episode 31
本当に怖いもの


 

 破談と別れを申し出る文をしたためて、今日、煉獄家の往診に向かう先生へとそれを託した。眉間に皺を刻んだ先生は、致し方ない、といった様子で杏寿郎さんへ宛てた文を受け取り、大切そうに着物の内側へ収めた。
「…名前ちゃん、本当にいいのかい」
「はい。…もう、決めたんです。杏寿郎さんの顔を見たら…きっと決心が鈍ってしまうから」
 無理やり口元に笑みを浮かべて言うも、言葉の最後は震えていた。そんな私の頭を、先生が大切そうに何度も撫でてくれた。
「君が杏寿郎くんとの別れを選択した気持ちも勿論理解出来るよ。でも、一方的に別れを告げられた彼はどうだい。いくらそれが自分のためだと分かっていても、杏寿郎くんはきっと苦しいはずだ。名前ちゃん。…これは最後と決まったわけじゃないんだよ。私の研究はまだ実を結ばないが、それでも着実な一歩は踏み出すことが出来ている。ちゃんと杏寿郎くんと話し合って――」
「杏寿郎さんは、私とは違います。私だけでなく、沢山の人を守らなければならないお立場に居ます。もし、そんな人が病魔に侵されてしまったら、それこそ困る人達が沢山出てきます。先生もご存知ですよね。…煉獄家は、代々鬼狩りを生業とする由緒ある家系なんだそうです。血を絶やすことは許されない」
 先生の言葉を遮って頭を振る。もう、決めたことだ。結核という病が確定した時点で、私は杏寿郎さんと別れる決心をした。一方的に決断してしまったことは本当に申し訳ないと思っているが、それが最善の策のような気がした。優しい杏寿郎さんは、きっと私を突き放すことはない。仮に嫌になったとしても、優しさがそれを邪魔するだろう。だから自ら身を引く。これが正解。否、正解にしていかなければいけない。自分の人生なのだから。
「……何もしてあげられない自分が…情けないな。医者なんて、本当に『医者』という呼称ばかりが独り歩きしている職業だ」
「そんなことありません!私は、先生に出会えたことに感謝しています。私は先生の傍で、多くのこと学びました。それに、私をここに、ずっと先生のお家に置いてくださっていることも…なんとお礼を言ったらいいのか」
 哀調を帯びた声で自嘲気味に呟いた先生の言葉を、精一杯否定する。先生に会うことがなければ、今の私は存在しなかっただろう。
「そんな最後みたいなことを言うのはよしてくれ。名前ちゃん、頑張ろう。頑張って治療して、良くなるんだ。家にはずっと居てくれていいから。君はもう、私の娘みたいなものなんだから」
「っ…先生…。私も、先生のことをずっと父親のように思っていました」
 先生の優しさに涙が溢れる。結核を患った私を、自分のもとで療養させるよう母親へ頼んでくれたのは先生だった。私の生家がある田舎に父親と同じ病を患った娘が戻ってこようものなら、近所から非難されることが想像に難くなかった。私も、これ以上母に苦労をかけさせたくなかった。故に、先生からの申し出は、日照り続きの地に降った雨のように有難かった。
「じゃあ、行ってくるよ。喉を痛めないよう、温かくして布団に入っているんだよ」
「はい、先生。お気をつけて。…手紙を、宜しくお願いしますね」
 遣る方ないと言わんばかりの笑みだけ残して、先生は診療所を出発する。一瞬だけ開いた玄関の扉から冷たい風が容赦なく吹き込んできて、あまりの寒さに体がぶるりと震えた。

  

