episode 32
希望を捨てないで


 

 先生の姿を確認すると、杏寿郎さんは苦笑しながら私を解放した。まるで、「また間合いが悪いですね」と言わんばかりの表情だ。
「説明?…先生、杏寿郎さん。どういう…ことですか?」
 私達の傍にゆっくりと腰を降ろした先生と杏寿郎さんの間で視線を彷徨わせる。どうやら、杏寿郎さんも何か知っているらしい。一体今から、何を説明されるというのだろうか。
「実はね、名前ちゃん。完成したんだ、結核のワクチン…というものがね」
「ワクチン?」
 先生の口から紡がれた聞きなれない単語を復唱し、小首を傾げる。先生はゆっくりと頷いて、説明を加えてくれる。
「簡単に言えば、弱った結核菌を体内に入れて免疫を作るものだよ。実は西洋では一足早くワクチンが完成していた。それを参考に、遂に我が国でも形にすることが出来た。これを日本国の全員が打てるようになれば、皆免疫を獲得出来て、圧倒的に結核の感染者が少なくなるはずなんだ」
「嘘…凄い…そんなことが、本当に…」
 吃驚で二の句が継げなかった。この功績がどれだけ凄いことなのか、素人の私にだって分かる。やはり先生は、凄い人なんだ。
「でもね、これが政府に認可されるには治験が必要なんだ。これを本当に人間に投与しても問題ないかという証明が、ね。副作用が出たり、突然死を引き起こす可能性もあるからね」
 そこまで言って、一度先生は杏寿郎さんを見て、再び私に視線を戻した。
「先生…もしかして」
「ああ、そうなんだ。今回、杏寿郎くんが快く治験を引き受けてくれた。勿論このワクチンを投与すれば絶対に結核には感染しない、とは言えないが…その確率はぐっと下がる」
「杏寿郎さん…なんでそんな」
「なんで…と聞かれると困ってしまうな。俺は母を結核で亡くしているし、少しでも世のためになればと思い先生に協力したまでだ。……というのは建前で、名前の傍に居たかったというのが本音だな。それではだめか」
「っ…杏寿郎さん」
 強い意志に裏打ちされたような迷いのない声に、胸のあたりから喉元に重い空気の塊が込み上げてくる。喉にせり上がった思いが目を震わせ、驚きで一度は引っ込んだ涙が再び顔を出す。眉尻を下げた杏寿郎さんは口元に小さな笑みを浮かべて、太い指で私の涙を拭ってくれる。
「まだ結核への特効薬はない。…その事実は揺るがない。でもね、名前ちゃん。まだ諦めるのは早い。君だって、療養所で出会ったフミちゃんにそう言ってあげたんだろう。発症したからといっても、その先に死があるとは限らない。一緒に、頑張ろう。私も杏寿郎くんも、名前ちゃんの傍に居るから」
 先生の言葉が、さらなる涙を誘発する。涙腺が崩壊し、滝のような涙が頬を伝ってぼたぼたと布団に落下する。体中の水分を全て絞り出してしまうのではないかと思うほどの量だ。
「先生っ…杏寿郎さん…っ、ありがとうございます。私……もう…諦めていました。もう二度と杏寿郎さんにも会えないって思ったら…それだけで生きていることが辛くて…苦しくて」
「名前…」
 私の名前を大切そうに呟きながら、杏寿郎さんが慰撫するように頭を撫でてくれる。先生が居なければ、彼の腕はまた、私を胸の中に引き戻してくれそうだった。
「でもっ、でも私…頑張ります。絶対に治して、杏寿郎さんと一緒になりたい。元気になって、まだまだ先生のお手伝いがしたい」
「うん。私もそう思っているよ。…だからね、名前ちゃん、私から一つ提案があるんだ」
 先生は穏やかな笑みを湛えて何度か頷いた後に、再び口を開いた。
「提案、ですか?」
