episode 03
いつかの赤い糸




「苗字先生。先生達って、修学旅行の生徒の自由時間は何するんですか?」
 保健委員の神崎さんが、思い出したように口を開く。修学旅行を明後日に控えた放課後の保健室には、彼女以外にも数名の保健委員が、備品の在庫チェックをしながらおしゃべりに花を咲かせていた。月に一回の保健委員会活動と銘打って、私の手伝いをお願いしているのだ。
「んー?私もこの学校に来て初めての修学旅行の付き添いだからよく分かっていないけど、どこかの班に混ぜてもらって一緒に行動するようにって、教頭先生から言われてるかな」
 保健便り作成のため、かたかたとキーボードを打っていた手を一旦止めて、大きく伸びをしてから神崎さんに視線を移す。
「じゃあ私達のグループと一緒に行きませんか?私達、縁結びの神社に行く計画を立てているんです。苗字先生もご存知ですか?赤い糸の歴史で有名な縁結びの神社です。先生にもお勧めかなって」
 神崎さんの言葉にゆっくりと首肯する。勿論知っている。先週、煉獄先生ともその神社の話をしたばかりだ。しかし、なんで縁結びの神社が私にお勧めなのだろうか。まさか、現在フリーの私を心配してくれているとか?否、生徒から恋の相談を受けることは数多あっても、生徒に自分の恋人の話をしたことはなかったはずだ。
 きっと私は不可解な顔をしていたのだろう。こちらの困惑を敏感に察知した様子の神崎さんは、私にだけ聞こえるように声を落として言う。
「実は、一部の女子生徒の間で噂になってます。二週間くらい前かな?苗字先生が、婚活イベントの会場から出て来たって。多分誰かが目撃したんだと思います。それで、みんな苗字先生が恋人欲しいのかなって心配してて」
 神崎さんの口から紡がれた信じ難い事実に言葉を失い、頭を抱える。まさか、あのイベントに出席していた姿を生徒に見られていたなんて。確かに先日のイベント会場は、学園からそう離れていなかったし、周辺に住む生徒も多いだろう。
 迂闊だった。友人の気遣いを無下には出来ないなどと言っている場合ではなかったのだ。「ノー」と言えない自分の性格が、ほとほと嫌になる。
「…苗字先生?大丈夫ですか?」
 机に突っ伏すように項垂れた私の頭上から、神崎さんの心配そうな声が振ってくる。
「うん、大丈夫。…心配してくれて、ありがとう」
 あれは友人に頼まれて渋々参加した、などと言い訳をする余力もなかった。不幸中の幸いであったことは、噂に変な尾ひれがついて吹聴されていないことか。
「じゃあ、一緒に行ってくれますか」
 神崎さんが両手の前で掌を合わせて嬉しそうに笑う。こんな弾けるような素敵な笑顔を見せられてしまえば、断ることなど出来そうもない。
「うん。じゃあ、当日は神崎さん達のグループに混ぜてもらおうかな」
「本当ですか!ありがとうございます、約束ですよ」
 作業に戻った神崎さんにばれないように、私は小さく溜息を吐いた。溜息を吐くと幸せが逃げると言うけれど、それが事実であるならば、縁結びどころか私は一生分の幸せを逃がしてしまっていると思う。

  