 玄関の扉が開く音で目が覚める。布団へ潜り込んだ私は、直前に内服した薬の影響なのか、襲ってくる睡魔に抗えず暫く眠ってしまっていたようだ。
 身体を起こし窓に目を向けると、真っ暗になった外のかわりに、こちらの景色を鏡のように反射させている。映し出された自分の顔が、憔悴しきっていることに驚いた。不健康そうな青白い肌に、乾燥した唇。泣いてばかりの瞼は赤くぽってりと腫れている。
「良かった…。杏寿郎さんにはこんな酷い顔…見せられない」
 自嘲するように独り言を漏らして、乱れた髪を撫で付ける。
 独りぼっちだった家に人の気配が戻って来る。恐らく先生が往診から戻ったのだろう。何もしなくていいと言われているが、せめて出迎えだけはさせて欲しい。枕元に畳んであった丹前を手に取り袖を通さずゆっくり肩にかけたところで、襖を叩く音がする。
「先生?ごめんなさい、私、眠ってしまっていたみたいで。今お迎えに伺おうと思っていたんですけど」
「名前…俺だ」
 耳が捉えたその声に、どきりと心臓の鼓動が大きくなる。どうして。どうして。
「…名前、悪いが失礼するぞ」
 だめ。来ないで。そう口にしようとしても、喉が絞られたように声が出なかった。代わりに、視界に捉えた杏寿郎さんの姿がぐにゃりと歪んでしまうほどの涙が、両目から溢れ出す。なんで。どうして。杏寿郎さんがここに?張り詰めていた糸がぷつりと切れて、熱い嗚咽が漏れる。
「っ…だめ、来ないで…きょ…じゅろ…さ…来ちゃ、だめっ」
 震える声を絞り出して懇願するも、身体はぴくりとも動かない。涙に潤んだ目が、愛しくてどうしようもないその人の姿を捕らえ、離すことが出来ない。
「…っ、名前」
 視界に映る杏寿郎さんの姿が徐々に大きくなって、ついに、目の前を彼の胸が覆った。広くて温かい胸の中に、私は須臾にして収まってしまった。湧き湯のように熱い涙が、杏寿郎さんの立派な隊服に染みを作っていく。
「嫌です…杏寿郎さんっ…私に…近づかないで…だめっ…ゃだぁ」
「…その頼みは聞けん。どうして全て一人で抱え込もうとする。どうして何もかも一人で決めようとする。…俺は…俺は名前にとって、そんなに頼りない男なのか」
「違うっ…そんなわけないっ…私は…」
 杏寿郎さんの胸を弱々しく押すも、石壁のようにぴくりとも動かない。逞しい腕は、骨が折れてしまいそうなほど強く私を抱きしめ続けた。
「あの日、君は言ったな」
 耳元で揺らいだその声は、微かに震えているような気がした。
「あの日…」
「死を恐れて、当たり前の日常が無くなることを恐れて、好きで堪らない者と、自分が一緒に居たいと思う者と、同じ時間を共有出来ないことはずっと不幸だと」
 気持ちを通じ合わせ、口付けを交わしたあの夜の記憶が、幸福な時間が、走馬灯のように思い出される。
「名前は、鬼殺隊の俺を、いつ命を落とすかも分からない俺を、躊躇なく受け入れてくれただろう。俺がどれほど嬉しかったか…君には分からないだろうな」
「きょう…じゅろ…さん…」
 抱き締める腕の力を緩め、杏寿郎さんは私の顎を掴んで少しだけ上に向かせる。ただでさえ青白く生気のない顔をしているのに、涙や鼻汁でぐちゃぐちゃになったこんな不細工な自分を見られたくなくて、首を左右に振ってささやかな抵抗をする。
「やだっ、見ないでください。私、酷い顔してるから」
「君はいつだって綺麗だ。…名前。俺は、名前が愛しくて堪らないのだ。これ以上一人で、苦しまないでくれ」
「っう…ふぇっ…でも、でも私は病気で、杏寿郎さんは煉獄家の大切な跡取りで。…だから、私っ…」
「俺も父も千寿郎もそんなことを気にする人間ではないと、名前はとうに分かっているだろう」
「っ…」
 涙で胸が咽て言葉が出ない。私を見つめる杏寿郎さんの大きな瞳が微かに赤みを帯びていた。辛いのは、苦しいのは、私だけでは無かったのだと思い知らされる。彼だって私以上に、心痛めていたのかもしれない。
 私の顎から頬に手を移動させ、杏寿郎さんが端正な顔を近づける。熱い吐息が唇を掠めた。だめ。このままでは触れてしまう。危機感を感じて、渾身の力を振り絞って顔を背ける。
「だめっ、杏寿郎さん。うつってしまいます」
「名前…実は――」
「杏寿郎くん。それは私から名前ちゃんに説明しようか。はは。いつもいつも、いい所で邪魔をしてごめんよ」
 杏寿郎さんが何か言おうと口を開きかけた時、心苦しそうな声が聞こえ、その直後、開けっ放しだった襖から先生がひょっこりと顔を出した。