「ああ。…あの結核の療養所に行くのがいいと、私は思ってる。この辺りの地域は、ここ数年でかなり発展した。生活しやすくなった半面、肺には芳しくない排気ガスの量も多い。治療をするのに最適な環境とは言えない」
「療養所に…」
「ああ。名前ちゃんも理解しているとは思うけど、一度行けば、それなりに治療に時間はかかる。暫く、杏寿郎くんや家族に会えないと思う。…それでも、二人の未来を考えたら、あの施設で治療をすべきだと思う」
 事前にこの話を先生から聞かされていたのか、杏寿郎さんは何も言うことなく私の答えを待っている。一生杏寿郎さんに会えなくなってしまうことと、人生のほんの短い期間会えないことを天秤にかければ、どちらに軍配が上がるのか。それは考える余地もない。
「先生…私、療養所に行きます。しっかり治療して、絶対に治して、杏寿郎さんの…先生の元に戻ってきます」
 自分でも驚くくらい、己を鼓舞するようなしっかりとした声だった。そんな私の様子に先生は口元を綻ばすと、緩慢な動作で畳から立ち上がる。
「そうと決まれば、早速私から連絡を入れておこう。数週間もすれば、病床を調整してもらえるはずだ」
「は、はい!ありがとうございます」
「うん。…じゃあ私は、診療所でもう少し仕事があるから。…杏寿郎くんとゆっくり話したいこともあるだろう」
 先生は器用に片目をつぶって、私の部屋を後にする。襖は開けられたままだった。結核は空気を介して感染する。いくら杏寿郎さんが弱毒化した細菌を体内に取り込んだからといって、長時間密閉された部屋で二人きりでいるのは褒められたものではない。でも、一秒だけ、一瞬でもいい。杏寿郎さんにもう一度触れたいと思ってしまう。
「名前」
 先生の気配がなくなると、杏寿郎さんは躊躇なく私の手を引いた。私は再び、彼の広い胸の中にすっぽりと収まった。身体を通して感じる杏寿郎さんの脈動が、子守歌みたいに酷く心地良かった。神様が私達の傍へ寄ってきたような、温かい幸福を感じた。
「杏寿郎さん…ありがとうございます。…私、杏寿郎さんと出会えて…幸せです。…でも、あまり長い時間一緒にいると――」
私を力強く抱き締め首元に顔を埋める杏寿郎さんに遠慮がちに言えば、首筋をねろりと熱い舌が這った。
「ひゃっ…ん」
 妙に色気のある声が出て、慌てて口を押えようとすれば、一瞬早く杏寿郎さんの唇が重なった。流石に接吻はまずいのではないか、と思うのに、極上に優しい口付けに、身体中が限りない幸せに満ち溢れ、私はどうしてもそれを拒むことが出来なかった。
「名前…愛している。この先どんなことがあろうとも、俺の側に居て欲しい」
「…杏寿郎さん。私も、愛しています。ずっと…ずっと側に居させてください」
 気づけば窓の外には粉雪がはらはらと舞い始めていた。それはまるで、私達が出会った時に舞っていた、桜の花びらのようだった。

  

「いよいよ明日だな。名前…寂しくはないか?」
 私が横になる布団の隣で、肘をついて畳に寝そべった杏寿郎さんが伺うように問うた。
 あの日から、約二週間が経過した。私は明日、療養所へ向かうことになっていた。
 ワクチンを投与されている杏寿郎さんに、現時点で感染兆候は出ておらず、今もこうして任務の合間を縫って、私に会いに来てくれている。
「はい。杏寿郎さんに暫く会えないのは寂しいですけど…でも頑張ります。…あの、沢山文を書いてもいいですか?ご迷惑になりませんか?」
「迷惑なわけがないだろう。俺も文を送る」
「ふふ、ありがとうございます。また要さんに、迷惑かけちゃうかな」
