episode 10
隣に立たないで




 件の事件から一週間が経った体育祭当日には、負傷した足もすっかり回復していた。巨大な校庭はすっかり体育祭用に飾り付けられており、賑々しい生徒達の声が聞こえてくるとこちらまで楽しい気持ちになってくる。
 数日降り続いていた雨は、空が明るくなる前には止んだようだ。昨日までは開催が危ぶまれたが、多少グラウンドが湿っていても体育祭は予定通り出来るだろう。
 地面に出来た小さな水溜まりに、雨雲が去った後の青空が映っていた。パンプスが汚れてしまわないよう慎重に歩いていれば、後ろからぽんと背中を押される。不意打ちに、水溜まりに足を突っ込んでしまう。空が壊れて小さな水飛沫が飛び、靴とストッキングに泥が刎ねる。
「きゃっ」
「あ、わりぃ」
「ちょっ!…あ、宇髄先生…と、煉獄先生」
 色気のない声が出て、悪びれた様子もない声の主を振り返れば、白い半袖のTシャツにジャージのズボン姿の宇髄先生が、顔の前で掌を合わせて「ごめん」のポーズを作っていた。そしてその横には、宇髄先生と同じ格好をした煉獄先生が、「大丈夫か?」と言わんばかりの視線を私に向けてくれていた。
 照り付ける日差しが春とは思えぬほど暑いせいか、煉獄先生の真っ白なTシャツの袖は肩まで捲り上げられており、逞しい腕が剥き出しになっている。胸が煩いくらいに高鳴ってごくりと唾を呑む。
「苗字先生、おはよう!足は、もう大丈夫か?」
「は、はい!お陰様でもう何ともありません。本当にありがとうございました。今しがた宇髄先生に汚されたのを除けば、ですけど」
 笑みを作って煉獄先生に頭を下げたあと、じろりと宇髄先生を睨みつける。
 煉獄先生とこうして話をするのはあの日以来だった。普段職員室に居ることがない私が、他の教師と交流機会が少ないことは今に始まったことではないのだけれど、無性に煉獄先生を意識してしまい、照れくささから彼を避けてしまっていたのかもしれない。
 この気持ちに名前を付けるなら、やはり恋なのかもしれない。煉獄先生のことを考えると胸がきゅっと切なく痛むし、会いたいと思ってしまう。それなのに、恥ずかしいから顔を凝視することも出来なければ話かけることも出来ない。アラサーになってもそんな現象が起きてしまうのだから、恋というものは凄い。
「なんだよ。お前ら、そんなに仲良かったか?…苗字先生なんて、この前まで煉獄のことなんか苦手だって俺に愚痴ってたじゃねぇか」
 宇髄先生が訝し気な視線を私と煉獄先生の間で彷徨わせながら、疑問を投げかけてくる。いくらなんでもそれを本人の前でいう奴があるか、と、私は汚れてしまった靴で宇髄先生の足を軽く蹴る。
「ちょっ!宇髄先生!余計なこと言わないで…すみません煉獄先生。それはもう先生のことをよく知りもしなかった過去の話でして」
「ああ、分かっている。タクシーの中で苗字先生の口から直接聞いたからな」
 慌てて弁解すれば、煉獄先生は苦笑しながら言う。そんな私達のやり取りを聞きながら、宇髄先生が口許に弧を描く。
「タクシー?お前ら、まさか付き合ってんの?」
「な、何言ってるんですか宇髄先生!違います!…此間…私が飲み潰れた時、お世話になっただけです。…煉獄先生に迷惑かかるから、そんなこと言わないでください」
「…ふーん」
 ニンマリとした笑みを浮かべ顎に手をあてる宇髄先生に上擦った声で言葉を浴びせると、私は「また後ほど」と逃げるようにその場を後にする。だってこれ以上ここには居られない。顔が火照って、このままではきっと自分の気持ちが煉獄先生に筒抜けになってしまうと思ったから。
 もう一つは、煉獄先生の反応を見るのが怖かったから。先日街で生徒達と遭遇した時みたいに、「そんなわけないだろう」と、彼の口から紡がれる私達の関係を否定する言葉を、聞く勇気が出なかったのだ。

  

