episode 16
初恋診断




 その日の晩、風呂から出た私は寝室に向かう前に、まだ光が点いている診察室へと立ち寄った。私が住まわせてもらっている先生の自宅と診療所は渡り廊下一つで繋がっているのだ。
 診察室に入ると、先生が机に広げた分厚い書物に目を通していた。天井の白熱灯が先生の真剣な顔を柔らかく照らしていた。
「…名前ちゃん?どうした、何かあったかい?」
 あまりにも真剣な表情に話すことを躊躇っていると、こちらの気配に気づいた先生が書物から顔を上げた。かけていた眼鏡を外しながら私の方を見ると、気遣う様に声をかけてくれる。
「ごめんなさい、邪魔してしまって」
「邪魔なわけがあるか。何か相談ごとかい?」
「実は…そうなんです。…少し、身体に気になる症状が出ていて」
「気になる症状?どれ、見てみよう」
 私の申し出に、先生は神妙そうな顔を浮かべて診察用の椅子に座るよう促した。
「それで、まずは診察の前にどんな症状が出ているのか詳しく教えてくれないか」
 椅子に腰かけるなり、先生は私に症状を説明するように言う。ゆっくりと頷いて、記憶を辿りながらぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「実は…最近、胸の…心臓のあたりがぎゅうっと痛むことがあるんです。時々動悸が早くなって、どくって大きく跳ねることもあって」
「ふむ…心臓のあたりが痛む、か。名前ちゃん、その症状はいつ頃から出ていた?
最近か?」
「はい…あの、だいたい一月ほど前からではないかと思います」
「一月前か。…因みに、今はその症状はあるかい」
 先生は眉間に皺を刻んで、机の上の聴診器に手を伸ばし、耳管を耳の孔にはめ込んだ。やはり深刻な病気なのだろうか。
「今は全然症状はないです。…その、どういう訳か決まった時にこの症状が出るのです」
「決まった時?それはどんな時か教えてくれるかい。動いたり、走ったりした時かな?」
「それが、違うんです。何故か、煉獄家に行った時に…というよりも煉獄家のご長男である杏寿郎さんと一緒にいる時にばかり出てくるのです」
 私の発言に、聴診器を胸にあてようとしていた先生がその動きを止める。驚いたような瞳に凝視され余計に不安な気持ちになってきて、私は窺うように先生に問う。
「あの…先生?やはり、私は重症なのでしょうか。…まさか、死んでしまうなんてことは」
 先生は口元に笑みを作り、私を診察することもせずに聴診器を外して首にかけた。
「名前ちゃん、それは重症な病だな」
「え?やはりそうなのですか?もしかして…」
 父親の病気のことが脳裏を掠めて背中に冷たい汗が滲んでくる。しかし「重症な病」と言う割には、先生は落ち着いておりどこか楽しそうにも見える。
「名前ちゃん、それはね、『恋』っていう病だよ。罹ってしまえば、胸が痛かったり苦しかったりすることもある」
「こ…こい?」
「名前ちゃんは、杏寿郎くんに恋をしているんだね。…つまり、杏寿郎くんのことが好きなんだよ。異性としてね」
「異性として…」
「そうだよ。例えば、私は杏寿郎くんと同じ男だけれど、名前ちゃんは私を見て、同じ症状は起こらないだろう?」
「は…はい。そうですね」
 恋という言葉を勿論知らない訳ではない。しかし今私の身体に起きている症状が恋なのだとすれば、私は今、恋というものを初めて経験している。この気持ちが、人を好きになるということなのか。
「だから、心配することはないよ。杏寿郎くんのことは昔から知っているが、とても素晴らしい子だよ。名前ちゃんと彼が一緒になってくれたら、私にとってもこんなに嬉しいことはないな。…それに、君たちは良く似ている。真面目なところも、努力家なところも、責任感が強いところも、人に優しく出来るところも」
 先生の言葉に、じわじわと顔に熱が集まってくる。恋というものを、杏寿郎さんへの気持ちを、自覚してしまったからなのか、なんだか猛烈に恥ずかしくて私は暫く口を開くとが出来なかった。
「さ、もう遅い。明日も何件か往診に付き合ってもらわなければならないから、名前ちゃんはもう寝なさい」
「はい…。先生、教えて下さってありがとうございました」
「ふふ。君より長い人生経験が役に立って良かったよ」
 おやすみと笑った先生に一礼し、私は診察室を後にする。建物の外に設置されている渡り廊下を歩くと、春にしては少し冷たい夜風が首筋を撫でていき、とても気持ちがよかった。
 体中がぽかぽかしている。この火照りは、風呂上りという理由だけでは勿論片付けられない。 

  

