episode 18
涙を拭う人




「名前ちゃん、お帰り。楽しかったかい?」
 杏寿郎さんに送り届けてもらって自宅へ帰ると、先生が出迎えてくれた。診療所が休診の日は、先生はその時間を結核の研究にあてている。
「は、はい。とても…楽しかったです」
 まだ頬が火照っており、気恥しさで先生の顔を正面から見ることが出来なかった。先生は私の杏寿郎さんへの気持ちを知っているのだから、恥ずかしがることではないと思うのだけれど。
「歌舞伎を観ると言っていたけど、どんな演目を見たんだい」
 玄関から居間へ戻ると、先生が淹れたての珈琲を私の前に置きながら問う。ほろ苦い香りが私の周りに生温かく立ち込める。礼を述べ、緊張でからからに乾いてしまった喉を潤すようにコーヒーを一口流し込んでから口を開く。
「『妹背山婦女庭訓』という演目を見ました。杏寿郎さんが、日本の古いお話を元にして作られた演目だと教えてくれました。あ、赤い糸のお話です」
「そうか、それは懐かしいな」
「え、先生もご存知なんですか?」
 先生が歌舞伎の具体的な演目を知っているのは意外だった。聞き返せば、先生は昔の記憶を手繰り寄せるような遠い瞳でしばらく宙を眺めていたが、徐に話し始める。
「…勿論知っているよ。私も、妻と観に行ったことがあるからね」
「え」
 先生が妻帯していたことは初耳だ。しかし診療所にも先生のこの家にも私以外の女性の姿はない。つまりそれは、悲しい別れをしたということなのだろうか。余程驚いた顔をしていたのか、先生は小さく笑って言葉を続けた。
「正確に言えば…正式な夫婦ではなかった。その前に亡くなってしまったんだ。…彼女の命を奪った病もまた…結核でね」
「結核…」
「うん。それが、私が結核の研究を始めたきっかけだね。だから、名前ちゃん、君がお父様を亡くされて結核の研究を手伝いたいと私の元に来てくれた時、少し驚いた。まるで自分を見ている様だったから」
 私は二の句が継げなくなってしまった。先生も私と同じように辛い過去を抱えていたのだ。
「おっと、話が逸れてしまった。ごめん、君にそんな悲しそうな顔をさせたかったわけじゃない。話したかったのはここからだ。彼女が、その赤い糸の話をえらく気に入ってしまってね。赤い糸の伝説で有名な神社に一緒に行ったことを思い出したんだ」
「赤い糸の伝説で有名な神社…」
「名前ちゃんもいつか、行ってみるといい。縁を強固にするのは勿論、時代を超えても縁を結ぶ、なんて言われているから。…相手はやっぱり、杏寿郎くんなのかな」
 先生が少し悪戯っぽい笑みを口元に浮かべて言うものだから、漸く落ち着いたはずの顔の火照りが舞い戻ってくる。
「せ、先生…。私が一方的に…そのお慕いしているだけですから」
「…名前ちゃん、杏寿郎くんはなんでその演目を選んでくれたんだろうね」
「え?」
 先生は意味深な笑みを浮かべると、ゆっくりと立ち上がって書斎に戻っていった。先生が立ち去ったあとも、言葉の意味を頭の中で反芻していたが、私はその問いの答えに辿り着くことは出来なかった。

  

