episode 28
控えめな誘惑


 

 療養所で過ごす最後の日。今日私は、ひと月ほど過ごしたこの施設を後にする。お世話になった人達やすっかり打ち解けた患者達に挨拶を済ませた私は、最後にフミちゃんの寝台へと向かう。こちらの気配を察知したフミちゃんが、読んでいた雑誌から顔を上げ、目を三日月型にして私を見た。
「よかった、名前ちゃんが来てくれて。挨拶も出来ないまま、お別れかと思ったよ」
「そんなはずないよ」
 拗ねたように言うフミちゃんの言葉を勢いよく否定してから、私は寝台の傍にあった丸椅子を引き寄せ腰掛ける。「そんなはずない」と口では言っていても、実際にフミちゃんと距離を置いていなかったと言えば嘘になる。先生は、私がフミちゃんの救いになる存在だと言ってはくれたが、やはり彼女に安易な激励をしたのではないか気掛かりだった。
「あはは、名前ちゃん。なんか顔怖いよー」
 無意識に眉根に力が入っていたようで、私の表情を見たフミちゃんが可笑しそうに笑って、間延びした声で言う。
「ご、ごめん!あの、私――」
「そんな顔させちゃうの…きっと私のせいだよね。ごめんね」
「え…」
「私、先週泣いてしまったでしょう。弱気なことを言って。…そのことが、名前ちゃんを困らせたんじゃないかって、ずっと気になってて…」
 フミちゃんが申し訳無さそうに言って、起坐位から端坐位へと姿勢を変え、椅子に腰かける私と向かい合うような体勢となる。
「そんなことない!寧ろ…私の方こそ安易な励ましをしたんじゃないかって…ずっと気掛かりで」
「そう。私がちゃんとそれを言わなかったのが、いけなかったんだよね」
「え?」
「私、名前ちゃんの言葉、凄く嬉しかったんだよ。あんな風に励ましてくれる人、近くには居なかったから。恋仲の彼とは…今は向こうのご家族に止められて、連絡を取る手段すらなかったから、私ずっと淋しかったんだ。だからね、あの日名前ちゃんが、諦めないで一緒に頑張ろうって言ってくれたのが、本当に私の力になったんだよ。ずっと、お礼を言わなくちゃって思ってたんだけど。結局最後の日になっちゃった」
「フミちゃん…」
 涙を流さんばかりの自分の声。瞼が熱く膨らんでくるも、なんとなくここで私が泣いてはいけないような気がして、大きく呼吸をして自制する。
「私、絶対に良くなって名前ちゃんに会いに行く。だから、その時は、お互いの旦那さんを連れてでぇとしよう!」
「っ…でぇと?」
 フミちゃんが私の手を取りぎゅっと握りしめる。瞬きすればきっと涙が弾け飛んでしまうだろうから、私は目に力を入れ必死に瞼の開閉を堪えながら、フミちゃんに問いかける。すると、目を赤くしたフミちゃんは、泣きながら笑った。それにつられるように、私の頬にも涙が伝った。
「あはは、やっぱり名前ちゃん、何も知らないんだ。『でぇと』って言うのはね、逢引のことだよ。最近は皆そう言うんだよ!」
「ふふっ…そうなんだ。教えてくれて、ありがとう」
 笑いながら、はらはらと零れ落ちる涙を拭う。泣きながら笑い合っている私達は、周囲から見れば少し変梃かもしれない。
「あ、あと、この雑誌、名前ちゃんにあげる。お家に帰ったら読んでみて」
「え?あ…ありがとう。…でも、これって…」
「大人の女としての心得が書いてあるから」
 先程まで自分が読んでいた雑誌を手渡しながら、フミちゃんは内緒話をするみたいに、私の耳にマスクで覆われた顔を寄せた。
「名前ちゃん、どうせまだその恋仲の彼と同衾していないでしょう」
「どっ…」
 思わず口から飛び出しそうになった言葉を、両掌でマスクの上から口を覆って制止する。「同衾」という単語は勿論知っている。しかし、その単語が持つ意味を十分に理解しているとは言い難かった。世間一般の意では、一つの寝具で人が一緒に眠ることとなっているが、どうやらそれは性的な行為を示唆して使うことが多いらしい。
 先生の元に来る前に通っていた女学校でも、子供の作り方というものは教えてくれたし、子を孕むために性交渉をするのだと習ったが、その詳細はぼかされ抽象的だったため、結局良く分かっていなかった。当然今まで、それを一から丁寧に説明してくれる人も居なかった。
「読むと結構勉強になるよ。嫁入り前の心得」
「フミちゃん…」
 慣れない会話の内容に、頬がどんどん熱くなる。恥ずかしいけど、興味がないわけではない。
「ふふ…実は私はもう彼と経験済みだよ」
 私にだけしか聞こえないように囁いたフミちゃんが心得顔で頷く。
「えっ!…で、でも、こういうのは普通…夫婦になってからするものじゃないの?」
「夫婦になる約束をした男女は、意外と済ませている男女も多いよ。だって想い合っている二人なんだよ。名前ちゃんだって、もっと彼に口吸いして欲しいとか、抱き締めて欲しいとか、離れたくないって思うでしょ」
「お、思うけど…でも、そんな場所」
「お蕎麦屋さんに、彼を誘ってみたら」
「えっ?」
 目を見開いて聞き返すと、私を探す先生の声が病室の外から聞こえてくる。もう出発の時間だ。
「詳しくはその雑誌の中。ふふ、名前ちゃん、手紙書くね!」
 フミちゃんは片目を器用に瞑って私に笑いかけ、声を弾ませた。そして、今にも折れてしまいそうな針のように細い手で、「さようなら」と手を振った。
「あ、もうそんな時間…うん!私も書くから。フミちゃん、絶対元気になってまた会おうね」
 マスクをしていても分かる、フミちゃんの花の咲いたような笑顔と、無邪気な明るい声に、絶対また再会するんだ。私は決心するように頷いて、病室を、療養所を、後にした。

