episode 08
もう大丈夫




 煉獄先生と体育祭の景品を選びに出かけたのは、あの日から一週間経った終業後のことだった。桜は大半が散り落ちて、地面に点々と落下した花びらが、風が吹くたびにひらひらと足元を舞った。
「今日は付き合わせてしまってすまなかったな」
「いえ。私からお願いしたことです。寧ろ、あんまり良いアドバイスも出来なくて、結局居ても居なくても変わらなかったかもしれないですね」
 結局、優勝クラスへの景品は生徒の人数分の図書カード、個人戦の優勝者には某テーマパークのペアチケットを準備した。自身の学生時代を思い出し、自分であれば何を貰って嬉しかったかを意見することしか出来なかった。景品にしては面白味が無かったかもしれないと、肩を竦めて煉獄先生を見れば優しい笑顔が向けられる。
「そんなことはない。どちらも、きっと俺では思いつかなかった。忙しいのに、本当にありがとう」
「…お、お役にたてたなら良かったです」
 破壊力抜群の笑顔に思わず不自然に声が上擦ってしまう。出所不明の私の変てこな声に、軽快に笑った煉獄先生が再び前方に視線を移したので、その横顔をそっと盗み見る。
 今までこんなに至近距離でまじまじと煉獄先生の顔を見たことはなかったが、本当に綺麗な顔をしていることに今更ながら感心する。ぱっちり二重の大きな瞳に、すうっと通った鼻筋、美男美女の条件である完璧なEラインの美しい輪郭。女性の私ですら羨ましくなってしまうほどの眉目だ。
「もう十時を回ってしまったな。苗字先生、夕食はどうする?」
 煉獄先生が腕時計にちらりと視線を走らせて言う。今日は何故だかずっと緊張しっ放しであり、空腹を感じる余裕すらなかったが、言われてみればお腹が空いてきた。
「そう言えば、少しお腹が減っているかもしれないですね」
「そうか!じゃあどこかで食事を済ませていこうか」
「えっ?」
 目を見開いて思わず聞き返してしまう。煉獄先生から食事に誘われるなど予想外だった。否、既にこうして二人で出かけていること自体、つい先日までは考えられなかったことなのだけれど。
「あ、いや。別に無理強いはしないから安心してくれ。…こんな時間から女性を食事に誘うのも不謹慎か」
 私の反応を勘違いしたのか、煉獄先生が申し訳なさそうに眉尻を下げながら言う。
「無理強いだなんてそんな。是非、ご迷惑でなければ」
 誤解を解こうと慌てた私に、煉獄先生は、今度は安堵したような可愛らしい笑みを口元に刻んだ。なんだか心臓を指で擽られているみたいに、むず痒い気持ちになる。
「それならば良かった。苗字先生は、何か好き嫌いはあるだろうか――」
「煉獄せんせー!」
 煉獄先生が考える仕草をして顎に手をあてたとほぼ同時くらいに、若く張りのある声が彼の名を呼んだ。二人して声の方を振り返れば、キメツ学園の制服に身を包んだ生徒達数名が大きく手を振りながらこちらに向かって駆けて来る。
「こんな時間にどうしたのだ?」
 生徒達の顔を確認するや否や、煉獄先生が驚いたような声を出す。生憎、学園の生徒の顔を全て覚えているわけではないので咄嗟に名前は出てこないのだが、煉獄先生のクラスの生徒であることはぼんやりと記憶していた。
「塾で分からない問題を質問してたらこんな時間になっちゃって」
「それで先生達が見えたから!ねぇねぇ、なんで二人は一緒にいるのー?もしかして付き合ってるとか?」
「え、嘘!そうなの?」
 好奇心に満ち溢れた複数の目が私達に向く。この年頃の生徒達は、「一緒にいる」イコール「付き合っている」の方程式が出来上がっているので、困ったものである。違うよ、と私が否定をするより一瞬早く、煉獄先生がその言葉を口にした。
「そんなわけないだろう。それより君達、ご両親は迎えにくるのか?」
 胸がずきんと痛むのを感じた。そもそも自分でも煉獄先生との関係を否定するつもりであったし、男女の関係など一切ないのだから当たり前のことなのに。でも、心が火傷したみたいにひりひりした。
「来ないよ!だって親まだ仕事だし。皆でこれから家に帰るところ。家までそんなに遠くないし」
「うーん。この時間に君達だけで返すのは心配だな」
 私が勝手に悄然としている間も話は進み、煉獄先生がすまなそうにこちらを見た。彼の言わんとすることは分かる。生徒達を家まで送り届けると言いたいのだろう。この辺りは繁華街で人通りは多いが、少し行けば一気に通りの喧騒が無くなり寂しくなるので、煉獄先生が心配するのは当然だ。
「煉獄先生、この子達を送ってあげてください。…確か、最近学園の近くで女子生徒が変質者に遭遇したって話、先日の職員会議でも話題になっていましたよね。私も心配なので、お願いします」
 煉獄先生の顔を見ながらゆっくりと頷く。
「…苗字先生、ありがとう。今日の礼はまたさせてくれ」
「いえ!今日は私が先生にお礼をしたくてしたことですから、本当に気にされないでください。さ、皆、煉獄先生が送ってくれるみたいだから、先生の言うことよく聞いて、気を付けて帰るんだよ!」
 「やったー!」「はーい!」と口々に言いながら、帰り道を歩き始めた女子生徒達に手を振ると、煉獄先生が他からは見えないよう私の耳元に顔を近づけ、抑えた低い声で呟いた。
「今日は楽しかった。ありがとう」
 言葉の意味を反芻し、漸く小さな脳味噌がその意味を認識して顔が熱くなった時には、生徒達も煉獄先生も、もうずっと先に行ってしまっていた。

