episode 20
待ちわびた乱入




 互いの吐息を唇に感じるほどの距離。真っ赤な顔をした私を映す、濁りのない大きな二つの瞳。杏寿郎さんの端正な顔が今までで一番近くにあって、普段は当たり前のようにする呼吸も上手く出来なかった。
 こちらを射抜くような真剣な眼差しに恥ずかしくなってぎゅっと目を瞑り、やっとの思いで顔を背けて自分の激しい鼓動と闘っていると、目の前の気配がふっと消える。数秒経ってゆっくりと顔をあげれば、今度は杏寿郎さんの整った眉目の代わりに、大きな掌が差し出されていた。
「…あ、あの」
「…驚かせてすまなかった。診療所を訪ねたら、名前がまだ帰ってきていないと聞いてな。…立てるか?もう外は暗い。送っていこう」
「杏寿郎さん…あのっ」
 どうして診療所に、この図書館に、来てくれたの?今のは何?俺もって、どういう意味?
 当然そんなことを聞けるはずもなく、促されるようにして目の前の手を取った。私を立たせてくれたあと、床から拾い上げた広辞苑を本棚に戻して、杏寿郎さんは苦笑いに近い笑みを見せそのままこちらから視線を逸らした。逸らされた目は、どこか悲しそうな色を湛えていた。
 聞きたいこと、確認したいことが沢山あるのに、自宅に送り届けてもらうまで、私はとうとう口を開くことが出来なかった。

  

「名前さん、来週街で催されるお盆祭り、良ければ僕と一緒に行ってくれませんか」
 先生の往診先の患者の家族から突然のお誘いを受けたのは、もう八月も半ばに差し掛かった頃だった。杏寿郎さんと図書館で会ったあの日から、半月以上が経過していた。
 次の往診先に向かうため、既に患者の自宅を出てしまった先生を追いかけて門を潜ろうとした矢先、家主の孫から声をかけられたのだ。
「え、わ、私ですか?」
「はい…。あの、ご迷惑でなければ」
 私より少しだけ年上の青年は、微かに頬を染めて決まりが悪そうに頭をかいている。伝染するように顔が熱くなって、口を開いたり閉じたりして返答に困っていると、彼の祖父でもある、先ほどまで先生が診察していた患者が、にこにことした笑みを湛えて私達に近づいてくる。
「名前ちゃん、儂からもお願い出来んだろうか。どうやらこの子は、名前ちゃんがこの家に来た時から、君にほの字でな」
「ちょっ、爺ちゃん!なんてこと言うんだよ」
 患者である老人の思いがけない告白に、熱かった頬がさらに熱を持つ。ほの字とはつまり、私を好いていてくれるということなのか。
「親の欲目…いや、爺の欲目かと思われるかもしれんが、こいつは中々漢気がある。一度付き合ってやってくれんか。もしそれで、名前ちゃんの御眼鏡にかなわなければ、遠慮なく断ってくれて構わん」
 自分が誰かから特別な好意を持たれることなど初めての経験であり、何が正解なのか分からずあたふたしていると、患者がだめ押しとばかりに私の肩を叩きながら言う。
 一瞬、杏寿郎さんの眩しくて優しい笑顔が脳裏を掠める。この男性が私を慕ってくれているのだとすれば、私もまた、同じような気持ちを杏寿郎さんに抱いている。別の男性に恋焦がれているというのに、この青年の誘いを受けることは果たして本当に良いことなのか。
 しかし、杏寿郎さんがこの先私を同じように好いてくれるとは限らないのだ。先日煉獄家の鍛錬場で目撃してしまった女性の存在も気になるし、そもそもあんなに立派な煉獄家のご子息と自分が本当に釣り合いなど取れるのだろうか。
「名前さん、祖父の言うように一度だけでもいいんです。機会をいただけませんか」
 真剣な目をした彼に力強く言われてしまえば、私に誘いを断るという選択肢はなかった。おずおずと首肯すれば、目の前で花が咲いたような笑顔が零れた。
 落ち合う場所と時間を告げられた私は、門の外で待っていた先生の元へ急ぐ。
「先生!お待たせしてしまってすみません」
「いや、構わないよ。それにしても何かあったのかい?随分時間がかかったね」
 全てのものがうだってしまいそうなほど蒸した夏の午後、先生は首筋を伝う汗をハンカチで拭いながら不思議そうな表情を浮かべた。どこからかアブラゼミが鳴くやかましい音が聞こえる。
「あの…それが、患者様のお孫さんから、来週のお盆祭りに誘ってもらって」
 照れくさくて呟くように言えば、先生は目を丸くして私を見る。
「あのお孫さんが?それはまた、随分積極的だなぁ」
「はい…男性の方に好意をもたれることは初めてだったので。少しびっくりしてしまって」
「…初めてか。本当にそうかな。…それで、名前ちゃんはどうするんだい」
 先生は、何故か物知り顔で小さく笑って、興味深そうに私に問う。
「い…行くことにしました。折角誘っていただいたので」
「そうか。それはまた…。名前ちゃん、もう杏寿郎くんは諦めたのかい?」
 そう言うと先生はゆっくりと歩き出したので、私は慌ててその背中を追う。
「あ、諦めただなんて…。私は…その、見ているだけでいいんです。…杏寿郎さんを見ているだけで幸せだから…」
 言いながら本当にそうなのかと自問自答する。本当に見ているだけで幸せなのか。杏寿郎さんと女性が一緒に居るのを見て嫌な気持ちになったではないか。杏寿郎さんと運命の赤い糸で結ばれていればと思ったではないか。あの優しくて眩しい笑顔を一人占めしたいと、本当に思わなかっただろうか。
「ふふ、見ているだけでいいか。…さて、杏寿郎くんはどうかな」
 降るように聞こえてくる蝉の声に負け、独り言のように紡がれたその言葉が私の耳に届くことはなかった。小首を傾げて先生を見れば、ただ、笑い返されただけだった。

