episode 27
忍び寄る悲劇


 

「き、杏寿郎さん?」
「杏寿郎くん!どうしてこんな所に」
「よもや…驚いた。俺は任務でたまたまこちらの地方まで来ていて…」
 漸く顔を認識することが出来た声の主は、予想通り長期任務に発っているはずの杏寿郎さんだ。その広い肩に、黒い影がゆっくりと舞い降りる。鎹烏の要さんだ。やはり先ほど空を旋回していたのは、要さんだったのかもしれない。
 心底仰天したような色を大きな瞳に湛えて、杏寿郎さんは私と先生に交互に視線を走らせている。まさかまた先生が?と思い至って隣を見上げれば、先生もまた杏寿郎さんと同じように目を白黒させていた。どうやらこの邂逅は、本当に偶然に起きたものらしい。
「はは。やっぱり君たちは、運命の赤い糸で繋がっているんじゃないかい」
 数秒の沈黙を破ったのは、先生の笑い声だった。思わず頬を熱くした私の眼前の杏寿郎さんも、照れくさそうに後頭部をかいていた。
「先生っ!」
「名前ちゃん。ここは、赤い糸の伝説がある神社だよ。これが本当に偶然なのかな。いずれにせよ邪魔者は消えるから、二人で参拝しておいで。暗くなる前には施設に戻ってくるんだよ」
 先生は杏寿郎さんに、名前ちゃんを頼むね、と言い残して踵を返した。要さんも、杏寿郎さんの肩から果てしなく広がる空へと飛び立っていく。道の突き当りを右折するまで先生の後ろ姿を見つめていた私達は、示し合わせたような間合いで互いに首を捻る。
 約三週間ぶりに拝む杏寿郎さんは、いつも通り素敵だった。全身を流れる血が突然沸騰したように、身体中が熱くなってくる。心臓の鼓動が速い。
「…名前…君がここにいるとは」
「私も同じ気持ちです。…でもどうしてここに」
「うむ。歩きながら話そう」
 杏寿郎さんは優しく微笑み、私の手を引く。どこまでも続いていそうな石段をゆっくりと昇り始めた所で、彼がもう一度口を開く。
「実は、任務が予定よりも少し早く切り上げられてな。今回の任務は、甘露寺…名前が煉獄家の鍛錬場であった女性隊士のことだが、彼女と一緒だったのだ」
「…あの女性は…甘露寺さんと仰るんですね」
 疚しいことが無いのは理解しているのに、好きな人の口から紡がれた別の女性の名前に落胆せずにはいられない。そんな私の変化を敏感に察知した杏寿郎さんは、繋がっていた手を互いの指を絡めるように握り直して、ぎゅうっと力を入れた。掌に心臓があるみたいに、どくどくと脈打っているのが分かる。
「…まさかとは思うが、焼きもちを妬いてくれているのか」
「えっ、あの、えっと…そ、そう、です。…ごめんなさい」
 嬉しそうに目を細めた杏寿郎さんが私を見つめる。図星を突かれ、誤魔化す術など到底持ち合わせていない私は観念したように首肯して、爪先に視線を落とす。
「ふっ、俺は幸せ者だな。安心してくれというのも少し変な話だが、彼女にも慕っている男がいてな」
「え?そうなんですか」
「ああ。それで、この神社のことを教えてくれた。一緒に歌舞伎を観に行った時、名前が赤い糸の話を気に入ってくれただろう。だから、何か君に手土産を作れないかと思って訪れてみたのだが」
「そしたら、先生と私が…」
「先生が言うように偶然とは思い難いな」
 杏寿郎さんが苦笑しながら言葉を漏らした時には、既に目の前には立派な社殿が広がっていた。本殿以外にも、拝殿、幣殿、小さなお社が広々とした境内の中に見受けられる。長く見えた石段も、二人で昇ってしまえばあっという間だ。私が少しだけ乱れた息を整えたのを見届けてから、杏寿郎さんは優しく手を引いた。
 境内は森閑としており、夜が近づくにつれさらに冷たさを増した風が、少なくなった木々の葉を揺らす音が、まるでこの世にある唯一の音みたいに耳に響いた。
「また可愛らしいご夫婦が来てくれたものだな」
 突然、背後で声が揺らぐ。心臓が飛び出るほど吃驚し後ろを振り返ると、竹箒を手にした宮司が、柔和な笑みを浮かべて立っていた。
「あ、あの…私達はまだ夫婦じゃなくて」
「それは失礼。しかし、赤い糸の噂を聞きつけて来てくれたのだろう。それならまずあっちのお社を参拝したほうがいい」
 宮司は、慌てて否定の言葉を述べた私を然程気にする風もなく言って、私達を境内の端に建てられたお社に誘導する。
