episode 06
薄れゆく意識の中で




「じゃ、修学旅行お疲れってことで、乾杯!」
 宇髄先生の掛け声に合わせて、私達はワインで乾杯した。グラスを軽く合わせると、繊細で上品な音が鳴る。
 無事に修学旅行の付き添いという大きな仕事――といっても、結局具合が悪くなった生徒は初日の女子生徒だけだったけれど――を終えた私は、有志で集まった教師達で開催される「お疲れ様会」に参加していた。
 宇髄先生が選んだのか、各国のワインが楽しめるこのイタリアンは、多くの人々で賑わっていた。出てくる料理も全て美味しくて、私は夢中でアラカルトを頬張り、白ワインで流し込んだ。
「おいおい苗字先生、その飲み方は飛ばしすぎじゃねーか」
「宇髄先生に言われたくないですよ。先生、もう一人でボトル空けてますよね?」
 開始三十分で既に出来上がった様子の宇髄先生が、空いていた私の隣の席に腰掛けてくる。宇髄先生とは飲み仲間なので、彼は酒が入ると一層扱いが面倒になるのは慣れっ子だが、馴れ馴れしく私の肩に手を回してくる所を見れば、今日は相当ペースが早いのではないかと心配になってくる。
「宇髄先生。お願いですから急性アルコール中毒とかで倒れないでくださいね。先生方、修学旅行帰りでお疲れなんですから。他人に迷惑かけないように!」
「はっ!苗字先生言うようになったな。こん中じゃ一番新米のくせに」
「この中では新米でも、人生経験は皆さんより長いです!」
 酔っぱらいの宇髄先生が、私の髪をくしゃくしゃと掻き回す。肩に手を回されたり、頭を触られたり、人によってはセクハラと訴えられても不思議じゃないぞ、と心の中で呟きながら、グラスになみなみと注がれた白ワインを一気に煽る。この人の場合は、元々こういうキャラクターなので許されてしまうのだけど。
 宇髄先生とはこんなに軽口を叩き合えるのに、どうして煉獄先生とはこうはいかないのだろうと思いながら、私は自分と対角線上に座る彼を盗み見る。隣に座るカナエ先生と話に花を咲かせている。突如、もやっとした感情が湧きあがる。自分でも信じられない。何でこんな気持ちになるのだろうか。
 いやいや、と私は自分にしか分からないくらい小さく頭を左右に振る。今回の修学旅行では、煉獄先生に恥ずかしく情けない姿を見せてしまった。同僚に、しかも苦手意識を感じていた先生にあんな現場を目撃されて、子供みたいに泣いてしまったのだから、心が動揺しているだけだろう。
 今思い出しても顔から火が出そうだが、「飲んで忘れてやる」と、次は赤ワインを喉に流し込んだ。すると、「いい飲みっぷりだな」と感心した様子の宇髄先生が、私のグラスに追加のワインを注ぎ込む。どうやらいつも以上に酔いが回っている様子で、迷惑なことに注がれた液体はグラスから横溢して机に水溜まりならぬワイン溜まりを作っていく。
「ちょっ!宇髄先生、零れてますから!もう、酔っぱらい過ぎで――」
「宇髄!本当に飲みすぎだぞ。苗字先生も困ってしまうだろう」
 まずは宇髄先生を引き剥がし、腕からワインのボトルを奪わなければ、と立ち上がろうとしたが、いつの間にか私達の背後に移動していた煉獄先生が、全てを代行してくれた。
「おい、何だよ煉獄。お前も食ってばっかいねーで、もう少し飲めよ」
「介抱する人間も必要だ。ほら、こっちに来い」
 煉獄先生は眉尻を下げて申し訳なさそうな視線をこちらに向けると、宇髄先生を自分の席まで引っ張って行ってくれた。宇髄先生と場所を交代する形で、ゆったりと優しい笑顔を浮かべたカナエ先生が、私の隣に腰掛ける。
「ふふ、宇髄先生と煉獄先生、相変わらずですね。あの人達、入職の時からあんな感じで本当に仲がいいんですよね」
「そ…そうなんですね」
 女性らしい穏やかな声を聞きながら、私は胸がまたもやっとするのを感じた。カナエ先生は、自分が知らない煉獄先生を、きっと沢山知っているのかもしれない。否、なんでそれでもやっとしなければいけないのだ。
 私は不可解な自分の感情を流し去るように、液体が溢れているグラスを手に取って、ぐびぐびと胃に送り込んだ。

  

