episode 33
旅立ち


 

「それにしても、本当に吃驚したな。まさか名前ちゃんも同じ病気に罹っちゃうなんて。…本当に、私がうつしちゃったわけじゃない?」
 寝台の背もたれに寄りかかり本のページを捲っていた手を止めると、フミちゃんは柳眉を顰めて、隣の寝台に腰掛ける私を見る。私は苦笑まじりの息を吐いた後、ゆっくり頭を振る。
「フミちゃん、それ、もう何回目?誰からうつったかなんて分からないし、元々保菌者だった可能性もある。兎に角、フミちゃんが気にすることじゃないから」
 何度目か分からない台詞を口にすれば、フミちゃんは、不承不承というように頷いた。
結核の療養所に患者として舞い戻ってきた私に一番驚いていたのは、フミちゃんだったかもしれない。再会を果たした瞬間、まるで幽霊にでも遭遇したような表情で私を見た彼女は、前回会った時よりも一回り小さくなった印象を受けた。
 しかし、あまり体調が芳しくないのだろうか?という私の不安を払拭するほど、再会してからのフミちゃんは調子がいい様子で、今日も私達は会話に興じていた。ここが結核の療養所でなければ、誰も私達二人のことを病人とは思わないだろう。そのくらい、私もこの施設に来てからは体調が良かった。やはり、綺麗で新鮮な空気が肺には良いのかもしれない。
「それにね、先生に付いてこの療養所に来た時、ちゃんと説明されてたんだよ。この場所が、市中より感染の危険性が高いこと。それを承知で、私は自分の意思でここに来たし、これも運命だと思って受け入れるしかないよ」
 最後の言葉は少し見栄を張ってしまったかもしれない。自分の意思で先生に付いて来たことは事実だし、感染の危険度が増すことも理解しているつもりだった。しかし、実際自分が結核に罹ってみれば、その現実を到底受け入れられないことに気づかされた。私は、結核を患った自分を「運命」だなんて、割り切って考えることは出来なかった。
 でも、私には待っていてくれる杏寿郎さんが、先生が、他にも大切な人達が沢山いるし、ここにはフミちゃんも居てくれる。だから私はこうして治療に前向きになれるのだ。
 冬の冷たい北風に吹きつけられてカタカタと音を鳴らす窓の外をぼんやりと見つめていると、自分の寝台から身を起こしたフミちゃんが、私の隣に腰掛ける。
「名前ちゃんに聞きたかったんだ。…私があげた本、役に立ったかなって?」
 フミちゃんが私に耳打ちする。突飛な質問に慌てて横を向けば、彼女はマスクの上の大きな瞳を興味深々といった様子で輝かせている。
「ねぇねぇ、行けた?お蕎麦屋さん」
「あ、あの…えっと」
「あー!名前ちゃん、顔赤い!その反応は、彼を誘ったね」
 フミちゃんがマスクの中で楽しそうな声を上げて私の手を引くものだから、観念して口を開く。
「誘ったんだけど…その、緊張しちゃって…最後まで……出来なかった」
「え、そうなの?」
 蚊の鳴くような声でぼそぼそと言えば、フミちゃんは大きな目を白黒させる。やはり途中で止めてもらうなど、非常識なのだろうか。それも自分で杏寿郎さんを誘っておきながら、だ。
「彼のこと凄く好きなのに…なんかいっぱいいっぱいになっちゃって。どうしたらいいか分からなくて」
「名前ちゃん、初心で可愛いね」
 経験者の余裕なのか、フミちゃんは慰撫するように私の肩を撫でた。何故だか急に不安になって、私は眉を窄めて窺うように問う。
「やっぱり…失礼だったかな?」
「ううん。途中で止めてくれたってことは、名前ちゃんのこと大切に思ってるってことだよ。だから、きっと大丈夫。彼は分かってくれてるよ」
「大切に…。うん…そうかな」