「古いお社に見えるだろうが、縁結びの神様が祀られている。日本に古来から伝わる赤い糸の伝説とこのお社は深く関係していると言われていて、昔から格別の信仰を集めていた。…この先に結核の療養所が建てられてからは、めっきり参拝客が減ってしまったが…それでも根強い信仰があるのもまた事実でね。時々二人みたいに参拝をする男女や、この神社で祝言を挙げる夫婦もいる」
「赤い糸の儀、ですね」
 お社を眺め、宮司の丁寧な説明に聞き入っていたが、私は先程のフミちゃんとの会話を思い出し、咄嗟に口を挟む。すると宮司は、得意顔でゆっくりと頷いた。
「その通り。…二人はもう祝言を挙げる予定はあるのかい」
「えっと、あの」
 まだ正式に両家の承諾を得ているわけではない。恥ずかしさも相俟って返答に困窮した私はちらりと横に立つ杏寿郎さんを見上げる。するとこちらの視線に気がついた彼が穏やかな笑みを口元に作って私を見下ろし、ゆっくりと頷いてくれた。
「名前がしたいようにしよう。…俺は、君の笑顔が見られればそれでいい」
「杏寿郎さん…」
「はは、いい旦那さんだね。神様も焼きもちを妬いてしまうかな。…二人の祝言、楽しみにしてるよ。その時はまた、是非私を訪ねてくれ」
「はい、ありがとうございます」
 杏寿郎さんが丁寧にお辞儀をするのに倣って、私もぺこりと頭を下げる。宮司さんは「御馳走様」と言わんばかりに頬を緩ませ私達の元から去っていく。
「…杏寿郎さん、本当にこの神社で…その、いいんですか。まだ、お父様や煉獄家の許可も取れていないのに」
「俺達の祝言なのだから構わないだろう。…それとも、君が嫌か」
「い、嫌じゃないですっ!この神社の赤い糸の儀について、療養所に入院している女の子から話を聞いたんです。この神社で祝言を挙げた夫婦は、時代を超えてもずっとその人と一緒に居られるんですって。それで、それを聞いて凄く素敵だなって思って…」
 言いながら恥ずかしくなってはっと口を噤む。今だけでなく、来世でも杏寿郎さんと結ばれたいなどとは、図々しい発言だったかもしれない。
「名前…」
「ご、ごめんなさい。私、変なこと言っ−−」
 謝罪を口にしながら杏寿郎さんを見れば、繋がった腕を勢いよく引かれて唇を重ねられた。突然のことに目を丸くしていると、一瞬で離れてしまった彼の唇から、熱い息が洩れる。
「…すまない。名前が、あまりにも可愛いことを言うものだから……我慢出来なかった」
「っ、あの、杏寿郎さん」
「はぁ、愛しいな。…俺は、ちゃんと待てるだろうか。…ふっ……自信がないな」
「杏寿郎さん、自信って?」
 額を手で覆って、苦笑しながら呟く杏寿郎さんに窺うように問う。しかし、質問の答えが返ってくることはなかった。
「いや、こっちの話だ。さぁ、もう日が沈む。これ以上ここに居ると名前が風邪を引いてしまう。神様に願って、戻ろうか。俺達のこと」
「は、はいっ!」
 杏寿郎さんと並んで、お社の前で掌を合わせる。
 どうか、杏寿郎さんとずっと一緒に居られますように。大好きなこの人が、その命が尽きるまで幸せでありますように。何度生まれ変わっても、杏寿郎さんと一緒になれますように。   
 すこし欲張ってお願いしすぎただろうか。視線だけで隣の杏寿郎さんを盗み見れば、大きな瞳は伏せられたままだ。まだ祈りを捧げているようだ。彼はどんな祈りを捧げているのだろうか。私と同じ気持ちだと、信じていいだろうか。
 それにしても、なんて綺麗な横顔なのだろう。この世界で、杏寿郎さんが一番素敵なのではないかと思う。気づけば私は、まじまじと彼の端正な顔を見つめていた。
「…そんなにじっと見つめられると、妙な期待をしてしまうのだが…」
「えっ」
 こちらの視線にとっくに気づいていた様子の杏寿郎さんは、苦笑して再び私の手を引き歩き出す。本格的に冷たくなった夜風が、お社を後にする私達に吹き付けた。
「寒くないか?」
「はい、杏寿郎さんが温かいから大丈夫です」
 繋がった手に力を込めて、弾む声で返事をする。心配そうに私を振り返った杏寿郎さんと甘く視線が絡み合う。幸せだな、と思った。
 コホンッ
 その刹那、小さな咳が、一つ出た。