episode 01
運命なんてない




 四月になり、大分日も長くなってきた。午後五時を回っても頭上に広がる空は青い。端に行くと青色は少し薄くなって、西の方から徐々に淡い黄色味を帯び始めている。道沿いに並ぶ木々の枝には、群がるようにして小さな蕾がついており、桜を愛でる季節はもうすぐそこまで来ていた。
 首筋に心地よい風を感じながら、私は家までの道を歩いていた。この辺りはいつものランニングコースだ。最近、忙しいことに感けて運動をさぼっている自分の身体へのせめてもの罪滅ぼしで、少し遠回りして帰路につき、歩数を稼いだ。
 途中にある巨大な公園を通り抜ける際、敷地内に設置されたグラウンドで、社会人野球に精を出す人々の楽し気な声が聞こえた。肩を寄せ合う恋人達の姿もちらほらと視界に入る。
 ぽかぽかと暖かい、ある春の日曜の穏やかな夕方。今の私には目に障るものばかりだ。
「名前、婚活イベント、行ってみない?」
 学生時代の友人からそう声をかけられたのは、一週間前のことだ。世間ではアラサーと呼ばれる年齢であるにも関わらず、最近は浮いた話もない私を心配した、友人の心遣いだ。
 婚活イベントの類に良縁があるとも思わなければ、自分ほどの年齢の女性に需要があるとも思えなかった。女性の婚活市場の価値は三十歳を過ぎると大幅に低下することは、もう世間でも広く知られていることなのだから。
 そうはいっても友人の好意も無下には出来ず、貴重な日曜日の午後を丸々潰してイベントに参加したのだが、「言わんこっちゃない」という結果で幕を閉じた。
「運命の人は赤い糸で繋がっている」。今日の婚活イベントのキャッチフレーズだ。女性なら誰しも一度は憧れる「運命の赤い糸」の話。中国に発し、東アジアで広く信じられている、人と人を結ぶ伝説の存在。いつか結ばれる男と女は、手の小指が赤い糸で結ばれているというなんともロマンチックな話だ。
 しかし私はもう、そんなお伽噺のような愛を信じる年齢でもない。「運命の人」「運命の赤い糸」など存在しないという現実を、もう経験してしまったのだから。
「…君は俺の運命の人ではない。すまないが、君の気持ちには答えられない」
 明日から始まる一週間のことを嫌でも考えてしまい、鬱々とした気分で公園の出口に差し掛かった時、聞き知った声が耳を掠めた。思わず声の方を見ると、同じ学園に勤める教師の姿が目に飛び込んできた。
 煉獄先生。私は彼が苦手だった。彼が、何もかも完璧な男だからだ。
 恵まれた体格や容姿は勿論のこと、性格も抜群に良くて同僚や生徒だけでなく保護者からの信頼も厚く、好感度が高い。極めつけに、ご実家は名士でお坊ちゃまなのだと聞いたことがある。
 だからこそ、苦手だった。なんでも揃った男に碌な奴はいない、というのが数十年の人生で得た私の見解だ。考えてみて欲しい。これだけ条件が揃っていれば、高慢にならないという方が無理は話ではないか。
 まぁ、ひょっとすると、上手くいかなかった自分の恋愛遍歴を、「完璧な男」になすりつけたいだけなのかもしれないけれど。
 しかし、天に二物も三物も与えられている男は、女を振る文句もこうも違うものなのだろうか。「運命の人ではない」なんて、まるで自分の運命の人を知っているような言い方ではないか。私が振られた女であれば、平手打ちの一つでもかましてしまいそうだ。
 野次馬根性で興味がないと言えば嘘になるが、同僚の告白シーンを見てしまうというのも決まりが悪い。ここは退散しようと煉獄先生から視線を逸らそうとしたその刹那、一瞬早く、彼の大きな瞳が私を視界に捉えてしまったようだ。殊更大きく開かれた目が、じっと私を見た。
 やばい。見てたの、ばれたかも。
 ぱっと視線を元に戻して、慌てて歩みを再開する。少し不自然な態度になってしまったかもしれない。挨拶くらいすれば良かっただろうか。いや、向こうは女性と一緒なのだから、それも変な話だ。
 折角の日曜日、なにが悲しくて同僚の告白シーンに遭遇しなければならないのか。もしかして、煉獄先生はこの辺りに住んでいるのだろうか。
 また会わないといいな。そんなことをぼんやりと考えながら、私は自宅までの道を急いだ。

