episode 21
待てない唇




 言葉が出ない私と一緒で、青年もまるで幽霊でも見ているかのように驚愕の表情を浮かべている。
「…え、えっと…名前さん、この人は…」
 私と杏寿郎さんに交互に視線を行き交わせた後、青年は困惑を眉間に刻んで窺うように私に問う。一方こちらも全く予想していなかった展開に、杏寿郎さんに抱えられながら、ただただ顔を熱くするほかなかった。
「あ、あの…えっと…この人は」
 どう答えるのが正解か分からず困り果てていると、再び、夜空に一瞬の大輪の花が咲く。目を眇めてしまうほどの光が私達の顔を照らして、暗闇にくっきりと浮かび上がらせた。
 すると次の瞬間、土手に腰掛け私を見つめていた青年が嘆息して天を仰いだ。
「…名前さんがそんな顔をするなんて…よっぽど特別な人なんだろうね」
 青年が徐に立ち上がって、私達の前で少しだけ悲しそうな笑みを零した。あぁ、私は自分を慕ってくれている目の前の彼を傷つけてしまったのだ。けれども、自分の気持ちを誤魔化しながら隣にいることは出来そうもない。私はやっぱり、杏寿郎さんに恋をしている。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。私、私、この人が、杏寿郎さんが――」
 杏寿郎さんが好き。その言葉を口にしようとした刹那、青年の指が唇にあてられて、後に続く言葉は封じられてしまった。
「名前さん…そういうのは男から言わせてあげるものだよ」
 眉尻を下げて目元に微かに皺を刻んだ青年は、「お幸せに」と呟いて踵を返し、ここからは少し離れた橋梁付近で、夢中で夜空を見上げる人々に溶けるように見えなくなった。
「……あの…杏寿郎さん…恥ずかしいから…下ろしてください」
 置かれている状況に戸惑い、聞こうとする人の耳にしか届かないような声で呟く。心臓が煩い。身体が熱い。恥ずかしさに目を潤ませながら私を抱える杏寿郎さんへ視線を移せば、彼は心苦しそうに眉尻を下げてこちらを見た。
「……名前…俺は」
 まるで時が止まってしまったかのような沈黙が挟まる。二人で暫く見つめ合い、杏寿郎さんが口火を切ったところで、頬や頭頂部を冷たい空の涙が濡らした。
「あ…雨?」
「そのようだな」
 二人で天を仰ぎ、もう一度視線を絡ませる。杏寿郎さんは薄い唇を微かに綻ばせ、こちらの要望通りに私を地面に下ろすと、そのまま手を引いた。雨宿りにはうってつけの、近くの寺の軒先に二人で身を滑らせるのが一瞬早かったか、地面をぽつぽつと濡らしていた雨は瞬く間に天から叩きつけられたような土砂降りに変わる。蒸し暑さが一気に霧散するような豪快な雨だ。
 風で流れてきた花火の煙の香に雨の匂いが混じり、途端に冷たくなった風がしっとり汗の滲んだ身体に柔く吹き付けてくる。
「っくしゅ」
 顔も身体も十分すぎるくらい火照っているのに、ちぐはぐのように小さなくしゃみが一つ飛び出す。「ごめんなさい」と、両掌で口元を覆って杏寿郎さんを見上げれば、彼の温もりをたっぷりと残す羽織が私をくるんだ。
「…寒いか?」
「っ…」
 杏寿郎さんが目を細めて私を覗き込む。心臓が口からひゅっと飛び出してしまいそう。それくらい私の心臓は早鐘を打っている。
「なんで…なんで、杏寿郎さんがこんな所に…」
 漸っとの思いで先ほどからずっと知りたかった疑問を口にする。すると杏寿郎さんの大きな掌が、尊いものに触れるように片方の頬に添えられる。驚くことに、その手は私以上に熱かった。
「俺は…名前のことになると堪え性がないようだ。…先生が、また文を送ってくれた。…君にいい人がいるかもしれないと、祭りに出かけるようだと。…それを見て、気づいた時には名前を探していた…」
「っ…杏寿郎さん…でも…どうして…私…」
「随分と野暮なことを聞くのだな。…それとも、本気で言っているのか」
 杏寿郎さんが苦笑して、頬に添えていた手とは反対の手を私の腰に回しぐっと自身に引き寄せた。
「ひゃっ…杏寿郎さん…あの」
「俺は…狡い」
「え?」
 鼓膜に響く低い声に、私は思わず聞き返す。
「鬼殺隊にいる自分は、明日の命も分からない自分は、名前の隣に居させて欲しいと言える身の程でもないのに…君の笑顔を守るのも、君を幸せにするのも、俺自身でありたいと思う……名前が好きだ」
