episode 13
恋の始まり




 隣に座る先生に倣って、勧められた煎茶を啜る。入れたての緑茶は、香ばしいかおりが一段と引き立っており、お店で出されたもののように美味しかった。
「美味しい」と思わず独り言のように漏らせば、机を挟んで向こう側に座る少年が、安堵したように微笑んでいた。
「それにしても、千寿郎くんもこんなに大きくなったとは。私が最後にここに来た時はまだ一人で歩くのも覚束ない幼子だった。…時が経つのは早いね。」
 先生が目の前の青年と少年を交互に見ながら、懐古するように言って目を細めた。二人は煉獄家のご子息だ。一人は、先日私を救ってくれた長男の煉獄杏寿郎様。もう一人は、その弟である次男の煉獄千寿郎様。そっくりな二人は、説明されなくとも兄弟であることが一目瞭然だ。
「母が亡くなってから、もう十年になりますからね」
「そうか、もうそんなに経つか」
「父は…母が亡くなってから、すっかり変わってしまいました」
「お父上は、お母上のことが愛しくて堪らなかっただろうしね。…本当に、私は医者として何もすることが出来ず、申し訳なかった」
 煉獄様が端正な顔に微かな影を落として言うと、先生は申し訳なさそうに頭を下げた。
 先生は、十年前にもこの煉獄家の往診をしていたのだと教えてくれた。その往診の患者というのが、煉獄家当主の内儀であり、目の前の二人の母親だったそうだ。そして彼女の命を奪った病もまた、結核だった。
「先生、頭を上げてください。結核に有効な治療法がないことは自分も素人ながらに理解しているつもりです。その中でも先生は、母に誠意を尽くしてくれた。それだけでもう十分です」
「本当に…立派になったな、杏寿郎くん。…今は家業を継いでいるのかい?」
「はい。父は、先日先生に文をお送りした通りの状態ですので」
「そうか。…君も色々大変だろうが、どうか無理をしないでくれよ。弟さんのためにも、な」
 少し寂しそうに言って煎茶を啜った先生に、煉獄様は小さく顎を引いた。
 家業、とはなんなのだろうか。先生の言い方を聞くに、軍人様とは違うのだろうか。差し出がましい気がして、流石に口を挟むことは躊躇われた。後ほど先生に聞いてみてもいいのだろうか。そんなことを考えていると、先生が本題だ、とばかりに湯飲みを置いて襟を正した。
「それで、お父上の容態をもう少し詳しく教えてくれないか」
「…はい。今は、部屋から出てくることも殆どなくなりました。弟の千寿郎が作った食事も殆ど摂らずに、酒ばかりで。以前と比べて顔色も明らかに悪く、胃の中の物を戻していることも多いようです」
「ふむ…そうか。肝が弱っている症状が出ているな。…では、診察させてもらおう。案内してもらえるか」
 そう言ってゆっくり立ち上がった先生の表情は深刻そうだった。先生は優秀な医者で多くの命を救ってきた凄い方だ。しかし、助けられない命だって勿論ある。
 大事に至らないといいな、と思いながら先生の後について長い廊下を歩く。本当に大きなお屋敷で、逸れたら迷ってしまいそうだった。静謐な廊下に、きぃっと床を踏む音が響いた。
「父上。杏寿郎です。お医者様をお連れしました。失礼します」
 煉獄様が襖を開け、正座から立膝になって部屋の中へと進む。先生と一緒にその後に続けば、これもまた煉獄様にそっくりな後ろ姿が視界に飛び込んでくる。布団に身体を横たえており、表情こそ見えないが当然ながら体調が良さそうにも思えない。
「父上。…母上を看取って下さった先生が来てくださいました。…お願いですから治療を受けてください」
「煉獄様…いや、槇寿郎様。ご無沙汰しております。立派になったご子息から文を貰って、吃驚して飛んで参りました」
 先生の穏やか声に、威嚇するような背中が少しだけ和らいだのが分かった。ゆっくりと先生の方に視線を移した煉獄家の当主は、予想通り土気色の顔をしている。息子達とそっくりな大きな瞳にはまるで覇気がなく、生への執着が全く感じられないようにも見えた。
「やはり顔色が良くない。悪いが断られても診察させてもらいますよ。身体を上に向けられますか。…名前ちゃん、今から少し診察をするから、終わったら身体を清めて着替えが出来るよう準備してくれるか。肝が弱っているせいでかなり皮膚も弱っている。清潔にしないと床ずれができてしまう」
