episode 12
奇跡の再会




「危ないっ!」
 それは一瞬のことだった。どこかから大きな声が聞こえたかと思えば、次の瞬間には私の視界は焦げ茶色に覆われていた。そこが誰かの胸の中だと気がついたのは、労わるような低い声が頭上から降り注いだ時だった。
「君、大丈夫だったか?怪我はないだろうか」
「え、あ、えっと…え?」
 状況が全く認識出来ない私は、呆然としながら声の方へ顔を向ける。今度は視界に、見ず知らずの青年が飛び込んでくる。私を映す大きくて雄々しい瞳が、心配そうにこちらを見ていた。私は一体、どうしたんだっけ?
 混乱した頭で少し前のことを思い出して状況を整理する。本日の往診に向かうべく、先生から数分遅れて診療所を出たところまでは記憶にある。そして、「危ない」という声が聞こえた後は、この見ず知らずの人の胸の中にいた。
「おーい!名前ちゃーん!」
 結局答えが導き出せないままぽかんとしていると、聞き知った先生の声を耳が拾う。声の方に視線を移そうとするより一瞬早く、身体を抱きとめてくれていた青年が立ち上がって、私の身体を地べたから持ち上げ立たせてくれた。
「うむ。見たところ怪我はないようだな。馬車に撥ねられれば死ぬこともあるからな」
 美しい金糸を持つ青年は、私を僅かに見下ろしながらにっこりと言った。
「名前ちゃん!良かった。怪我はなさそうだな。軍人様、この度はこの子を助けて下さり誠にありがとうございました」
 駆け寄って私の両肩を掴んだ先生が、私の顔を見るなり安堵の表情を浮かべると、胸の前で腕組をする青年に深々と頭を下げた。
「礼には及びません。最近は馬車や車も増えて規則を守らない輩も増えました。くれぐれも気を付けてください。女性に傷がつかなくて良かった」
「あ、あの。すみません。私一瞬のことで何が何だかよく分からなくて…」
 未だに状況が理解出来ない私は、蚊帳の外で繰り広げられる会話に痺れを切らして口を挟むと、先生は眉根を寄せてすまないと言い、先刻起こった小変を説明してくれた。
「診療所を出てすぐに、名前ちゃんの背後から物凄い速さで馬車が走って来たんだ。僕ではとても間に合わなくて…正直もうだめかと思ったよ。それを、この軍人様が間一髪のところで名前ちゃんを抱き上げて助けてくれた。本当に、本当に良かった」
「そうだったんですか」
 状況を聞いた私は、慌てて先生と同じように腰を直角に折って頭を下げる。
「先ほどは状況がよく分からず、直ぐにお礼が申し上げられなくて申し訳ございませんでした」
「礼には及ばんと言っている。君に怪我がなくて良かった。さぁ、頭を上げてくれ」
 心苦しそうな声が聞こえたので、言われた通りにゆっくりと頭を上げる。今一度目の前の青年をまじまじと見てみれば、なるほど、先生の言うようにお国のために働く軍人様なのであろう。それは軍服のような服装から容易に想像がついたし、肩に掛けられた羽織でその殆どが隠れてしまっているが、腰に差した刀が何よりの証拠だ。明治時代に廃刀令が出されてからは、刀を所持出来る人間は限られている。
「あの、よろしければお住まいを教えていただけないでしょうか。是非、お礼をさせていただきたいので。あ、勿論私は怪しい者ではございません。街のお医者様であられるこちらの先生の助手をしております」
「そうか。気持ちは有難いが、気遣いは不要だ。君の気持ちだけ受け取っておく」
 窺うように問えば、目の前の青年は軽快に笑って私の申し出を拒否してしまう。優しい笑顔が太陽みたいに眩しくて、凄く素敵な人だと思った。
「で、では、せめてお名前だけでも教えていただけませんか」
「俺か?名乗るほどのものではないが…」
「是非、お名前だけでも。あ、お伺いする前に、まずは自分が名乗らなければいけないですね。私は苗字名前と申します」
「…苗字名前か。いい名だな。俺は、煉獄杏寿郎という」
「煉獄…杏寿郎…様」
「では、俺はもう行く。くれぐれも道中気を付けてくれ」
 煉獄様とおっしゃる方は溌溂とした声で言うと、裾に炎のような刺繍が施してある真っ白な羽織を翻し、瞬間移動をしたみたいに直ぐに見えなくなってしまった。
「れんごく…さま」
「立派な青年だな」
「はい…とても」
「しかし…煉獄…うーんどこかで」
 先生が隣で顎に手をあて考えるような仕草をしていたが、私は気にも止めずに煉獄様が消えた方角を見つめていた。理由はよく分からないが、先ほど助けられた時の肌の感触と体温を思い出し、心臓が細かく震えているのだ。
 桜の匂いがする柔らかな風が吹き、首筋や頬を撫でていく。その春風が涼しいと感じてしまうほど、何故だか私の顔は火照っていた。