 フミちゃんの言葉に、杏寿郎さんへの愛しい気持ちや会えない寂しさが胸の奥の方からじわじわと込み上げてくる。この施設に来てから早いものでひと月以上が経過しており、手紙の遣り取りこそ頻回にしているが、愛する人に会いたい気持ちが日に日に募っていくのは論を俟たない。
「これ、彼からの贈り物でしょ?この間ここに来た時は付けてなかったよね」
 太腿の上で両手を丸めて拳を作り、それをじっと見つめながら杏寿郎さんへ想いを馳せていると、フミちゃんが、私の結った髪を飾る簪にそっと触れた。
「あ、うん。これは、彼のお母様の形見の簪で。その…夫婦になろうと言われた時に贈ってもらったんだ。無くしてしまったら困るから、前回は自宅に置いてきてたんだけど」
「形見の簪…かぁ。名前ちゃん、本当に愛されてるんだね」
 簪を数回撫でたフミちゃんは、今度は病室の天井を仰ぎ、ぽとりと落ちる雫のように呟いた。
「…フミちゃんの彼は…その」
 向こうの家とは連絡すら取らせてもらえないという話を聞いたことを思い出し、尋ねてもいいものかと逡巡した後、躊躇いがちに問う。直ぐに答えは返ってこず、私達の間に流れる空気を沈黙が支配する。
「ご、ごめんね、私余計なこと聞いて」
 やはり聞くべきではなかったか。フミちゃんはひょっとすると、マスクの下で泣いているかもしれない。胸が焼けるような焦りを感じ、取り繕うように言えば、彼女は目を三日月型に細めて笑っていた。
「名前ちゃん。…私ね、彼がいつか迎えに来てくれるって信じてるんだ。今は連絡は取れないけど、私がこの療養所に来る前に、約束してくれたんだよ。必ず夫婦になろうって、病気も家のことも関係ないって」
「っ…そっか。…フミちゃんも、凄く、愛されてるんだね。素敵な人に巡り合えて、良かったね」
「うん。私、幸せだよ。いつか絶対四人ででぇとしようね」
 フミちゃんは花が咲いたように笑い、桜の花びらのようにもろく繊細な顔が、酷く美しかった。
 この境遇に置かれた自分を、「幸せ」と断言することが出来る彼女は、本当に強い女性だ。私も彼女のように強く生きなければならない。自分の病気と向き合っていかなければならない。私にも、待っていてくれる大切な人がいるのだから。
「うん、約束。一緒に元気になろうね」
 一語一語噛みしめるように言ってゆっくりと頷いた私に、マスクに覆われていても分かるくらい、フミちゃんは幸福そうに微笑んだ。
 しかし、この日から二週間後、彼女は帰らぬ人となった。それはあまりにも唐突な死だった。
 フミちゃんのご遺体がご家族によって引き取られた日は、春を思わせる陽射しが降り注ぐ温かい日だった。桜の木枝には鈴なりに蕾がついており、開花のその瞬間を息を潜めて待っているようだった。
 フミちゃんのご家族の中には、杏寿郎さんともそう年齢が変わらないであろう青年の姿があった。彼こそが、フミちゃんと愛を誓いあった人なのだと直ぐに分かった。霊柩車に乗せられた棺の中のフミちゃんの手には、桜色のとんぼ玉が特徴的な、可愛らしい彼女にぴったりの簪が握られていた。

  

 筆を置いた私は丁寧に折りたたんだ便箋を封筒に入れ、開けられた窓の冊子で羽を休める要さんにそれを託した。寝台の隣に設置されている床頭台には、この施設に来て受け取った杏寿郎さんからの沢山の文が束ねられている。
「要さん。…今回もよろしくお願いします」
 濡羽色の羽を撫でながら言えば、要さんは返事の代わりにその美しい羽で私の手の甲を軽く撫で、蒼穹の彼方へ飛び立っていった。療養所に植えられた桜の開花も近いこの時期は、一日中日差しが柔らかく、窓から吹き込む温められた風が酷く心地よかった。