  

 山間を縫うように走る汽車の窓の向こう側の景色は、もうすっかり仲冬の風情だ。つい先日まで山々を彩っていた紅葉も、今はすっかり枯れ木に姿を変えてしまった。
「杏寿郎さん、今日、少し緊張されてましたよね」
 車窓から隣に座る杏寿郎さんへ視線を移し、悪戯っぽく言ってみる。すると彼は眉間をかいて苦笑した。
 今は、二人で苗字家に結婚の挨拶に行った帰りの、汽車の中だった。杏寿郎さんは先月の約束を果たしてくれたのだ。
「むぅ、緊張しない方がおかしいだろう。君の御母上に断られてしまったらどうしようかと思ったが…受け入れて貰えて安心した」
「母がそんなことをするわけがないです。私の母でなくとも、杏寿郎さんが結婚の挨拶に現れたら、誰だって二つ返事で快諾してしまうと思います」
 愛しい人の顔をまじまじと見ながら言う。杏寿郎さんの髪が夕方の光を受けて金色に輝いている。綺麗だな、と思う。金糸だけではなくて、夕日を映す大きな瞳も、整った輪郭も、肌理の細かい肌も、何もかも全て。
「…以前も言ったと思うが…そんなにじっと見られると、こちらが妙な期待をしてしまう」
 薄い唇がふいに笑みの形を作ったかと思うと、誘惑するようにも見える瞳が私を捉えた。
「あっ…あの…」
 どくん、と心臓が跳ね、私は杏寿郎さんの瞳に捕獲されてしまう。恥ずかしいのに、目が離せない。顔の温度がみるみる上昇していくのが分かる。
「…名前……」
 耳に熱い息を吹き込まれるように囁かれると、心臓が握り潰されたようにぎゅっと痛くなって、全身がむず痒くなる。杏寿郎さんが私の腰に片腕を回して、微かに開いていた距離を隙間なく埋める。身体が密着すると、顔だけでなく全身が火照り始める。
「杏寿郎さん…あのっ…」
 唇がくっついてしまいそうなほど、端正な顔が至近距離にある。いくら平日の汽車の中が空いているとは言え、流石にこんな人目に付く所で堂々と戯れ合う勇気もない。でも、杏寿郎さんに触れられるのはちっとも嫌じゃない。恥ずかしいのにどうしたらいいのか分からず、もう杏寿郎さんに身を任せようと目をぎゅっと瞑った所で、彼の気配が離れていくのを感じる。
「頼むから…そんなに余裕が無さそうな顔はよしてくれ。…俺も、ますます余裕がなくなるだろう」
「よ、余裕がなさそうな、顔…」
「食べてしまいたくなるほど、可愛らしい顔ということだ」
 杏寿郎さんが私の髪を掬って耳へかけると、大きな掌を頬に添えて苦笑した。心臓が、先ほどよりも勢いを増して、どくんどくん、と隆起と陥没を繰り返す。
 杏寿郎さんが好き。こんなにも愛しい。本当はもっと沢山触れていて欲しい。口付けて欲しい。様々な欲求が脳内を奔命し、気づけば私は杏寿郎さんの腰に手を巻き付けて、自ら彼を抱きしめていた。
「名前?」
「……っ…杏寿郎さん…お蕎麦屋さんに…行きたい」
 恥ずかしくて彼の顔が見られなかった。女性からする発言ではないことは百も承知だ。
 フミちゃんが教えてくれた、異性を蕎麦屋に誘う行為がどういう意味を持つのか、今の私はとうに心得ていた。当然、杏寿郎さんだってその意味を分かっているだろう。
 私達の間に沈黙が降りる。丁度その時、汽車がトンネルに差し掛かり、轟々と暗い響きが車体を包み、がたがたと窓が揺れた。すると、夕日が遮断された車内が一気に暗くなるのが早かったか、私は肩をぐっと引き寄せられ、唇に柔らかいものを押し付けられていた。それが杏寿郎さんの唇であることは直ぐに分かった。
 そこから、執拗な接吻が始まる。大きな手が後頭部に回されると、磁石みたいに唇が密着した。杏寿郎さんの唇が私のそれを食んで抉じ開けて、口内を舐って、舌を吸って、絡めてくる。
 ああ、あの口付けだ、と興奮し、お腹の奥がぎゅっと締まる。恥ずかしいのに、杏寿郎さんをいつもより感じられて、気持ち良くて心地いい。息が上手く出来なくて苦しいけど、止めて欲しくない。
 時折耳に流れ込んでくるぴちゃぴちゃとした接吻の厭らしい音は、見事に汽車の轟音が隠してくれている。トンネルの距離がどの程度だったかは分かりかねるが、車体が暗闇から外に出た間合いで唇を離した私達の息は、吃驚するほど熱く、甘く、艶めいていた。杏寿郎さんの色っぽい瞳に映る自分もまた、色めいた女の顔をしている。
「…名前…意味を分かって言っているのか」
 杏寿郎さんが、もう一度耳に吐息を吹き込むように言う。それが先ほどの私の発言を指していることは言うまでもない。ゆっくりと首肯して、彼の腰に巻き付けた手に力を込めた。すると杏寿郎さんが困ったように額に手をあて、大きな息を吐いた。頬がうっすらと赤くなっていたのは、もう間もなく山の裾に身を隠そうとしている夕日のせいではないだろう。