 キメツ学園に来てから初めて経験する体育祭は、想像していたよりもずっと盛り上がりを見せていた。クラス毎の団結力が凄まじいのと、個々人の能力が高いこともあるのか、競技一つ一つに見応えがあった。
 また、教師が競技に参加出来るのもキメツ学園の体育祭の魅力なのかもしれない。救護要因の私が参加を強いられることはないが、担任を持つ先生達は、生徒に混じって楽しそうに身体を動かしていた。
 そして私は、午前中の最後に行われたリレーも、午後一で行われた騎馬戦も、気づけば煉獄先生を目で追いかけていた。大きな瞳を少年のようにキラキラ輝かせて校庭を駆け回る彼に、私の心臓も肋骨の内側で駆け回るように激しく動いていた。
 もう私は、煉獄先生に恋をしているのだと認めざるを得ないだろう。胸が締め付けられるように苦しくなるのに、それは心地の良い苦しさで、いくらでも耐えられる苦しさなのだ。苦手だと思っていた男性に少し優しく接せられたくらいで恋だのなんだのと言ってしまう私は、やっぱり間抜けだろうか。私はこの想いを胸に抱いて走り続けてしまっても、本当に良いのだろうか。
 特設されたテントの下で生徒達の笑顔が溢れるグラウンドを眺め、脳内で答えの出ない自問を繰り広げながら、手を団扇替わりにして汗がじっとりと滲む顔に生温い風を送る。
 梅雨入りもしていないというのに、日中になると真夏のようなギラギラとした日差しが容赦なく校庭に降り注いだ。脱水症状や体調不良を訴える生徒も多いかもしれないと、大量の経口補水液とアイスノンを準備してみたが、今のところ出番がないまま保健室の冷蔵庫で手持無沙汰の状態になっている。
「苗字先生、暇そうだな。これなら次の競技、見に行けるな」
「宇髄先生…。もう、不謹慎なこと言わないで下さいよ。私が暇なのは病人も怪我人も出てないってことなんですから、寧ろ喜ばしいことですよ」
 背後から気軽な感じで声をかけてきたのは宇髄先生だ。一つ前の競技が終了したばかりなのか、Tシャツの裾で端正な顔に光る大粒の汗を拭っており、長い髪は珍しく頭の後ろで一つに結われていた。
「宇髄先生。私の前ならいいですけど、年頃の子もいるんです。生徒の前で…そんな風にお腹見せないようにしてくださいね。汗を拭くならタオルを使ってください」
「ああ、わりぃ。俺様は派手にいい男だから、目のやり場に困るよな」
「…相変わらずですね。それで、次の競技って」
 いつものように軽口を叩いたあとで、宇髄先生はそうだったと言うようにバランスよく口角を持ち上げた。今日は彼のこんな顔ばかり見ているような気がするが。
「なんだよ、知らねぇの?煉獄と胡蝶が生徒に混じって競技に出るから、一緒に観戦しようぜ。二人三脚」
「胡蝶って…カナエ先生?」
「そ」
 宇髄先生は口角に刻んだ笑みを深めると、無遠慮に私の手を取りテントの下から引きずり出す。こんな所を生徒や他の教師に見られたら何を言われるか分からないと慌てて手を振り払うと、宇髄先生は殊更楽しそうな表情を浮かべ、付いて来いと目で物を言う。
「よし、この辺でいいだろ。ここならこっちからも向こうからも良く見えるだろうしな」
「宇髄先生?」
 宇髄先生の端正な横顔を見上げその視線を追えば、それぞれの足の片方を赤色の鉢巻で結ぶ煉獄先生とカナエ先生の姿が目に飛び込んできた。左胸がずきんと痛んで、悲しい動悸が聞こえ始める。
「あの二人、どう思う?」
「…どう思うって、どういうことですか」
「恋人としてどうかってことだよ。苗字先生もお似合いだと思わねぇ?胡蝶は類を見ない美人だし、煉獄は言わずもがなの完璧な男だろ。ま、俺の次にだけどな」
「…どうしてそんなこと私に聞くんですか。あの二人をくっつけたいんですか?」
 宇髄先生の質問の意図が分からなかった。まさか二人は、私がこの学園に来る前から想い合っているのに、恋人未満の関係が続いているとでもいうのだろうか。でも、カナエ先生からそんな話は聞いたこともない。
 動揺している自分を悟られたくなくて平静を装って言うも、今の私に止めを刺すには十分な言葉が、一、二メートル離れた場所から聞こえてくる。
「やっぱり煉獄先生とカナエ先生って付き合ってるのかな。ショックだけどあの二人ならお似合いだよね」
「うん、美男美女だもんね。私じゃカナエ先生に太刀打ち出来ないよ」
「そういえば煉獄先生が修学旅行の時に言ってた赤い糸の話覚えてる?」
「うん。確か元々は足と足が赤い縄で繋がってたってやつだよね」
「そうそう。なんかまさに今の先生達、そうじゃない。二人三脚だけど、赤い紐で足結ばれてるし」
「確かに!うわぁ、なんか鳥肌たった」
 煉獄先生のクラスの女子生徒なのだろうか。楽しそうな声が鼓膜に流れ込んでくる。今の私には耳を塞ぎたくなるような不協和音にしか聞こえないのだが。
 悲しみが心の深い所から突き上げてくる。唇を噛み締めて、瞼の裏に溜まる温かい水が零れてしまわないよう必死に耐える。馬鹿みたい。いい歳して、こんなことで泣きそうになってしまうなんて。この間まで、煉獄先生のこと苦手で仕方なかったくせに。
「…おい、苗字先生、大丈夫か?」
 先程とは打って変わって、宇髄先生の心配そうな声が頭上から降ってくる。
「だ、大丈夫です…っ」
 必死に言葉を絞り出すも、まったく「大丈夫」ではないことは、宇髄先生にも直ぐに分かってしまったことだろう。私の声は、涙に潤んで震えていた。
「は?泣いてんのか?悪い。泣かせるつもりはなかったんだよ。俺はただ煉獄とあんたの関係が面白いからちょっと揶揄っただけであの二人は別に」
 宇髄先生が慌てた様子で何かを口にしていることは分かったが、もうそれは私の頭に入って来なかった。そのうちに競技の火蓋を切る子気味良いピストルの音が鳴り響いて、大きな声援が校庭中の空気を震わす。視界には肩を並べて走る二人の姿が嫌でも入ってきてしまうが、私は目を逸らせなかった。一瞬だけ煉獄先生がこちらを見たような気がしたが、きっとそれは私の都合の良い思い込みだろう。
 暫くすると、一際大きな歓声が上がった。煉獄先生とカナエ先生が一番乗りでゴールのテープを切ったからだ。ゴールした後、二人三脚の一等賞だけでなく、別の意味でも学園中が二人を祝福しているような気がした。
 見ているのが辛くて苦しくて堪らないのに、私は二人から目が逸らせなかった。すると、足を結ばれているせいか、バランスが取れずによろけるカナエ先生を庇う煉獄先生の姿が目に入ってしまった。
 切り裂くように胸が痛んで仕方がなかった。