  

 あの日から十日ほど経った。今日も私は往診に向かう先生の付き添いで、桜並木に面した大きな通りを歩いていた。既に桜の木々には新緑が目立ち始め、地面に散り落ちた花びらが桃色の絨毯を作っている。
「先生、今日お伺いする患者様はどのようなご病気で」
 内科を専門とする医者である先生を見上げて問う。隣を歩く先生の元で、住み込みで診療の手伝いをさせてもらうようになってから、もう数年が経過した。先生が門戸を開く診療所で働かせてもらっているのは、勿論自身が生きていくためでもあるが、もう一つ大きな理由があった。
 先生が、不治の病とされている結核の研究をする傑出した人物だったからである。「少し先の未来では、結核は必ず救える病気になるから」というのが先生の口癖で、私も彼の言葉を信じて微力ながら研究の手伝いもさせて貰っていた。
 何故結核なのか。勿論それにも理由があった。私は父親を結核で亡くしていた。当時のことを思い出すと、未だに涙が溢れてくる。加えて、結核の患者やその家族に対する差別の凄惨さと言ったらなかった。当時私が住んでいた地域はここよりもずっと田舎だったこともあり、余計に差別というものが色濃く出てしまっていたのかもしれないが。
「うん…どうやら酒が手放せなくなって、肝を悪くしているらしいんだ」
「お酒のせいで肝を…。確か先生は、肝の病は症状を自覚してからでは手遅れであることが多いと仰っていましたよね」
「ああ、その通りだ。よく覚えていたね。だからこそ、症状が初期のうちに酒を止めてもらって治療を開始しないとね。…それにしても、相変わらず名前ちゃんは勉強熱心だな」
「いえ。少しでも先生のお役に立ちたいですし、病で苦しむ方をお救いしたいので」
「殊勝な心掛け、本当に関心するよ」
「あ、ありがとうございます」
 先生と他愛のない会話を続けながら十分ほど歩くと、目に入る景色は閑静な住宅街へと変わっていた。この辺りの地域は、地元の名士や地主が多く住んでいると聞いたことがあった。なるほど、確かに軒を連ねる邸宅は立派な屋敷ばかりだ。
「あ、そうそう。名前ちゃんに言おうと思っていたことがあったんだが…」
「はい?なんでしょう」
 先生が立派なお屋敷の前で足を止めたので私もそれに倣う。どうやらここが、本日往診する患者の住まいなのだろう。
「先日街で名前ちゃんを助けてくれた軍人様を覚えているかい?煉獄と名乗っていただろう」
「は、はいっ!勿論」
 先生の口から紡がれた予想外の人物に、私は声が上擦ってしまう。覚えていないわけがない。おかしなことに、私は煉獄様に助けてもらったあの日から、暇さえあれば彼の笑顔を思い出していたのだから。
「どこかで聞いたことがある名前だと思ったんだ。今回、患者の診療の依頼を受けて、漸く思い出したよ」
「え?…先生、それってどういう」
 先生がゆっくりと笑って口を開きかけた時、目の前の立派な門がみしみしと音を立てて開かれた。姿を現した人物に、私は呼吸が止まりそうになる。
「先生!」
「ああ、わざわざ出迎えをすまないね」
「いや、私の方こそ、先日は先生のお顔を思い出せず申し訳ございませんでした」
「いいんだよ、私も齢をとった。それに、それはお互い様だろう。…本当に大きく立派になったな、杏寿郎くん」
 先生は目を細めて、目の前で深々とお辞儀をした人物に言った。その人物とは、先日私を助けてくれた煉獄様だった。