩いていた。
 まだ寒さを感じるほどの季節ではないが、雨が降った翌日である今日は夏用の薄手の着物一枚では肌寒く、秋が急速に深まりつつあるのを自覚する。どこからか香ってくる金木犀の花の香りはその事実を裏付けしていた。
――お嬢様が大河内家にお戻りになるのは、時間の問題だと思います。
――え?お嬢様は…麗華様は見つかったのですか?
――居場所は疾うに特定出来ていたのです。ただ、彼女に駆け落ちした男を諦めてもらう必要があり、多少時間がかかりました。お嬢様は杏寿郎様の妻としての役目を果たさなければならない。別の男に気があるとなれば、杏寿郎様もいい気はしないでしょう。…大分貴方にもご執心の様子だと伺っておりますので。
――それは…分かりませんが。…それより、お嬢様に諦めさせるって…一体何を
――お嬢様がその男を厭悪するよう仕向けました。少々手荒くなりましたが、旦那様と奥様の指示ですので、仕方がないですね
――乱暴って…まさか。
――まぁ、あまり気分のいい話ではないですね。今、お嬢様は失意のどん底にいます。きっと、杏寿郎様に惹かれるのに時間はかからないでしょう。また連絡を差し上げます。もう少しの辛抱です。名前様、最後まで宜しくお願いします。勿論、杏寿郎様には最後までばれることがないよう、注意してください。
 先程の大河内家の世話人との会話を思い出し、私は腸が抉られるような苦しさを感じた。喜ばしいことではないか。麗華様が見つかり、私は晴れて替玉という立場から解放される。大金も手に入り、母親を病から救ってやることも出来る。万々歳のはずだった。
 しかし、とてもそんな気分にはなれなかった。気づいてしまったから。自分が、杏寿郎様をお慕いしていることに。人生で初めてこんなにも誰かを愛おしいと思った。親や兄弟に抱くものとは違う、胸がぎゅっと締め付けられるような愛情。
 自分が杏寿郎様と離れることを想像しただけで、何度も涙が零れそうになった。私ではない別の女性と、杏寿郎様が笑い合い睦み合うことを想像するだけで、心が潰れてしまいそうだった。
でも、私に打つ手なんてなかった。先ほどの世話人の話を聞けば、大河内家の当主は、自分の利益のためであれば手段を選ばないということをまざまざと見せつけられた。世話人ははっきりとは言わなかったが、恐らく麗華様は、駆け落ちまでした男に乱暴され酷い裏切られ方をしたのだろう。自分の娘を傷つけることさえ、大河内家の当主にとっては一考の余地すらないのかもしれない。麗華様が、気の毒で仕方がなかった。
しかし、世話人も言うように、麗華様だって、きっと杏寿郎様に直ぐに心奪われてしまうだろう。彼は、あんなにも優しくて、誠実で、素敵な人なのだから。
 杏寿郎様と一緒に過ごすことが出来る時間は、一体あとどれくらい残されているのだろうか。替玉という立場を失えば、杏寿郎様と会う機会も無くなるだろう。どうして私は、彼をこんなにも好きになってしまったのか。いや、あんなに素敵な人と夫婦生活を共にして、恋情を抱かない方が無理だったのかもしれない。
「――あら、お嬢さん。素敵な簪ですね」
 深い穴の中へ体が落ちていくような暗い気持ちで、爪先ばかりを見てとぼとぼと歩いていた私の耳に、穏やかな女性の声が流れ込んでくる。
 意識を引き戻され顔をあげれば、そこは、小さな花屋の前だった。声の主は店主のようで、狭い空間であるにも関わらず、まるで花が咲き乱れる小さな庭のように様々な種類の花々が並ぶ店先で、柔らかく微笑んで私を見つめていた。
「あ、えっと、ありがとうございます」
反射的に髪に差した簪に触れ、慌てて礼を述べる。すると店主の女性は「ごめんなさい」と小さく笑って、並べられた花の束の一つに視線を移し、言葉を続けた。
「もう百合の時期も終わりでしょう。今日出ているので最後。黄色い百合は珍しいんですよ。なんだかお嬢さんのその簪に親近感を覚えてしまって、つい。その簪もこのお花も、可愛らしいお嬢様にはとてもお似合いね」