 じめじめとした梅雨が過ぎ、季節が本格的な夏へと移り変わる頃、私を孫のように可愛がってくれていた患者様がお亡くなりになった。家族は大往生だったと感謝してくれていたけれど、死因は恐らく、床ずれからの感染による敗血症。この季節は湿気が高いため、特に皮膚が弱いがお年寄りは、容易に床ずれが出来てしまう。注意して全身を観察していたつもりであったが、私がもう少し早く気づいて先生に申し伝えることが出来ていたら、結果が変わったのではないかと思わずにはいられなかった。
 良くないことは連鎖するようにたて続けに起こった。先生が抱えている患者の家族が、私の自宅への出入りを拒否したのだ。私の父親が結核で亡くなったという事実をどこかから聞きつけたようだった。
 先生が治験をもとに患者の家族に危険性がないことを懸命に説明してくれたが、受け入れてもらうことが出来なかった。
 そんな訳で、最近の私は悄然としていた。面白いもので、こういう時は何をしても上手くいかない。先生の往診に付き添って行っても、心ここにあらずの状態が続いてしまい、失敗をしてばかりだった。そのことが、余計に私を惨めな気持ちにさせた。
 「疲れているんだ。少し休みなさい」そう言って、見かねた先生が私に数日の休暇を言い渡した。自分でも、この状態で患者様の元を訪れることに不安があった。大切な所見を見落として取り返しのつかない事態を引き起こす可能性もある。
 甘んじて休暇を受け入れた私は、以前、杏寿郎さんに連れてきてもらった海を一人訪れていた。焼けるような夏の日差しが真っ青な空を反射した海の水面をキラキラと照らしていた。潮の強い香りがそこここに満ちている。
 今は満潮の時間なのか、海岸に降りて行くのは難しそうだ。近くの防波堤に腰掛けて、胸の内側に宿った溜息を細く長く吐き出す。夏のきらめく太陽が、杏寿郎さんの眩しい笑顔を連想させた。彼は、元気にしているだろうか。
 二人で歌舞伎に出かけて以来、もう一月以上杏寿郎さんと会う機会がなかった。先生に付き添って煉獄家に往診に行った際も、いつも間合いが悪く任務に出てしまっていた。
 杏寿郎さんの姿を一目でも見れば、彼の溌溂とした心地よい声を聞けば、どんよりと曇った私の心に一点の明かりを点じてくれるような気がするのだけれど。
「名前」
 頭上から降ってきた心地よい低音に、私は自分の耳を疑った。慌てて声の方を見上げれば、こちらを覗き込む大きな双眸と目が合った。
「…っ…き、杏寿郎さん…なんで」
 思いを馳せていた人物の登場に、私の口から零れたのは色気もへったくれもない喉から絞り出したような掠れた声だった。呆然とする私に苦笑した杏寿郎さんは、ゆっくりと私の隣に腰を下ろした。生ぬるい潮風が、彼の白い羽織と金色の髪を柔らかく揺らしていく。
「先生から便りを貰った。君の元気がないと」
「え…先生が…」
「俺もあれから長期の任務に出ていてな。名前のことが気になっていたのだが…何かあったか?」
 杏寿郎さんが優しく微笑んで、風に吹かれて唇に張り付いてしまった私の髪を避けてくれながら問う。すらりとした指の大きな手に当たり前のように触れられて、身体じゅうの熱が顔に集まってくる。赤く染まっているであろう頬を見られるのが恥ずかしく、私は照れ隠しのように顔を背ける。
「その…自分の不甲斐なさに落ち込んでいるだけなんです。大好きだった患者様が私のせいで亡くなってしまったかもしれなくて。そんな時に、父親が結核で亡くなったからという理由で患者様の自宅の出入りを禁じられてしまって。色々なことが重なって、それで、やることなすこと全部失敗しちゃって、先生にも迷惑をかけて。どんどん惨めな気持ちになってしまって」
 息継ぎの間もなく言う。最初は照れくさいのを誤魔化したい一心であったが、自身で言葉にするうちにやるせない気持ちが沸き上がってきて、最後の方は声が潤んでしまった。
「…名前は随分と自己評価が低いのだな。君を必要としている人間は沢山いると、俺は思う。少なくとも、俺の父には君の力が必要だ」 
 全てを包み込んでくれるような優しい声に、瞼の裏が熱くなり、その熱は液体となってあっという間に頬を伝った。
「っ…ごめんなさい…泣きたいわけじゃないのに…涙が…ごめんなさいっ。迷惑かけて…」
 太腿の上で握りしめた手の甲に透明な水玉が落下して、そのまま流れるように滑り落ちて着物を濡らしていく。
こんな風に流涙すれば、きっと杏寿郎さんを困らせてしまう。涙に濡れた不細工な顔を見られたくなくて、「名前」と私の名を何度か呼ぶ彼の方を見ることも出来ずに俯いていると、優しい温もりに小刻みに震えた体がすっぽりと包まれる。
 潮の匂いが掻き消されてしまうほどの、柑橘と若葉の混じったような青い香りが、私の鼻孔に充満する。毛先が火照った首筋を撫でる。それくらい、私は杏寿郎さんの近くにいた。
「泣きたい時は泣いていいのだ。迷惑とは思わないし、君がこうして気持ちを一人で抱え込んでいる方が、俺は辛い」
「きょじゅろ…さ…ん」
「名前が人一倍気骨があることを…俺は知ってる。君に関わった多くの人がそれを分かっているはずだ。だからそんなに自分を卑下する必要はない。しかし、どうしようもなく辛かったり、理不尽に責められることもあるだろう。…その時は、いつでも俺の胸を貸すから…もう一人で泣かないでくれ。苦しまないでくれ」
「っ…ぅうっ…」
 全てを受け止め包み込んでくれる優しい言葉に、私は杏寿郎さんの胸の中で溶けてしまいそうなくらい泣いた。その間ずっと、杏寿郎さんが私の後頭部を大きな掌で撫で続けてくれていた。
 彼は、どうしてこんなにも私に優しくしてくれるのだろうか。もしかして、私と同じ様な気持ちを抱いてくれているのだろうか。それとも、誰にでも優しいのだろうか。
 いや、初めて出会った時から分かっている。杏寿郎さんは優しい人だ。きっと、私の自問の答えは後者だ。だから今だけは、彼の優しさに甘えさせてもらおう。