  

 昨年から中高一貫であるキメツ学園の「保健室の先生」として働いている私にとって、入職以来一番忙しいシーズンに突入した。春の健康診断である。
 数千人にも及ぶ生徒に加えて、この学園で働く職員達の健康診断を取り仕切らなければならない。そして今日は、朝から学園の健康診断業務で天手古舞なのである。
「はい、次の人どうぞ」
 もう何百回同じ言葉を口にしたことだろう。パーテーションで囲ったスペースの中に一人ずつ生徒や教師を呼び込んで、体重と身長を計測したら、上着を脱がせて――勿論無理やり脱がすわけではないが――腹囲の計測。永遠とこの作業の繰り返し。流石に辟易としてくる。
 それに、今日は四月にしては信じられないほど暑かった。窓から差し込むじりじりとした日差しが、全身に汗を滲ませて体力を奪っていった。休憩を挟んで水分補給でもしなければ脱水で倒れてしまいそうだが、生憎そんな時間はない。
「はい、次の人どうぞ!」
 今日は一杯ひっかけて帰ってやる、そう心に誓いを立てて一際大きな声を上げる。自分でも驚くくらいイライラした声だった。忙しいという字は「心」を「亡くす」と書くとはよくいったものだ。
 保健室の先生がこんなにぷりぷりしてはいけない。私は生徒や職員の一番の理解者で、栄養を与える存在でなければならないのだから。
「お疲れ様!苗字先生、忙しそうだな」
「れ…っ…んごく先生…お疲れ様です」
 次にパーテーションを開けたのは、学園の歴史教師の煉獄先生だった。俄かに、先日公園で目撃してしまった光景を思い出す。あの日、煉獄先生と目があったことを考えれば、彼も私があの場面を見ていたことは当然気づいているだろう。居心地の悪さを感じて仕方がないが、自分から話を切り出すのも妙な話だ。
「顔色が悪いが…大丈夫か?少し休んだ方がいいのではないか?」
 平常心を決め込んで淡々と作業を進めようとすれば、煉獄先生が心配そうに私の顔を覗き込んだので気勢が殺がれる。苦手意識が強かったせいか、煉獄先生と面と向かって話す機会は今までもそう多くはなかったが、意外にも人を良く見ているのだと感心してしまう。
「心配していただいてありがとうございます。でも、大丈夫ですから。それに、私が休んだら回らなくなっちゃうんです。…はい、煉獄先生、腹囲計測しますので、上着脱いでもらえますか」
「苗字先生が大丈夫ならいいのだが…」
 膝立ちになってメジャーの帯を引き出しながら言う。煉獄先生は眉根を寄せて怪訝そうな顔をしたが、それ以上強く言ってくることもなく、バサリとシャツを脱いだ。鍛え抜かれた作り物のような肉体が私の眼前に披露され、思わず声を失ってしまう。
 上背もあり体格もいいので、見目からでも自慢の肉体を持っているだろうことは想像に難くなかったが、まさかここまでとは。何か運動でもやっているのだろうか。
「…どうした?やはり具合が良くないのか?」
 メジャーを手にしたまま固まって瞠目する私に、再び憂慮の視線が注がれる。職業柄、男性に限らず人間の身体には見慣れているはずだ。それなのに、何故こんなに心臓が妙な打ち方をするのだろうか。暫く恋人がおらず、そういった類のことはご無沙汰のため、変に緊張しているのだろうか。
「ご、ごめんなさい。何でもないです。じゃあ、少し腰に手を回しますので。失礼します」
 声がやや上擦っていた気がした。顔が沸騰したみたいに熱い。刹那、視界に星が散ったかと思うと、頭がくらくらとして、目の前が一瞬黒く塗り潰される。
 まずい。やはり水分補給をしておけば良かった。これは脱水による迷走神経反射だ。頭では冷静に自分の状態を分析しているのに、身体が言うことを聞いてくれない。
「苗字先生!」
 驚いた様子の声が耳元で聞こえたが、全身の力が抜けていく。温かく硬い感触を頬に感じて、柑橘と若葉の混じったような青い香りが鼻孔に広がった時には、私は自分の意思で体勢を保てなくなっていることに気がついた。しかし、もう時は既に遅い。