 杏寿郎さんと歌舞伎を観に行くことになったのは、季節が梅雨に入ってからだった。
 お出かけ日和とは言い難い、今にも雨が降り出してしまいそうな空の下、杏寿郎さんが待ち合わせ場所に指定してくれた銀座の入り口で、私は意味もなく手を胸の前で握ったり解いたりを繰り返していた。
 外出用の着物は変ではないだろうか?結った髪は?軽く施した化粧は?
 心が宙にあるようにそわそわして落ち着かないまま、近くの建物に備え付けられた時計を見上げれば、待ち合わせの時間まではまだ十五分以上もあった。すでにかなりの時間待ったように思ったが、心が急いてかなり早く待ち合わせ場所に到着していたようだ。
 時間もあるし、もう一度手鏡を見よう。そう思い立って巾着に手を伸ばしたところで、背後から肩にぽんと手を置かれる。
「杏寿郎さ――」
「お嬢ちゃん、一人かい?それとも待ち合わせかな」
 きっと杏寿郎さんだ。満面に喜色を湛えて振り返ると、そこに待ち侘びていた人物はいなかった。背後には、数人の若い男性が口角に品のない笑みを浮かべ、品定めするようにじろじろと私を見ていた。
「…一人じゃありません。人を待っているので」
「そうか。でもさっきからずっと一人でここにいるだろう。男を待ってるならやめた方がいい。半刻も遅れてくる男に碌な奴ないねぇよ」
「ち、違います!私が早く来てしまっただけです。相手の方を侮辱する言い方は止めてください」
「は?なんだ小娘、生意気言うじゃねーか」
 にやにやとした笑みを口元に浮かべていた男達が、一気に険悪な顔をする。余計なことを言ってしまったと思った時にはもう手遅れで、男の一人が私に手を伸ばしているのが分かった。殴られるの?それとも攫われる?どのみち楽しい展開が待っているはずがないのだから、大声を出して助けを呼ぼうと息を吸い込みかけた時、視界を大きな背中が覆った。
「君達。俺の連れに何か用か?」
「誰だ、お前?」
「…きょう…じゅろう…さん」
 目の前には、いつもの隊服とは違い着物姿の杏寿郎さんが、男達から私を守るように立っていた。
「聞こえなかったか?この女性は、俺の連れだと言っている」
 私に手を伸ばした男の腕を掴んだ杏寿郎さんには、一般人では到底太刀打ち出来そうもない有無を言わせぬ迫力があった。その様子に気圧された様子の男達は、悔しそうに唇を噛みながら、そそくさと私達の前から立ち去っていった。
「名前、遅れてすまなかった。おかげで君を危険な目に合わせてしまったな」
 私に向き直った杏寿郎さんが、眉尻を下げて申し訳なさそうな表情で私を見下ろす。
「そんな、杏寿郎さんが謝るなんておかしいです。助けていただいたのは私だし、そもそも待ち合わせにはまだ十五分もあるんです。私が早く着いてしまっただけで…」
「いや、そもそもここを待ち合わせ場所に指定したのが良くなかったのかもしれない。次は、家まで迎えに行こう」
 深い意味はなかったかもしれないが、杏寿郎さんの言葉は私の心臓を壊してしまいそうなくらいの破壊力があった。また一緒に出かける機会が、この先もあるということなのだろうか。
 先ほどから煩くて仕方がない心臓が恨めしかった。いつもの隊服姿の杏寿郎さんも凛々しくてとても素敵だが、錆納戸の乱れ縞の着物に身を包んだ杏寿郎さんの姿を目にしていることも、胸が高鳴る理由の一つかもしれない。
 これが恋。これが人を好きになるということ。
「少し早いが、歌舞伎座に向かおうか」
 時計を確認した杏寿郎さんは、そう言って私の手を取った。
「えっ…あ、あのっ」
 当たり前のように繋がった手に、心臓が肋骨を破壊してしまいそうだった。そのくらいの勢いで、心臓が跳ね回っている。一気に体温が上昇し、熱を逃がそうと体中の汗腺から汗が噴き出す。
「この辺りはただでさえ人が多い。逸れて、また変な輩に絡まれでもしたら、困るからな」
「は、はいっ…」
 恐らく真っ赤になっているであろう顔を見られないように、少しだけ俯いて蚊の鳴くような声で呟いた。手を引いて歩き出した杏寿郎さんは、私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれた。そんな気遣い一つも嬉しくて仕方がなかった。
「そういえば、今日の歌舞伎の演目の話をしていなかったな」
 最早歌舞伎どころではない私に、杏寿郎さんが思い出したように言う。
「今日の演目は『妹背山婦女庭訓』という。俺も観たことはないが、日本の三輪山伝説に基づいた話なのだそうだ」
「いもせやま…?みわやまでんせつ…?」
 聞きなれない言葉に、頭の上に疑問符を浮かべて杏寿郎さんの言葉を繰り返す。すると、私の方を肩越しに振り返った彼が口元に笑みを浮かべて、もう一言説明を付け加えてくれた。
「まぁ俗にいう、赤い糸の伝説の話だな。…それなら名前も聞いたことがあるのではないか?」