  

 お盆祭りの当日、私は多くの人々で賑わう通りを例の青年と肩を並べて歩いていた。大通りを挟むように多くの出店が軒を連ねており、街全体を彩るように夥しい数の提灯が飾られて、薄暗くなってきた世界を橙色の光が柔らかく照らしていた。
 百メートルほど先に見える橋の入り口には、人が黒蟻のように集まっていた。もう間もなく始まる打ち上花火を見物する人々が、我先にと陣取りをしているのだ。流石にあの人だかりの中に入っていくのは気が引ける。
「名前さん、今日は本当に来てくれてありがとう。…あ、そろそろ花火が始まりそうだけど、橋の上、行ってみる?」
 青年が困ったような笑みを浮かべて、人の群れが出来ている橋梁にちらりと視線を走らす。彼も、あの人込みの中に入っていく勇気はないようだ。私も釣られるように苦笑いを浮かべて、頭を小さく左右に振る。
「じゃあ、橋から少し離れるけど、いい場所があるんだ。そこで一緒に見よう」
 青年は嬉しそうに目を細め、躊躇なく私の手を取った。目を丸くする私に「逸れないように」と彼は照れくさそうに告げて歩き出す。
 やっぱり私は、杏寿郎さんに恋してるんだ。杏寿郎さんじゃないと胸がどきどきしたり、顔や身体が熱くなったり、呼吸が苦しくなったりしないんだ。今この瞬間、私はそれを身をもって知った。
 青年が連れてきてくれたのは、橋の袂から少し歩いた緩やかな土手だった。天に向かって伸びる青々とした雑草を尻で潰して腰を降ろせば、途端に周囲が明るくなって、少しして耳を劈くような大きな音が空の奥で響いた。思わず天を仰げば、巨大な尺玉がまた一つ炸裂した。しかし、頭上は厚い雲で覆われており、美しいはずの光の残滓が、少しだけ濁って見えた。
「わー綺麗だな」
「はい…そうですね」
 空を見上げて感嘆の声を漏らす青年の横顔をちらりと見ながら、もし、隣にいるのが杏寿郎さんだったら、と思わずにはいられなかった。そして、そんな気持ちで彼の隣で花火を見る自分に心底嫌気がさしてきた。こんな態度は、私に好意を持ってくれている青年にすごく失礼ではないか。
 ちゃんと伝えよう。決心して「あの」と口を開けかけた時、青年が視線を花火から私に移したので、その後の言葉を続けられなくなってしまう。
「名前さんの方が…綺麗だけどね。いつもの仕事着も好きだけど…今日の浴衣も、凄く可愛い」
「えっ…あのっ」
 照れくさそうな笑みが向けられる。面と向かって「綺麗」「凄く可愛い」なんて言われるのは初めてだから、条件反射で顔が赤くなる。
「名前さん…この間、爺ちゃんに先に言われちゃったけど…僕は、君を好いている。君が初めて先生と家に来た時から…ずっと」
「あ、あの…」
「やっぱり僕は、君の御眼鏡には叶わなかったかな…?」
 青年が一語一語噛み締めるように言葉を紡ぐ。真剣な表情に二の句が継げなくなる。でも、やっぱり私は杏寿郎さんのことを考えている。
 ごめんなさい、そう唇が形作ろうとした時、三度目の爆音が鳴って、私はふわりと宙に浮きあがっていた。状況を認識する前に、柑橘と若葉の混じったような青い香りが、あの大好きな香りが、私の鼻先を擽った。
「青年、すまない。この女性は…名前は諦めてくれないか」
「…っ…き…」
 今度こそ私は言葉を失う。端正な顔が色とりどりの花火の光に照らされて、美しい花火の残滓に負けずとも劣らない金糸が光る。私は、杏寿郎さんに抱えあげられていた。