 先生は頭頂部から爪先まで素早く観察すると、瞬時に容態を見立てて私に的確に指示を出す。
「では裏庭の井戸の水を使ってくれ。俺も手伝おう」
 私が口を開くよりも早く煉獄様がそう言って、付いて来てくれとこちらに目で合図してくれる。先生が「手伝ってもらいなさい」と言わんばかりに私を見てゆっくりと頷いたので、頷き返して慌てて煉獄様の後を追う。
「また君に再会するとは、よもや、驚いた。名は、名前といったな」
「は、はいっ!私もまさかまた煉獄様に再会するなんて驚きました」
 広々とした玄関から外に出て、寺社仏閣の庭園のように大きな庭を歩きながら、煉獄様が私に笑いかける。いきなり呼ばれた名に、声の大きさを上手く調整出来ず間抜けな返答をしてしまう。
「俺のことは杏寿郎で構わない。ここでは、皆煉獄になってしまうからな」
 それが、煉獄様のことを杏寿郎と呼ぶようにと言われているのだと分かるのに、数秒かかってしまった。
「きょ、杏寿郎様…ですか。でも」
「様もやめてくれないか。別に俺は貴族でも華族でもないのだ」
「…はい。…では、杏寿郎さんとお呼びさせていただきます」
「ああ、そうしてくれ。…名前は先生の助手をしていると言ったな。先生の深刻そうな顔を見ると、きっと暫く往診して父を診てもらう必要があるのだろうな。そうなれば、君にも世話になることも多いだろう。宜しく頼む」
 躊躇なく呼ばれる自分の「名前」という名。身体を巡る血がトクンと音を立てた。家族以外の異性に名前を呼ばれることなど生まれてこのかた初めてで、なんだか落ち着かない気持ちになった。
「も、勿論です。精一杯、お手伝いさせていただきます。あの、それと、先日はありがとうございました。本当に、杏寿郎さんは命の恩人です」
 井戸の前に到着し、竿の先に水を汲み上げる桶を括りつけていた杏寿郎さんにぺこりと頭を下げると、彼は困ったような笑みを作る。
「先日も言ったが、礼には及ばん。当然のことだ」
 そう言われてしまえば大人しく口を噤むしかなかった。しかし、自分の役目を思い出し、井戸に桶を投げ込もうとしていた杏寿郎さんの軍服の袖を咄嗟に掴む。
「……あ、それ、私がやります!」
「ん?いや、大丈夫だ、俺がやるから気にするな。君は慣れていないだろう」
「でも、私が先生に頼まれたので。見ているだけでは先生に怒られてしまいますから」
「ははっ、名前は想像以上に頑固で義理堅い性格なのだな。しかし、君に色々と父の世話をしてもらうのはこれからだ。こんなことは、男の仕事だ」
 懇願するも杏寿郎さんは笑って軽く私をいなすだけだった。助手として来ているのに、あまり役に立つことが出来ない自分に不甲斐なさを感じつつも、太陽のような笑顔に心がきゅっと切ない音を立てる。その刹那、頭上で響いた鳴き声に、私の心臓は肋骨の内側で飛び上がる。
「カァァーッ!任務!任務!北北西ニ鬼ノ目撃情報!」
「……烏?…しゃべって…鬼?…きゃっ!」
 忽然と現れたしゃべる烏に気を取られ、頭上を旋回しているそればかり見ていた私は、気づけば均衡を保てなくなっていた。可愛げのない素っ頓狂な声が漏れ、気づいた時には傾いた身体を、先日同様大きくて広い胸が受け止めてくれていた。
「大丈夫か?すまない、驚かせただろう」
「あ、こ、こちらこそごめんなさい」
 頬が沸点に達したみたいに急激に熱くなって、咄嗟に杏寿郎さんの胸から身体を離せば、彼の肩にふわりと烏が舞い降りた。濡羽色の美しい羽が、杏寿郎さんの頬を優しく撫でる。
「…悪いが、今から任務に発たなければならなくなった。後は千寿郎に任せていく。…父のことをくれぐれも宜しく頼む」
「は、はい…」
「色々聞きたそうな顔だな。説明したいが今は時間がない。今度、ゆっくり話そう。煉獄家の家業のことも、この要のことも」
 余程何かを聞きたそうな顔をしていたのか、杏寿郎さんは私に気遣うように言って、その雄々しい瞳に鋭さを宿した。私にはよく分からないけれど、彼の真剣な表情を見れば、「任務」というくらいなのだから、きっと今から戦場に向かうのかもしれない。
 おしゃべりする烏。鬼。煉獄家の家業。どれも気になることばかりだけれど、それ以上に、私は目の前のこの人のことが、何故だかもっと知りたくて仕方がなかった。