 修学旅行当日、私は存外浮かれていた。新幹線の窓から覗く、抜けるように青い空。白雪のような桜の花に埋もれる遠くの山々。いくら仕事とはいえ、気持ちが弾んでしまうのは仕方がない。
 新幹線の中は、学園の生徒達で賑わい立っている。この時間帯の新幹線の指定席は、その殆どが我が校の生徒達で埋まっていた。生徒達は当然ながら私よりも浮足立っているようで、車両のそこら中から楽しそうな声が聞こえる。
「ほら、他のお客さんも乗ってるんだから、あんまり騒いじゃだめだよ」
「はーい!あ、苗字先生にも、これあげる。チョコレート」
 一際騒がしいグループをいくつか回って注意を促しても、暖簾に腕押し状態だ。気持ちが分からなくもないのでそれ以上口煩く言うのは止めにした。苦笑して差し出された菓子を受け取り席に戻ると、少ししてから声をかけられる。煉獄先生だ。
「苗字先生、いいだろうか?」
「は、はい。何でしょう」
 声が僅かに裏返り、滑稽に響く。先日の一件があってから、煉獄先生へ苦手意識は増すばかりだ。苦手意識、なのだろうか?
 健康診断のあの日、結局煉獄先生は私を自宅の最寄駅まで送ってくれた。「いくら同僚といっても、男に家を知られるのは嫌だろう」と、道徳の見本のような言葉を残して、煉獄先生は去っていったのだ。非の打ちどころがない彼を目の当たりにして、変に勘ぐってしまった自分を恥じる一方で、こんな完璧な人間が本当にいるのだろうか、という思いも拭えない。
「実は生徒で乗り物酔いをしてしまった子がいるのだが、念のため診てもらえるだろうか」
「え?それは大変。勿論です。案内してください」
 煉獄先生の申し訳なさそうな声で我に返り、慌てて席を立つ。彼の後ろについて隣の車両の中ほどまで移動すれば、一人の女子生徒が新幹線の窓に頭を預け真っ青な顔をしているではないか。他の女子生徒が数人、心配そうな視線を彼女に注いでいた。
「大丈夫?真っ青な顔して。暫く駅にも止まらないしなぁ。先生の隣に来ようか。歩けそう?」
 女子生徒の隣の席に腰をかけて問えば、ふるふると首が左右に振られた。私の座席の前後は、不調者が出た時のために予備の席をいくつか用意してある。横になれば楽になるかと思ったが、自力での移動は難しそうだ。
「苗字先生、俺が運ぼう」
「えっ」
「ほら、俺に掴まれるか」
 言うが早いか、煉獄先生は女子生徒を軽々と抱え上げ、先ほど来た通路を引き返す。私の座席まで運んでくれるようだ。「ゎあっ」「いいなー」「煉獄先生にお姫様抱っこされてる」という女子生徒の黄色い声を背に、私は急いで彼の後を追いかける。
「俺はクラスのこともあるから隣の車両に戻るが、任せてしまって問題ないだろうか?」
 煉獄先生は濡れ紙を剥がすように女子生徒を横たえると、窺うように私を見る。
「え、ええ、それは勿論。責任持って私が診させていただきます」
「ありがとう。…苗字先生は、いつも本当に頼もしいな」
 まただ。またいつもの私を知っているみたいな言い方をする。魚の小骨が喉に刺さったような微かな違和感を感じるが、煉獄先生は特に気にした風もなく去って行くので、彼はこういう人なのだろうと自分の中で割り切って女子生徒の傍に腰を下ろす。すると、先ほどまで真っ青だった女子生徒の顔が朱色に染まっており、目尻には涙が浮かんでいた。
「どうしたの?どこか痛かった?」
 ティッシュで今にも頬を伝ってしまいそうな涙を拭ってやりながら女子生徒に問えば、口元に耳を寄せなければ聞こえないほど小さな声で、彼女は呟いた。
「痛くないです……苗字先生、振られたことありますか?」
「…え?」
 一ミリも予想していなかった言葉に二の句が継げなくなっていると、女子生徒は糸のような細い声で言葉を続けた。
「私、煉獄先生に告白したんです。…でも、ダメだって。高校生だからですかって聞いたら…君もいつか運命の人に出会えるからって」
 体調不良の原因は、どうやらこちらがメインかもしれない。いつの時代も、修学旅行に告白イベントは付き物だろうから。
 気づけば、女子生徒の大きな黒い瞳からは涙が溢れていた。自分も経験がある。高校生という年頃はどうしても教師が格好良く見えてしまうものだ。その相手が煉獄先生となれば、彼女と同じような気持ちを抱える子が、きっと他にもいるかもしれない。
 それにしても「運命の人」というのは、煉獄先生が女を振る時の常套句なのか。彼のこの生徒に対する行動は間違っていないのかもしれない。しかし、「運命の人」という言葉が逃げ口上のように聞こえてしまうのは、私だけなのだろうか。
「そっか…それは辛かったね。…先生もね、振られたこといっぱいあるよ。…だからそんなに泣かないで。もっと好きになれる人、きっと、絶対出てくるから。今は悲しいかもしれないけど、思いは必ず風化する。一人の男のことで悩むことなんてないんだよ」
 女子生徒の髪をゆっくりと撫でながら、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。
――名前は運命の人だよ。いつか名前と結婚したいな
 思い出したくもない甘言が、脳裏を過った。
 「運命の人」なんて、「運命の赤い糸」なんて、私は絶対に信じない。