 店を出ると、自分が想像以上に酔っぱらっていることに驚いた。座っている時はほろ酔いくらいの気持ちであったのに、席から立ち上がった瞬間、血液が身体の隅々までアルコールを運んでしまったかのように、気分が悪くて仕方がなかった。
 視界がぐるぐるしており駅まで歩く自信は無かったし、今すぐにでも吐きたくてたまらなかった。
「地下鉄組は名前先生と煉獄先生ですね。じゃあお二人はここで。お疲れ様です」
「うむ、先生達もお疲れ様!」
「お、お疲れ様です」
 嘔吐を堪えてなんとか挨拶を済ませた私には、もう煉獄先生と帰り道が二人きりであるという事実を考える余裕もなかった。
「俺達も行こうか」
 反対方向に歩き出した教師陣の背中を見送って、煉獄先生と一緒に駅までの道を歩き始める。しかし私はもう限界だった。まだ数十メートルも歩いていないのに、強い吐き気に歩行の継続は困難で、私は口を覆ってその場にしゃがみ込む。
「煉獄先生…っ、ごめんなさい。先に…行ってください」
「苗字先生、大丈夫か?」
 悪心で出せない声をなんとか絞り出して言えば、煉獄先生が私の前に腰を落とした気配がした。
「吐けば楽になれそうか」
 煉獄先生の心配そうな声が耳に滲むが、胃の奥から何かがせり上がってきて、答えることが出来ない。うえ、と声が漏れると、煉獄先生の手が私の背中に置かれた。彼の凛々しい大きな瞳にじっと見られている感じがした。心配してくれているのは百も承知だ。でも、こんなに情けない姿を見せたくない。
 見ないで。お願いだから放っておいて。そう言いたいのに言葉を紡ぐことは困難だ。
「苗字先生、ここに吐け」
 もうだめ。吐く。と思った瞬間、煉獄先生が大きな紙袋を差し出してくれた。修学旅行の乗り物酔い備えて、私が学園の生徒や教師達に配布したものだ。自分で使うことになるとは。本当に情けなくて死んでしまいたい。しかし悠長に自責する余裕もなく、反射的に紙袋を手に取って、胃の中の物を一気に吐き出した。
 何度か嘔吐し吐き気が落ち着いてくると、今度は猛烈な眩暈に襲われる。頭がぐるぐる回転して、しゃがんでいても上手くバランスを保つことが出来ない。
「れ…んごく、先生…ごめんなさい。…私、大丈夫ですから。も…帰って…」
「こんな状態の苗字先生を置いていけるわけがないだろう。…歩くのは難しそうか」
 不快感と格闘しながら、ずっと私の隣で背中をさすり続けてくれた煉獄先生に謝れば、彼は確認するように問う。
 渡されたハンカチで口元を抑えてこくこくと頷くと、地面から足が離れて身体が浮く。煉獄先生に抱え上げられたと気づいた時には、私は既にタクシーの中だった。
「運転手さん、この先の駅までお願い出来るだろうか」
 煉獄先生が運転手に私の自宅の最寄り駅を伝えると、タクシーはゆっくりと走り出した。微かな車の揺れも今の私には拷問のようで、再び吐き気が波のように押し寄せてくる。
「苗字先生、俺に寄り掛かってくれて構わない。こうしていれば、少し楽になるだろう」
 車の天井を仰ぎシートに頭をつけるような姿勢で悪心をやり過ごそうとしていると、煉獄先生が自身の肩に優しく私の頭を引き寄せた。
「煉獄先生…本当、何から何まで、すみません」
「もう謝るな。それより、苗字先生の家を俺は知らない。駅の近くまで行ったら、運転手さんに伝えられるか」
「…はい…分かりました」
 小さく相槌を打ち、ゆっくりと呼吸を整える。アルコールのせいで心臓はばくばくしているが、煉獄先生の大きな肩に頭を預けているせいか、徐々に吐き気は落ち着いてきて身体が楽になってくる。
「…煉獄先生」
「ん、どうした?」
 吐き気が治まってくると、頭がぼんやりしてきた。うっすらと目を開けていることも難しくなってくる。そして私の唇は、無意識に胸の内を漏らしていた。
「私、煉獄先生が苦手だったんです。…何でも完璧な人には絶対裏があるって思ってたから」
「俺が完璧?苗字先生の目は随分節穴だな」
「謙遜しないでください…煉獄先生は凄い人です。だからこそ、自分の元彼みたいな最低な人間なんじゃないかって思った自分が、本当に恥ずかしいです」
「…元彼?修学旅行先で俺が遭遇した男性だろうか」
「そうです…自分で言うのもなんですけど、彼のこと、こんなに完璧で理想の人なんていないって思っちゃったんです。よく考えれば、そんな人が私のこと好きになるはずなんてないのに。一人で縁結びの神社なんて行ってがっついてたから、揶揄ってやろうって思われたんだと思います」
 アルコールのせいか、いつもよりずっと饒舌になってしまう。煉獄先生にこんな話をしたことを、明日起きたら死ぬほど後悔することになるだろうけど、私の口は流暢に言葉を紡ぐ。
「運命の人、運命の赤い糸、そんな言葉を信じちゃうような簡単な女なんです、私。…だから煉獄先生が公園で女性を振っていた時、ちょっとびっくりして。…あ…先生。あの日、私のこと気づいてましたよね」
「…ああ、勿論気づいていた。やはり苗字先生にしっかりと見られていたのだな…」
 煉獄先生に問えば、少しだけ間があって、ゆっくりと返事が返ってくる。
「ごめんなさい。覗き見するつもりはなかったんですけど。『君は運命の人じゃない』だなんて、いい男が女を振るために使う常套句なんじゃないかって勘ぐっちゃいました。その反面、もし本当にそんなこと信じてるなら、馬鹿みたいだなって。自分に良い思い出がないからって、当て付けみたいに酷いことばっかり思ってました。……でも、煉獄先生は元彼みたいに、その言葉を軽々しく口にする人ではない…ですよね」
「苗字先生…」
 自分の思いを吐露すると、一気に気持ちが軽くなり、安堵も相俟って急激に眠気が襲いかかってくる。一方的にこちらの話ばかりして申し訳ないなと、薄れそうになる意識の中でぼんやりと考えていると、煉獄先生が私の肩に手を回しぎゅっと抱きしめてくれたような気がした。
「ねぇ…煉獄先生。先生って…本当に、…自分の運命の人ご存知なんで…す…」
 途切れ途切れに言葉を紡ぎ薄目を開けて隣の煉獄先生を見れば、酷く優しい顔が私を見つめていた。それが、私が眠りにつく前の最後の記憶となった。
――俺の運命の女性は、もうずっと昔から、たった一人だけだ
 とても懐かしい声が聞こえたような気もするが、きっとそれは、空耳だろう。