episode 11
決定的瞬間




 体育祭が終わる頃には、真っ青だった空が茜色に染まり始めていた。後片付けをする生徒達の楽しそうな声をBGMにしながら、私は特設テントの中に設置した救護スペースの物品を片付けていた。キメツ学園の生徒達も教師も優秀で、結局誰一人急病人や怪我人が出ることがなかったため、今日この場所を使う機会は一度もなかった。それ故、後片付けといっても、最後は救急箱を保健室に持って帰れば私の業務は終了だ。
 邪魔にならないよう校庭の端を通って校舎を目指す。気持ちは暗く沈んでいた。頭上に広がる美しい空とは正反対で、私の心は今にも雨が降り出しそうな空模様だ。その理由は明白。煉獄先生とカナエ先生の関係が気になって仕方がないからだ。
「名前先生!お疲れ様です」
「カ、ナエ先生」
 今まさに脳内で思い浮かべていた人物の登場に、思わず声が上擦る。今日一日ですっかり水溜まりも蒸発した地面ばかり見て歩いていたので、カナエ先生が目の前に現れたことに全く気がつかなかった。
 カナエ先生はいつも通りとても可愛らしい笑顔を浮かべていた。半袖の運動着から伸びる雪のように白い腕は細くて折れてしまいそうなのに、服装のせいでいつもより強調されているバストは、女性の私でも目が行ってしまう。
 透き通るような肌は改めて見れば凄く肌理が細かくて、大きな瞳、真っ直ぐ通った鼻筋、吸い付きたくなるような甘い唇、整った顎のラインはもう完璧だ。
 そんなことはカナエ先生と出会った時から分かっていたことだ。それなのに、今、彼女の美しさを目の当たりにしてこんなにも心が沈んでしまうのは、やはり私の煉獄先生への想いが変化したことと、二人の関係にやきもきしているからだろう。
「名前先生、今日の打ち上げは来られますか?」
 カナエ先生が華やかな澄んだ声で言う。
「打ち上げですか?」
「ええ。さっき、宇髄先生や煉獄先生と話をしていたんです。宇髄先生が張り切って他の先生にも声をかけていたみたいなので、かなり人も集まると思います」
 煉獄先生、という単語に胸がずきずきと痛んで妬ましい気持ちが沸き上がってくる。一方で、キメツ学園の数少ない女性教師仲間で、何でも相談出来る存在であったカナエ先生に、こんなに醜い感情を抱いてしまうことに心底嫌気がさしてくる。
「私は…今日は遠慮させてもらいます。その…ちょっと仕事が溜まっていて」
「そうですか…残念ですね。名前先生が来ないと、がっかりする先生もいると思うんですけど、仕事なら仕方ないですしね」
「ごめんなさい。また誘ってください」
 私の口は考えるよりも先に言葉を紡いでいた。仕事が溜まっているのは嘘ではないが、別に今日手を付けるつもりもなかった。
カナエ先生が来ない方が、余程がっかりする先生が多いと思うのだけれど。その言葉は呑み込んで、私は無理やり口元に笑みを作って彼女から逃げるようにその場を後にする。
 きっと上手く笑えていなかったのだろう。カナエ先生が笑顔を憂慮の表情に変えて私を見ていたのが何よりの証拠だ。でも、今の私にはそれが精一杯だった。これ以上彼女といると、もっと狭量な自分を曝け出してしまいそうで怖かった。
 校舎に入ると、体育祭の喧騒が背後に遠ざかっていく。保健室まで真っ直ぐに伸びる廊下の片側には大きめの窓が続いており、窓ガラス越しに西日が射し込んで、磨かれた床には自分の影がくっきりと出来ていた。
 人気のない廊下をぼんやりと歩き、保健室はもう目と鼻の先というところで、自分の陰に別の影が重なる。背後で人の気配がして条件反射のように振り返ったとほぼ同時くらいに、私の名を呼ぶ声が鼓膜を震わせた。
「苗字先生!」
「れ、煉獄先生……お、お疲れ様です」
こちらに向かってくる煉獄先生が視界に飛び込んできて、鳩尾あたりがぎゅうっと苦しくなる。凛々しい顔を真っ直ぐ見ることが出来なくてぱっと視線を逸らしてしまう。すると、煉獄先生の足首が目に入り、違和感を感じる。
「苗字先生もお疲れ様。胡蝶先生から調子が悪そうだと聞いたが、大丈夫か?」
「え?あ、えっと、はい…全然大丈夫です」
 煉獄先生の言葉に面食らう。まさかカナエ先生が私のことを彼に話すなど考えてもいなかったから。いや、もしかしてそんな些細なことも話すくらい親密な関係なのだろうか。
「そうか、それならば良かった」
「…ご心配おかけしてすみません。わざわざそれを言いに来てくださったんですね」
