episode 17
長雨を希う




 初めての歌舞伎の感想は、「よく覚えていない」という言葉が一番ぴったり当てはまりそうだった。というのも、隣で観劇する杏寿郎さんの距離が近くて、どちらかが少しでも身体を動かすたびに、肩や腕が微かに触れてしまっていたから。
 身体の一部が杏寿郎さんに触れるたび、心臓が、とくん、と大きな音を立てるのだ。折角杏寿郎さんが連れて来てくれたのに何と不謹慎なことだろうと思いながらも、胸が高鳴り、やはり私は、歌舞伎どころではなかった。
 しかし、そんな中でも唯一覚えているのは、男女それぞれが糸を手繰って想う人を追っていく場面だった。正確に言えば、古事記の「三輪山伝説」という赤い糸に纏わる話が、今回の歌舞伎の演目や日本に伝わる「赤い糸の伝説」に派生しているそうだが、運命の男女が赤い糸で結ばれているというのは、とてもロマンチックなお話だった。
 恋をしているから、余計にそう思うのだろうか。自分の赤い糸が、杏寿郎さんと繋がっていたらいいのに。
 口には出せない都合のいいことを考えながら、出口に向かって隣を歩く杏寿郎さんの横顔を盗み見る。すると、敏感にこちらの視線に気づいた彼は、横に顔を捻って「楽しかったか?」と私に問う。
「はい。歌舞伎はもっと難しくてお堅い印象があったのですが。赤い糸のお話はとっても素敵だったし…ただ…少し緊張してしまって、よく覚えていない場面もあるんです。…ごめんなさい」
 その理由が、杏寿郎さんが隣にいたからであることは勿論伏せて、正直に言う。物語一つ一つの場面について感想を求められでもしたらきっと答えることが出来ない。内容が頭に入っていないことが筒抜けで、杏寿郎さんを落胆させてしまいそうだったから。しかし杏寿郎さんの口から紡がれたのは、意外な言葉だった。
「…正直に言うと、俺もよく覚えていない。…名前と同じように、緊張していた。どうも別のことに気をとられてしまってな」
「え?」
 頭に疑問符を浮かべて杏寿郎さんを見る。彼は歌舞伎の観劇が初めてではないはずだから、この場の雰囲気に緊張したというのも少し変な話だ。別のことに気をとられてとは、やはり鬼を狩るという重大な任務のことなのかもしれない。
 初めて煉獄家を訪れた時も、任務の知らせは突然だったし、杏寿郎さんは常に気を張っているのかもしれない。
「俺も…まだまだ鍛錬が足りないようだ」
「杏寿郎さん?あの、それはやっぱり――」
「はいはい、そこの若いお二人さん。外は雨だから、傘を買っていくといい。これが最後の一本、早い者勝ちだよ!」
 杏寿郎さんが独り言のように漏らした言葉の意味を確かめたくて口を開きかけたが、それは歌舞伎座の出口で待機していた傘売りの男の言葉によって遮られてしまう。
 外を見れば、なるほど、確かに透明な露がしとしとと地面に降り注いでいる。開放されっ放しの正面扉からは、雨の匂いが流れ込んできて鼻孔を掠めた。商売上手な男である。
 荷物になってしまうからと、この梅雨の時期に傘を持参しなかったことを後悔していると、何時の間にか男から傘を購入した杏寿郎さんが、「行こう」と流し目でこちらを見た。
「じきに止みそうな気もするが、やはり傘はあった方が良さそうだな。名前、こちらに来られるか」
 建物の外に出ると、杏寿郎さんは雨空を仰ぎながら購入したばかりの傘を広げ、私を手招きする。一緒に傘の中に入れと言われているのだ。ぼっと、火が出たみたいに顔が熱くなる。いくら大きな傘と言っても、杏寿郎さんは身体が大きい。私達二人が濡れないとなれば、かなり身体を密着させる必要があるのではないか。
 口を開けたり閉じたりして逡巡する私に杏寿郎さんは苦笑すると、少し強引に手首を引かれる。私の体は無抵抗に広げられた傘の中に滑り込んだ。
「傘がもう一つあれば良かったのだが…すまないな。もし名前が嫌でなければ、もう少し俺の方に寄ってくれないか?そんなに離れられてしまっては、君が濡れてしまう。…それとも、あまり気が進まないか」
「そ、そんなことありません」
 杏寿郎さんの言葉に深い意味はないことは分かっている。彼はただ、私が濡れてしまわないようにと気遣ってくれているだけ。けれども、杏寿郎さんに恋をしている私にとっては一大事だ。けれども、恥ずかしいからという理由で提案を拒否してしまえば、優しい杏寿郎さんを余計に気遣わせてしまうかもしれない。