「あっ…わ、私も、私も杏寿郎さんが好きなんです。…こんなに、切なくて苦しい気持ちになったのは初めてで。…最初は杏寿郎さんを見ているだけで幸せだと思ってました。でも…他の女性と話しているのを見てもやもやして、杏寿郎さんを独り占め出来たらって考えたり、…その、あの日連れて行って下さった歌舞伎の演目みたいに…杏寿郎さんと赤い糸で繋がっていたらいいのにって何度も思って…」
 何かを考えるよりも先に、そう私の唇が答えた。答えてから、本当に杏寿郎さんが私を?と恥ずかしくなる。すると、杏寿郎さんは一瞬意表を衝かれたような表情を浮かべて、直ぐに目元を柔らかく綻ばす。幸せを凝縮させたような優しい顔を見て、彼も私と同じ気持なのだと分かり、胸がぎゅっと締まった。
「名前…本当に…俺を受け入れてくれるのか」
「……杏寿郎さんは『いつ命を落とすか分からない』と仰いましたよね。でも…人は遅かれ早かれ死がやってきます。昨日まで一緒に笑い合っていた人が、翌日突然帰らぬ人になってしまうこともある。当たり前の日常がなくなってしまうこともある。…父の死や先生の元で、私はそれを経験してきました。…もしかすると、私が明日死んでしまうことだってある…。それを恐れて、好きで堪らない人と、自分が一緒に居たいと思う人と、同じ時間を共有出来ないのはずっと不幸です。…私は…そう思います」
 土砂降りの雨の音に負けないように熱弁を振るい、言い切った後に顔が赤くなる。こうして直ぐに感情的になってしまうのは自分の悪い癖だ。奥歯をぎゅっと噛んで杏寿郎さんの反応を窺えば、もうこれ以上くっつかない、というほどさらに身体を密着させられる。
「名前のそういうところを、俺は愛しく思うのだろうな。…君の言葉に、俺は勇気づけられてばかりだ」
 甘い吐息が、私の唇にかかる。
「きょ…じゅろ…さん」
「…名前…君のここに触れてもいいだろうか」
 杏寿郎さんは囁くように言って、頬に添えていた手の親指で、私の下唇をそっと撫でた。今から杏寿郎さんが私にしようとしていること。初めて人を好きになった私だって、そのくらいのことは知っている。もうそんなに子供ではない。耳が痛いくらいに全身が脈打っている。
「あのっ…」
「すまない。…自分で聞いておきながら、返事を待ってやれそうにない…」
 触れて欲しい。私の答えはたった一つしかない。口を開きその答えを紡ごうとすれば、一瞬だけ早く杏寿郎さんが息を吐くみたいに言葉を告げて、首を少しだけ傾けた。触れてしまう。そう思った時には、温かな唇が私のそれに優しく押し付けられていた。
 杏寿郎さんの長い睫毛が触れてしまいそうなほど、端正な顔が近くにあった。身体のそこここから幸福感が押し寄せてくる一方で、今にも破裂してしまいそうなほど心臓が鼓動する。杏寿郎さんに腰を抱かれたまま縮こまり、目をぎゅっと瞑って唇から伝わる熱を受け入れた。
 私のそんな様子が可笑しかったからなのか、杏寿郎さんが唇をそっと解放して息だけで笑い、今度は両腕で私を強く抱きしめてくれた。
「君がそんな様子だと、なにかと困ってしまうな」
「ご…ごめんなさい、こんな時まで迷惑をおかけして」
「そういう意味ではない。…俺の歯止めがきかなくなる、ということだ。…全く、困ったものだな」
「っ…杏寿郎さん」
 一生分の幸せを使い果たしてしまったのではないかと思う。そのくらい甘くて幸福な時間が私達の間に流れていた。
「…もう他の男に…君のこの唇に触れさせたくはない。…名前が美しいとも…言わせたくない」
 太い指が、口付けで湿った私の唇にもう一度触れる。杏寿郎さんは、先ほどの青年とのやり取りを言っているのかもしれない。浴衣姿の私を「綺麗」「可愛い」と称賛し、指で唇に触れた青年に、焼きもちを妬いてくれているということなのだろうか。
 幸せで言葉が見つからない。目の前の愛しい人のことしか考えられない。雨脚は一層強くなっているというのに、もう地を叩く雨音は聞こえない。杏寿郎さんの心地よい低音だけが、私の耳に唯一届く音となる。
「名前…もう一度だけ…触れてもいいだろうか」
「…もう一度だけなんて、言わないでください」
 君は俺を煽る天才だな、と杏寿郎さんの困ったような声が耳に滲んだかと思えば、再び唇には甘い熱が落とされていた。