 もう分かったではないか。煉獄先生はこういう人だ。誰にでも平等に優しくて、だからこそ勘違いしてしまう女性も女子生徒も多いのだ。私のように。こんなことでいちいち舞い上がってはいけない。
「…煉獄先生、足、手当しましょうか」
「え?」
 これ以上煉獄先生といると、切なさや苦しさや悲しさで心臓がどうにかなってしまいそうだった。一人になって自分の気持ちも状況も整理したかった。けれども、煉獄先生の足の違和感を見過ごすことは、保健室の先生としては、やはり出来かねた。
 私の言葉に、煉獄先生が驚いたように目を見開いているので、小さく笑って言葉を続けた。
「…さっきカナエ先生と二人三脚をして支えてあげた時ですか?…足、少し痛そうに見えたから、捻ったのかなって思って」
「…やはり本職の苗字先生には敵わないな」
 煉獄先生が苦笑して、頬をかきながら決まりが悪そうに言う。
「今日は急病人も怪我人も出なくてほっとしていたんですけど、煉獄先生が最初で最後の怪我人になっちゃいましたね」
「そうだったか…」
「手当しますから、大人しく付いてきてください」
 私は数歩進んで保健室の鍵を開ける。今日は物凄く暑かったせいか、一日分の熱気を溜め込んだ保健室に入ると、蒸し蒸しとした空気が私達の身体を包んだ。
煉獄先生に処置室の椅子を勧め彼が座ったことを確認すると、冷蔵庫からはきんきんに冷えたアイスノンを、棚からは真新しい包帯と湿布を取り出して、煉獄先生の足元に腰を落とす。先日彼に手当してもらった時と、全く逆の状況だ。
私が処置し易いよう気を遣ってくれた煉獄先生が、前かがみになって自身のズボンの裾を捲り上げてくれる。その際、ふわふわの髪の毛先が私の首筋に触れて、鼓動が急速に早まるのを感じた。
「ぼっ」という顔から火が出る音が聞こえてしまいそうなほど、熱くて仕方がない。保健室に篭った熱が、余計に私の身体の熱さを煽っているような気がした。
「…煉獄先生、これ…大分腫れてますね。…かなり無理してたんじゃないですか」
「そんなことはないと言いたいところだが…苗字先生にはお見通しなのだろうな」
「煉獄先生は、本当に優しいですね。…カナエ先生だからなのかもしれないですけど」
 最後の言葉は無意識に私の口から飛び出してしまっていた。まずい。何を言っているのだろう。
「…苗字先生、今なんと――」
「ご、ごめんなさいっ!なんか疲れてる時って自分でも何言ってるか分からないことあって。気にしないでください!」
 耳朶を擽った煉獄先生の声が困っているような気がして、私は誤魔化すように素早く手を動かす。腫れた足首に湿布を貼り付けたら、アイスノンごと足首をぐるぐる巻きに固定する。
「はい、これで終わりです!あ、応急処置ですから、必ず病院に掛かってくださいね!」
 努めて明るく言うも、平静を装えば装うほど不自然に声が震えてしまう。煉獄先生の視線を頭頂部に感じるも、上を向くことが出来ない。彼の雄々しい瞳を真っ直ぐに見つめ返す勇気などあるはずもない。
「…苗字先生は…よく宇髄と一緒に居るな」
 再び、首筋を煉獄先生の毛先が掠めた。低い声が鼓膜を這う。
「…え…」
 全身を巡る血液がどくどくと脈打ち、私はその声に釣られるように顔を上げてしまう。煉獄先生の整った顔が、想像以上に近くにあった。大きな彼の瞳に、困った顔を真っ赤に染める女が映っている。
「…苗字先生…君は…」
 熱い息がかかるほど、煉獄先生の唇が直ぐ近くにあった。少しでも身体を動かせば触れてしまいそうで、私は微動だに出来ずにぎゅっと目を瞑る。
『――煉獄先生、煉獄先生。至急、校庭の事務所までお戻りください。繰り返します――』
 互いの吐息が聞こえてしまいそうなほど静かな空間を切り裂くように、校内放送がスピーカーから流れてくる。
 はっとして顔を背けて保健室の床に視線を落とした時には、目の前に座っていた煉獄先生が立ちあがった気配がした。
「…俺はもう行く…苗字先生、手当を…ありがとう。助かった」
「い、いえ。ちゃんと病院…行ってくださいね」
 煉獄先生の声を聞いてから少しして、保健室の扉がゆっくりと閉まる音が聞こえた。結局私は、そのまま床から視線を上げることは出来なかった。

  

 体育祭の翌日は週末だった。私は胸の内に蟠っているもやもやとしたやりきれない感情を無理やり抑え込むべく、今日もランニングに精を出していた。頭上には果てしなく青い空が広がっており、ランニングコースの途中にある公園内は、休日のせいもあるのか多くの家族や恋人で賑わっている。