 細く長い息を吐いて鼓動を落ち着けると、私は唇を引き結んで杏寿郎さんとの距離を詰める。杏寿郎さんが頭上で微かに笑った気配がしたが、私は恥ずかしくて顔を見ることが出来なかった。
 傘の中で身を寄せ合って銀座の街を並んで歩く。傘を打つ雨垂れの音。爪先が水溜まりを蹴る水の音。杏寿郎さんと肩が触れ合うたびに聞こえる衣擦れの音。どくんと鳴る私の心臓の音。
 歩く度に、肩や腕が杏寿郎さんに触れて心臓がどうにかなってしまいそうだった。身体の内側から鷲掴みにされているみたい。本当にそのくらい胸がきゅうきゅうと切なく痛むのだ。
「名前、俺に気を遣っているのならその必要はない。ほら、もっとこっちにおいで。濡れて身体が冷えてはいけないだろう」
 苦笑した杏寿郎さんは、私の肩を掴んで自分の胸の近くに引き寄せた。無意識に杏寿郎さんから距離を取ってしまっていたようだが、やはりそれが得策だったのではないかと思う。鼓膜にその音が響くくらい、心臓が私の体を叩いている。もう数秒もすれば、一生分の鼓動を打って、その役目を終えてしまいそうなほどの勢いだ。
 ちらりと隣の杏寿郎さんを見上げれば、すぐ斜め上に端正な顔があり、恥ずかしくて再び視線を地面に戻す。杏寿郎さんは涼しい顔をしているように見えた。きっとこんなに緊張しているのは、心臓を激しく震えさせているのは、私だけなんだろうな。そう思うと、胸が先ほどとは違う痛み方をした。
 杏寿郎さんも、誰かに恋をしているのだろうか。誰かのことを好きと思うのだろうか。
「そ、そういえば、お父様のご様子はどうですか。確か明後日が先生の次の往診日だと思ったのですが」
 いつもは色々と話をしてくれる杏寿郎さんの口数が、どういうことか今は別人のように少なくて、私は気まずさを誤魔化すために口を開く。すると、杏寿郎さんもはっとしたように私を見て、いつもの調子で答えてくれる。
「先生が来てくださってから、かなり体調が良くなっている。食事も三食摂るようになったし、酒を飲む頻度も以前よりは減ったように思う。…それに、名前、分かりにくいが、君にも感謝しているはずだ」
「え?私にですか」
「ああ。名前が以前言っていたことが、漸く分かった気がした。粘り強く関われば患者も心を開いてくれる。…確か君はそう言っていたな」
「はい。でも杏寿郎さんのお父様が…私に心を開いてくれている様にはまだ見えなかったのですが」
「はは、そうか。確かに父は分かりにくいからな。…今はあんな状態だが、本当はとても強く優しい人だ。目を見れば、名前を信頼していることが、俺には分かる」
「本当ですか!そっか…それなら良かったです。杏寿郎さんが言うなら、間違いないでしょうし」
 力強い言葉が嬉しくて、私は満面に喜色を湛えて隣を歩く杏寿郎さんを見る。先ほどまでの恥ずかしさを一瞬忘れてしまうほどの嬉しさだったから、ぶつかるように目が合うと再び決まりが悪くなって、私はまた鼓動が速度を速めたのを自覚する。
 けれども、今度は視線を逸らせない。杏寿郎さんの凛々しい瞳は、私を捉えて離してはくれなかった。気を抜けば、一瞬にして彼の瞳の中に吸い込まれてしまいそう。それくらい、美しく力強かった。好きな人と目が合うと、時間が凍ったように止まり周りが見えなくなってしまうのだと、今日初めて分かったような気がする。
「む、雨が止んだようだな」
「本当だ。止みましたね」
 杏寿郎さんが傘を少し傾けると、空へ向けて手を伸ばした。私もそれに倣って空へ手を差し伸べる。
 傘を閉じれば、頭上を覆っている厚い雲が切れて、ところどころ光が洩れ射してきた。雨に濡れた地面が雨上がりの陽の光を反射して、足元に出来た水溜まりには晴れ間が覗き始めた空が映っていた。雨に洗われた銀座の街が、一層華やいだように見える。
 傘が閉じられ、離れてしまった杏寿郎さんの温もりがとても恋しくなった。普段は憂鬱に感じる雨だが、今日ばかりはもう少しだけ続いてくれても良かった気がする。心臓の耐久は私には分かりかねてしまうけれど。
「…もう少し、降ってくれていても良かったが」
 独り言のように呟いた杏寿郎さんの低い声は、水溜まりを勢いよく踏んだ水音のせいで、私の耳に届くことはなかった。