不可解な感情


 杏寿郎様と夫婦になって早くも二か月が経過しようとしており、季節はすっかり夏の盛りを迎えていた。居間の縁側にぶら下がった風鈴が、豊満な盛夏の風に揺られてちりんちりんと鳴る音が、台所まで聞こえてくる。
「ハナさん…杏寿郎様はお弟子さんが沢山いらっしゃるのですね。私、鬼殺隊というのは男性ばかりの場所なのだと思っておりました。でも、女性もおられるなんて少し驚きました」
 私はいくつも並べた茶碗に冷えた麦茶を順番に注ぎながら、台所で隣に立つハナさんにぽつりと呟く。するとハナさんは、茶菓子を準備していた手をぴたりと止めて、優しい目を丸くして私を見る。
「まぁ!」
「えっ、私…何か変なことを申し上げましたでしょうか?」
 予想外のハナさんの反応にまずいことを言ってしまったかと伺うように問えば、彼女は驚いた表情を茶目っ気たっぷりの笑顔に変えて、楽しそうに口を開いた。
「ふふ。麗華様、そんなに不安そうな顔をしなくても大丈夫ですよ。杏寿郎さんは、麗華様しか目に入っていないご様子ですから」
「そ、そういうつもりで言ったわけではないのですが」
「あら、それは失礼しました。私はそんな風に聞こえてしまったものですから。杏寿郎さんが他の女性の方と一緒にいることに、可愛らしい焼きもちを妬かれているなぁって」
 クスクスと笑ったハナさんは、手にしていた青竹の筒に空気を吹き込む。つるりとまな板の上に飛び出した水羊羹は、結霜ガラスから差し込む夏の日差しでみずみずしく輝いていた。それに均等に包丁を入れ、小皿に取り分けていくハナさんの様子をじっと眺めながらふと考える。
 私が焼きもちを妬いている?麗華様の替玉としてここに居る私が焼きもちを妬くなど、おかしな話だ。だって私は杏寿郎様の本当の妻ではないし、彼に特別な愛情はない。それなのにハナさんは何故、そんなことを言うのだろう。
「さぁ、麗華様。麦茶の準備は大丈夫かしら。杏寿郎さんとお弟子さんがお腹を空かせて倒れてしまうといけないので、冷めないうちに持っていって差し上げましょう」
「は、はいっ!」
 羊羹の皿を並べた盆を持って台所を出るハナさんに続き、裏庭に面した縁側に続く長い廊下を歩く。有名な寺社仏閣の庭園のように手入れが行き届いた庭に近づくと、杏寿郎様の溌溂とした声と、彼のものではない、ぜいぜいと喘ぐような息が鼓膜に流れ込んでくる。
「そんな打ち込みでは隊士としてやっていけないぞ!頑張れ!」
「え、炎柱様、少し休ませてください」
「いいか、鬼は待ってくれない。一瞬の油断が命取りになるのだ――」
「杏寿郎さん。ここは戦場ではないのですから。少し手加減してあげてくださいな」
 焼けつくような夏の陽射しの下、地べたに倒れ込み汗だくの顔を歪ませる数名の弟子達を叱咤激励する杏寿郎様の姿が目に入ると、ハナさんが苦笑しながら声をかける。
「む…ハナさん。しかし」
「お茶が入りましたから。少し休憩してください。こんな炎天下の中で稽古をし続けてもあまり意味はないと思いますよ」
「…ハナさんがそう言うなら」
 どうやら杏寿郎様は幼少期から世話になっているハナさんには頭が上がらないらしい。思わぬ救世主の登場に、地面に這いつくばっていた隊士達は目を輝かせて縁側に駆け寄ってきて、ハナさんが準備した羊羹を頬張り麦茶を流し込んで、幸せそうな顔をした。
「はい、杏寿郎様、汗を拭いてください。お疲れ様でした」
 私は履物をひっかけて庭へ降りると、額に滲んだ汗を拭う杏寿郎様に駆け寄って冷えた手拭いを渡す。捲り上げられたシャツから覗く逞しい前腕に、何故だか胸がドキリとした。
「麗華、ありがとう」
「いえ。杏寿郎様も少し水分をお取りになって――」
「炎柱様!私、まだ大丈夫です!もう少し稽古をつけてくれませんか」
 休憩を促すように口を開きかけたところで、可愛らしくも力強い声が響く。杏寿郎様と一緒に視線を移せば、唯一の女性の隊士が、既に水分補給を済ませて両手で木刀を握り締めていた。私とそう年齢の変わらない女性で、線の細い身体を見る限りでは、とても重い刀を振るう剣士とは思えなかったが、大きな黒い瞳は確固たる意志が宿っているように力強かった。