 公園の中央にある噴水広場では、陽の光を受けてきらきらとした輝きを放つ水の束が空に向かって噴きあがり、頂点までくると水がばらけて散り散りになって地面に落ちる。飛沫の落下地点には、水浴びを楽しむ子供達の姿も見受けられる。
 普段はそんな微笑ましい週末の光景を楽しむ余裕もあるのだが、今の私はただ一心不乱に走り続けるだけだった。余計なことを考えてしまわないように、ただ、ひたすら。
 しかし春にしては強すぎる日差しのせいで、思いのほか体力を奪われてしまっていたらしい。普段であれば公園内で立ち止まることはないのだが、全身から汗が噴き出して肺が潰れてしまったように苦しくなり、走り続けるのは困難だった。
一旦呼吸を整えようと人通りの邪魔にならない場所で足を止め、膝に手をついて浅く速い呼吸を繰り返していれば、少し先の横断歩道に見知った二人の姿を捉えてしまう。
 カナエ先生と煉獄先生だ。煉獄先生の話を、カナエ先生が楽しそうに頷きながら聞いている。そんな風に見えた。
 煉獄先生の自宅がこの近くであることは先日知ったばかりなので、彼の姿をこの近所で見かけるのは理解出来る。しかし、カナエ先生は?以前カナエ先生と話をした時に聞いた彼女の自宅は、少なくともこの場所からはかなり離れていたはずだ。それなのに二人が一緒にいるのは何故か。そんなこと、答えを確認するまでもない。
 苦しかった呼吸が一層苦しくなる。実際経験したことはないけれど、心臓の太い血管が詰まってしまったみたいに胸が痛かった。気づけば私の頬には汗に混じって涙が伝っていた。休日で人通りも多いこんな場所で泣きじゃくれば、注目の的になることは容易に想像がつく。それでも、溢れてくる涙を止めることがどうしても出来ない。
 刹那、二人と目が合ってしまう。煉獄先生とカナエ先生は明らかに驚きの表情を浮かべている。嫌だ。恥ずかしい。よりによって、汗だくになって泣きじゃくる、こんなにも見苦しい姿を見せてしまうなんて。
 頭で考えるよりも早く、私は踵を返して地面を強く蹴っていた。はぁはぁと息が切れ、気温が高いせいか肺に取り込む空気も蒸し暑くて身体の内側から干上がってしまいそうだったが、兎に角二人から距離をとりたかった。二人が追いかけてくるとは限らないけれども、二人の視界に自分を映すことが躊躇われた。
 しかし十分に休息が取れなかった私の脚は、急速にそのスピードを失っていく。交通量が多い大通りの路側帯で再び立ち止まって呼吸を整えていると、ぐいっと肩を掴まれ、強制的に後ろを振り向かされる。
「…っ…なんで…」
「それはこっちの台詞だ。そんな顔をして逃げられたら、心配するだろう」
 少しも息を乱した様子のない煉獄先生が、心配そうな表情を湛えて私を見ていた。カナエ先生の姿はない。なんで。どうして煉獄先生がカナエ先生を置いて私を追いかけてくるの。
「別に、逃げてなんかいません!私はただいつもの習慣でこの辺を走っていただけで」
「じゃあ、何故苗字先生はそんなに悲しそうな顔で泣いているのだ」
「そ、そんなこと煉獄先生に関係ないじゃないですか。ちょっと今日は暑くて疲れちゃって、苦しくて涙が出ただけ。…ただの同僚なのに、プライベートにまで口を出されると迷惑なんです」
 言った瞬間、後悔する。これは流石に言いすぎだ。煉獄先生は単純に私を心配してくれただけなのに。煉獄先生の端正な顔に、悲しそうな表情が浮かぶ。こんなことを言いたいわけじゃないのに、傷つけたいわけじゃないのに、好きなのに、私の唇は気持ちとは正反対の言葉を紡ぎ続ける。
「…カナエ先生は置き去りですか?早く、戻った方がいいですよ。…カナエ先生が煉獄先生の言う『運命の人』なんですよね」
「苗字先生、俺は――」
「っ…もう離して下さい」
 煉獄先生の言葉を遮って、私は勢いよく肩を回して置かれていた手を振り払う。辛くて、苦しくて、惨めで、一刻も早くこの場から立ち去りたい一心で地面を蹴って通りの向こうへ駆けだす。
 刹那、大きなクラクションの音が耳を劈く。音の方を向けば、到底止まれそうもないスピードで、車が私に突っ込んでくるのが見えた。そうだ。ここは、交通量も多い道路の近くだったっけ。
「名前っ!」
 私の名を呼ぶ懐かしい声が、聞こえた気がした。