 店主の視線を追従すると、そこには、鮮やかな黄色の百合が力強く咲いていた。
――百合は、美しい女性の象徴のような花ですよ
――君に相応しい花だな。美しさの中に力強さもある
 この簪を贈られた時の、杏寿郎様の言葉を思い起こす。百合にはそんな意味があると、簪を売ってくれた店主も話していた。杏寿郎様を騙している私に相応しい花とは到底思えなかったが。
「…私なんて、そんな――」
「――確か黄色い百合には、面白い花言葉があるって、嫁から聞いたなぁ」
 眉毛を少し下げて首を左右に振りながら口を開けば、私の言葉を塗り潰すように、低いのによく通る声が頭上から降ってくる。
「あら、宇髄様、いらっしゃいませ。いつもご贔屓ありがとうございます。今日も奥様達に贈り物かしら」
 店主の口から飛び出た聞き知った名前に、はっとして隣の気配を確認する。そこには、以前杏寿郎様と街へ出かけた時に偶然遭遇した、彼の同僚である宇髄様の姿があった。
「…大河内家の御令嬢様が、こんなところで一人でいたら、煉獄が心配するんじゃねーか?」
「あ、貴女は…杏寿郎様の…」
「宇髄天元だ。…奥さん。この黄色い百合の花、包んでくれるか?」
 着流し姿の宇髄様は、流し目で私をちらりと見た後、黄色い百合の花を指さし店主に言う。
「あら、宇髄様、こちらのお嬢様とお知り合い?」
「ああ、まぁちょっと」
「今お包みしますので、ちょっと待っててくださいね」
 店主は慣れた手つきで花束の茎の長さを切りそろえると、桜色の美しい和紙でくるくるとそれを包んでいく。一瞬にして、受け取った女性がうっとりするような包装を終えた店主は、お代を受け取った代わりに、宇髄様へそれを差し出した。
「いつも悪いな、奥さん」
「とんでもないです。こちらこそ、いつもありがとうございます。今季最後の百合の花です」
「へー…。じゃあ、受け取れよ。お嬢様」
「え…」
 二人の遣り取りを傍らで見ていた私の目の前に、突然黄色の百合の花が差し出され、噎せ返るような甘い香りが鼻孔に立ち込めた。
「あのっ…これ」
 私が宇髄様から花を贈られる理由が思い当たらなかった。杏寿郎様との結婚祝いか何かのつもりだろうか。宇随様の突飛な行動に訳が分からずまごまごしていると、百合の花束を胸に押し付けるように無理やり渡され、腰を屈めた彼に耳元に唇を寄せられる。
「黄色の百合の言葉はな…『偽り』って意味があるらしいぜ。…なぁ、お嬢様。お前は、一体何者だ」
 言葉に殴りつけられたように、私は暫くの間、衝撃に固まっていた。宇髄様は気づいているのだ。私が麗華様ではないことを。
 全身が心臓になったように、激しく動悸の音がする。指先がぴくぴくと震えて、脂汗が滲む。ばれてしまった。杏寿郎様と近しい関係にある、宇髄様に。
「…大丈夫ですか?」
 店主の声に、無意識に詰めていた息を吐く。気づけばそこに宇髄様の姿はなく、残された百合の花の蕊が、冷たくなった秋の風に気持ち良さそうに揺れていた。
「だ、大丈夫です。…あの、すみません。私はこれで失礼します」
 踵を返し、息が切れるのも忘れるくらい、全速力で煉獄家までの道を走った。海の底よりも深くて暗い恐怖が背後から迫ってきているようで、怖くて、不安で仕方がなかった。杏寿郎様は、宇髄様に聞かされているのだろうか。杏寿郎様は私の正体に気づいているのだろうか。苗字名前だと知っているのだろうか。
 分からない。怖い。私は、どうしたらいいの?
――黄色の百合の言葉はな…『偽り』って意味があるらしいぜ
 先程の宇髄様の言葉が、呪詛のように頭の中で繰り返し響く。握りしめた百合の花が、一瞬にして私に相応しい花となってしまった。



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