 口元に苦笑いを浮かべると、杏寿郎さんがゆっくりと首を振ってやんわりと私の言葉を否定する。そして、私の肩に手をかけ距離を詰める。
「それもいらぬ心配だな。…名前、君は強いな」
「え?」
「寂しいのは、俺の方なのだろうな」
「杏寿郎さん、そんなに寂しいんですか?」
 眉尻を下げて呟く杏寿郎さんの頬に手を伸ばせば、その手を容易に絡めとられ、指に熱い唇が寄せられる。
「…俺が君の笑顔にどれだけ勇気づけられているか、分からないだろうな。…本当は、一瞬たりとも離れたくはないのだが。隊服に入れて、持ち歩きたいくらいだ」
「え?あはは、杏寿郎さん、なんか可愛い」
 神妙な顔付きで冗談を口にする杏寿郎さんが可笑しくて、笑いが零れる。照れくさそうに息を吐く杏寿郎さんも、なんだか可愛らしかった。
「杏寿郎さん…」
「ん?なんだ」
「一つだけ…お願いしてもいいですか」
 何でも言ってくれ、といつもの調子で答える代わりに、杏寿郎さんはさらに私との距離を縮める。こうしていると、なんだか同衾しているみたいだな、なんてはしたない思考が頭を過る。
「……口付けて、くれますか?」
 言いながら、頬が破裂しそうなほど熱くなる。私の顔はどのくらい赤く染まってしまっているだろうか。けれども、暫らく杏寿郎さんと離れ離れになることを思うと、言わずにはいられなかった。大好きな人の温もりを、身体に刻み込んでおきたかった。
 数秒の沈黙を挟んで、杏寿郎さんは口元を綻ばす。私を映す大きな目が優しく細まり、ゆっくりと唇が降ってくる。
「願ってもないお願い、だな」
 唇を離した杏寿郎さんが呟くと、甘い息が唇にかかって、病人らしくない欲求が沸き上がってくる。
「…ありがとうございます。…あの、でも…もっと」
 杏寿郎さんを直視出来ないまま、頬を染めて蚊の鳴くように呟けば、敏感に私の気持ちを察してくれた愛しい人が、今度は熱烈な接吻を贈ってくれた。
「んぅっ…ふ…はぁ…ぁ」
 最近はこうして寝てばかりだから、体力は落ちる一方だ。あっという間に息が上がるも、杏寿郎さんは唇を解放してくれない。いくらワクチンを打っているからといって、流石に長時間濃厚な接吻を続けることは、杏寿郎さんの身体にも影響が出てしまう可能性がある。焦燥感を覚えて大きな胸を押すも、後頭部に手を回され口付けを深められるばかりだ。
「…っ…はぁ…はぁ…杏寿郎さん…こんなには…だめ…うつっちゃうから」
「言い出したのは名前だろう。君が悪い。そんなに可愛いらしいことを言われて、我慢できる男が居たら会ってみたいものだな」
「杏寿郎さん…」
 漸く唇が離れたところで呼吸を整えながら言えば、杏寿郎さんは私が悪いと一蹴し、互いの唾液で濡れた唇をぺろりと舐めた。そしてその形の良い唇が、耳元にそっと寄せられる。
「…なぁ、名前。俺からの願いも、聞いてもらっても構わないだろうか?」
「はい、勿論です。杏寿郎さんのお願いって――」
「君が帰ってきたら…今度こそ名前を抱いてもいいか?」
 予想外の杏寿郎さんの甘い言葉に、子宮のあたりがきゅうっと痛くなる。全身を巡る血が沸き立つように、肌が火照る。
 私の方こそ、願ってもいないお願いだった。けれども、嬉しさよりも羞恥が勝って、中々自分の気持ちを口に出来ずにあたふたしていると、杏寿郎さんが止めを刺すように、もう一度囁いた。
「…次は、途中で止めるつもりはない」
 なんとか首を縦に動かして、照れくさいのを誤魔化すように杏寿郎さんの胸に飛び込んだ。大好きな匂いに、体温に、包まれる。
 きっと私は戻ってくるんだ。この人の元に。この愛しくて堪らない人の元に。