「そうか!殊勝な心掛けだな。感心感心」
 私に手拭いを返すと、杏寿郎様は嬉しそうに顔を輝かせ、鍛錬を希う女性の隊士と再び稽古を再開してしまった。彼が真剣に剣を教える姿はとても魅力的で、また、心臓がどくりと鳴った。一方で、私ではない異性に触れて剣を指南する彼を見て、心臓に小さな棘が刺さったような妙な気持ちになった。釈然としないものが胸に立ち込めて、喉が詰まるような感じがした。
「奥方様!こちらの水羊羹も麦茶も凄く美味しいです!」
 この場に留まることが少し躊躇われて、ハナさんに申し出て家の中のことを済ませてしまおうと履物を脱いで縁側に上がった間合いで、杏寿郎様の弟子の一人が律儀に声をかけてくれる。弾かれたように声の方に視線を向ければ、私よりもいくらか年齢の若そうな少年が、屈託のない笑顔を浮かべていた。張りのある頬にはうっすらと笑窪が出来ている。
「そうですか、良かったです。といっても羊羹はお店の物ですし、麦茶もただの麦茶なのですけれど…。杏寿郎様の厳しいお稽古の後なので、格別に美味しいと感じるのかもしれないですね」
 そう言いながら笑みを返すと、少年の口元から出血していることに気がつく。私は無意識のうちに、少年の赤くなった口の端に手を伸ばし、血液を親指で拭っていた。しかし固まった血を拭ったそばから、新しい血が噴き出してくる。
「ここ、切れちゃってますね」
「あ、少し羊羹が血の味がすると思ったら、どうりで…」
「ふふ、本当に羊羹の味が分かったの?今、手当の準備をするので少しここに座って待っていてくれますか」
 私は少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべて言うと、少年が頬を赤らめていることに気づくこともなく、一旦屋敷の中へと引っ込む。急いで新しい手拭いを湿らせ、押し入れの中に閉まってある救急箱に手を伸ばす。
「んっ…高い所に入れすぎちゃった。…っ…取れない。もう少し――」
 先日杏寿郎様の手当をした際、随分高い位置に救急箱を戻してしまったようだ。つま先立ちになって必死に目的のそれに手を伸ばしていると、無理な体勢で力が入り切らなかったせいか、ぐらりと身体が傾いてしまう。あっ、と思った瞬間には、背中に人肌の温もりと心地よさを感じる。誰かに受け止められたのだと気づいた時には、襟から覗く項を何かが擽った。耳元で低い声が揺らぎ、それが杏寿郎様の毛先なのだと気づいた時には、私は少しだけ後ろを向かされて、彼の唇を押し付けられていた。
「っ…ぅ」
 一瞬のことで、息をすることも忘れて目を丸くしていると、直ぐに唇は離れて、杏寿郎様が私の後から救急箱へと手を伸ばし、あっという間にそれを小脇に抱えたしまった。
「きょ…杏寿郎様?どうしてここに…お稽古は」
 確かに先ほどまで、彼は庭で弟子に稽古をつけていたはずだ。頓狂な声を出して問えば、杏寿郎様は自身の胸の中で私の身体の向きを変え、形のいい眉をぐっとひそめてこちらを見つめた。そして、私の右手を掴んで口許に寄せ、先ほど拭った少年の血液が付着したままの親指をべろりと舐めた。
「んっぅ…何っ…ぁ」
 熱い舌先がどこか厭らしく指を舐めるものだから、堪らず昼間に似つかわしくない変な声が漏れ、左手で慌てて口を塞ぐ。顔が長時間炎天下に晒されていたみたいに熱い。
「…俺以外の男に…麗華に触れて欲しくない」
 指からそっと唇を離した杏寿郎様が抑えた低い声で言う。
「杏寿郎様…」
「手当は俺がする」
 素っ気なく言うと、杏寿郎様は踵を返して部屋から出て行った。先ほどとは別の感情が、身体の奥底から湧き上がってきて、私は熱が篭った顔を両手で覆って、膝から畳に崩れ落ちる。この気持ちに名前を付けるとしたら、一体何が正解なのだろうか。


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