  

 自宅の最寄駅より少し前の駅で降りた私は、いつものランニングコースを通って自宅に向かっていた。ずっと火照りっぱなしの顔も、心も、冷ましたかったからだ。
 時間が遅いせいか、大きな公園の周りも人の姿は殆どない。春の夜の匂いが混じる空気に溶かすように溜息をついてはっとする。私は、煉獄先生と食事に行けなかったことを酷く残念に思っているのだ。
 先日修学旅行で遭遇した恋人と別れてからは、誰かに対してこんな感情を抱くことはなかった。この気持ちは恋なのだろうか。アラサーが口にする恋なんてなんだか滑稽な気がしたが、煉獄先生のことを考えると胸がきゅうっと痛くなる。決して嫌な痛みではなく、切なくて甘い、そんな痛み。
 思わず鞄のスマートフォンを引っ張りだす。インターネットで「恋」の一文字を入力してみる。中学生みたい、と自嘲しながらも、不思議と画面をタップする指が躍る。瞬時に夥しい検索結果が並んだ画面を見て、私は思わず立ち止まり、文章に見入ってしまう。
『一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと』
 広辞苑が説明する「恋」はそう説明されていた。どうやら語源は万葉集の平安時代まで遡るらしい。たしかにその時代は男女が気軽に会うことなど許されず、和歌を詠み合って想いを伝えあっていたことを考えると、なるほどな、と腑に落ちる。
 本来の意味とは違うかもしれないが、私は煉獄先生に、恋、してしまったのだろうか。不思議な高揚感覚えつつも、「君は俺の運命の人ではない」と言った煉獄先生の言葉が脳裏を過る。あの言葉は、一体どういう意味なのだろうか。
 そんなことをぼんやりと考えながら歩き始めた所で、背後に人の気配を感じる。
――最近学園の近くで女子生徒が変質者に遭遇したって話
 先程の自分の言葉を思い出して肝が冷える。怖くなって、恐る恐る肩越しに後ろを振り向けば、帽子を深く被った人の姿が視界に飛び込んでくる。体格や服装からして、恐らく男性だろう。心臓が嫌な音を立てて鼓動を刻み始める。
 怖い。本能的に、脳が逃げろと私に命令している。汗がじっとりと滲んだ手を握りしめ、極力不自然にならないように歩みを速める。下手に逃げて相手を刺激するのは良くない。怖いけど、焦らずに。しかしどこまで行っても背後の気配はなくならない。
 普段走っている時は、これほどまでにこの道を長く感じたことはなかった。まるで永久に自宅まで辿り着かないのではないかと思うほどだ。背後に気を取られていたせいか、通りすぎる風景はさらに物寂しくなって、袋の鼠のような気持ちになってくる。
 嫌だ。怖い。どうしよう。どうしよう。恐怖が頭の中を掻き回して冷静さを奪っていき、とっくに理性的な判断など出来なくなった私は、気づけばスマホの画面をタップして、電話の発信ボタンを押していた。
『はい。…苗字先生?どうした、何かあった――』
 何回かコール音を聞いた後で鼓膜に流れ込んで来た声に、安堵で全身の力が抜けたのが分かった。しかしそれは一瞬のことで、背後から聞こえた喘ぐような不気味な声に、稲妻のように戦慄が走って、私は通話口に向かって必死に声を絞り出す。
『た…けて』
『おい、苗字先生?大丈夫か?今どこに』
『助けて、煉獄せんせっ…今…あの、公園の近くで、追いかけられてて』
『っ…すぐに行くから、兎に角立ち止まるな!人気のある所に行け!』
『はいっ…ごめんなさい』
 心臓が凍りついてしまいそうな恐怖に涙が滲むも、電話口で必死に首を縦に振って駆けだせば、ぐっと肩を掴まれる。
「やだっ!やめてっ!」
 身体がびくりと震えあがって甲高い声があがる。咄嗟に腕を振り払い、通勤鞄を振り回すと相手が怯んだような気配を見せる。その機会を見逃さずに、私はもう一度強く地面を蹴って走り出す。七センチヒールの靴が足を何度も縺れさせて私を転ばそうとするも足は止めない。煉獄先生の指示通り、とにかく人気のありそうな場所を目指してひたすら駆ける。
 どのくらいの距離を全力疾走しただろうか。後ろを振り返らずに一心不乱に走り続けたが、とうとう体力が底をつく。私は大きくつんのめって上半身から地面に倒れ込んでしまう。ますい。逃げないと。そう思うのに息も絶え絶えで、もう立ち上がることすら難しそうだった。
「おいっ!」
「…きゃっ、やめてっ…」
 肩に置かれた人肌の感触。恐怖でバネの様に身体が跳ねて、ありったけの力を振り絞って肩を振り回せば、手首を大きな掌に掴まれ、聞き知った声が鼓膜に流れ込んで来た。
「苗字先生っ!落ち着け、俺だ!」
「れ…っんごく…先生」
 地面に膝をつき私と視線を合わせた煉獄先生は、僅かに息を弾ませていた。心配そうな、けれどもどこか安堵したような目が私を見ていた。額にはうっすらと汗が滲んでおり、直ぐに駆け付けてくれたのだと予想がついた。
「もう大丈夫だ」
「ふっ…ぅ…す、すみません」
「怖かっただろう」
 優しい声が耳に滲み全身の力が抜けていく。涙は恐怖から安堵のそれに変わって、私の目から滝のように流れ落ちた。両手で顔を覆って泣きじゃくれば、温もりが私を優しく包んだ。そこは煉獄先生の胸の中だった。