 杏寿郎さんに会いたい。会いたくて堪らない。私をここから連れ出して欲しい。
 そんなことを文に綴れば、優しくて多忙を極めている彼を困らせてしまうことは当然理解している。けれども私は、フミちゃんを失ってからというもの、心の中を掻きむしられるような絶え間ない焦燥と恐怖に喘いでいた。
 先生の傍で何度も患者を看取ってきた自分は、結核が突然呼吸状態を悪化させ、昨日まで元気だった人を翌日には帰らぬ人にしてしまう恐ろしい病だということを、疾うに知っていたはずだ。分かっていたはずだ。
 けれども、あまりにも身近な人の死に、私は自分の死を重ねずにはいられなかった。私も、ある日突然、帰らぬ人となるのかもしれない。愛する人と再会することもなく、フミちゃんの後を追うことになるのかもしれない。
 怖くて、苦しくて、眠れない夜が続いた。血性痰混じりの咳嗽も増え、食事も喉を通らない。一緒に頑張ろうと励ましてくれるフミちゃんも、もう居ない。私の体力は衰える一方で、日に日に自分の命の灯が小さくなっている気がした。
「苗字さん、向こうの病室の準備が整いましたよ。歩いて移動できそう?」
 療養所で勤務する看護婦に肩を揺すられ目覚めた私は、重たい瞼を持ち上げゆっくりと首肯する。数日眠れていなかったこともあるのか、深い眠りについていたようだ。徐に寝台から身体を起こして窓の外を見れば、明るい空が余すところなく広がっていた景色は、既に闇によって塗り潰されていた。
 呼吸症状が悪化した私は、今日、重症病床へと移ることになった。固く閉ざされた扉の向こうの未知の世界へ、苦心惨憺の末、足を踏み入れることになる。
 看護婦に促され、鉄扉よりも重そうな引き戸の前に立つと、突然、心臓を踏みつけられたような息苦しさに襲われる。窒息感に苛まれて手足が痺れ、頭の中が溶け落ちるようにぼんやりとしてくる。立っていることが出来ずにその場へ崩れ落ちる。
 寝巻用の浴衣に、廊下の冷たさが少しずつ染みてきた。看護婦の切羽詰まった声が耳に滲み、医者を呼びに行くのか、廊下を走る音が私からあっという間に遠ざかっていく。ぜぇぜぇと喘ぐ自分の耳障りな呼吸が、静かになった廊下の空気を震わす。
 ああ、私はもうこのまま死ぬのかもしれない。せめて最後にもう一度だけ、杏寿郎さんの温もりに触れたかった。太陽のように眩しい笑顔を見たかった。人を惹きつける真っ直ぐすぎる瞳で見つめて欲しかった。
「はぁ、っ、はぁ…っ、きょ…じゅろ…さ」
「名前っ!」
 大好きな人の声が聞こえる。幻聴が聞こえ始めた私は、やはりもう、長くないのだろう。するともう一度、私の名前が耳に流れ込んできた。そして、春の陽のような温もりと、嗅ぎ慣れた青い香りが私を包んだ。頬に広い胸があたり、逞しい腕が背中に回る。どくどくとした脈動が、頬を通じて伝わってくる。
「名前…っ」
 汗が滲んだ額に、柔らかな唇が押し付けられた。涙を溢れさせる私の瞳が映したその人は、体をきつく抱き締めてこちらを見つめるその人は、死ぬほど会いたくて堪らない人だった。
「っ…なんで、杏寿郎さん…」
 絞り出すように言うと、杏寿郎さんの肩に濡羽色の羽が見えた。
「決まっているだろう……必死で病と闘う君が苦しんでいるのに、放っておけると思うか」
 いつもは心地よい杏寿郎さんの低い声も、微かに震えていた。
「っうぅ、杏寿郎さん、助けて。…っ、もう一人は嫌。杏寿郎さんとずっと一緒にいたい。死ぬのが怖い。…お願いっ…お願いします。私をここから…連れ出して」
 杏寿郎さんに縋り、冀うように言う。音が止み、骨が砕けそうなほど、声が出せないほど、身体を強く抱きしめられる。数秒後には、爪先が宙に浮いていた。