episode 09
加速する想い




 どのくらい煉獄先生の胸の中で泣かせてもらったか分からない。頭が徐々に冷静さを取り戻すと、今の状況に途轍もない羞恥が湧きあがってくる。星が瞬く音が聞こえてきそうなほどの夜の住宅街の静けさが、一層緊張を煽った。
「あ、あのっ…取り乱してすみませんでした。落ち着きました。大丈夫です」
 どくどくと内側から身体を叩く心臓の音が聞こえてしまうのではないかと冷や冷やしながら顔を上げる。煉獄先生は小さく息を漏らして私を抱きしめる手を緩めた。
「すまなかった。…こんなに遅い時間に苗字先生を一人で返した俺の責任だな」
「そんなことないです!この時間に帰ることなんてざらにあるし、どう考えても生徒達の安全が優先です」
 煉獄先生が申し訳なさそうに口を開くので、私は全力で否定して言葉を続ける。
「今回はたまたま運が悪かっただけで、煉獄先生が気にすることは何もないです。今後は防犯ブザーを持つようにします。…私を襲う物好きもいるって、身をもって体験したので」
「当たり前だろう。世の中には何を考えているか皆目見当もつかない輩が五万といるのだ」
「…すみません」
「立てそうか?」
 一足早く煉獄先生が立ちあがって、私の目の前に手を差し出してくれる。煉獄先生は狡い。いちいちこちらの心臓を驚かしてくる。先ほどまでの恐怖心が嘘のように、心音が別の意味で煩かった。手が汗と涙でべたついており、こんな状態で煉獄先生の清潔な手を握るのは躊躇われた。しかしここでずっとしゃがみこんでいるわけにもいかない。
おずおずと手を差し出して煉獄先生のそれを掴み、彼が引っ張ってくれるタイミングに合わせて立ち上がろうと足に力を入れると、突如、足首に激痛が走り私は再び地面に崩れ落ちる。
「っ…」
「苗字先生?大丈夫か。まさか、足を」
「す、すみません!さっき転んだ時に捻っちゃったのかな。…今日に限ってこんな高いヒールの靴を履いてたから」
 どこまでも格好がつかない自分に辟易し、痛みに顔を歪めながら右足首をさすっていると、地面に投げ出されていた私の通勤鞄を煉獄先生が拾いあげて自身の肩に掛け、再び腰を落とした。大きくて逞しい背中が私の視界を覆う。
「煉獄先生…?」
「その足で歩くのは難しいだろう。俺の生家がこの近くだ。一旦足の手当をした方がいい」
「えっ、で、でもっ」
 煉獄先生は私を負ぶってやると言ってくれているのだ。さらなる羞恥に顔がじわじわと熱くなる。周囲が暗くて心底助かった。きっと私の火照った顔は真っ赤に染まっているだろうから。
「車をとって来てもいいが、苗字先生をここに置き去りにしていくのは心配だ。追いかけられたという男にも俺は遭遇しなかったから、まだどこかで身を潜めている可能性もある」
「っ…でもあの、私…重いですし」
 この期に及んで逡巡する私に痺れを切らした煉獄先生は、苦笑しながら私の手首を引いて自身の首へ回すように誘導する。そんな風にされてしまえば、私は彼に背負われるほかなかった。瞬時に足が地面から離れる。この齢になって人に負ぶってもらうことがあろうとは。
「ごめんなさい、重いですよね。本当にすみません」
「いや、苗字先生一人どうということはない。落ちないようにしっかり掴まっていてくれよ」
「はい…ご迷惑おかけします」
 私の身体に極力触れないようにしてくれる煉獄先生の気遣いが有難かった。触れられてしまえば、私の煩い心臓の音がさらに激しさを増して、煉獄先生の大きな背中に伝わってしまうだろうから。
「……煉獄先生はやっぱりこの近くにお住まいだったんですね。…ご実家なんですか」
「ああ、そうだ。両親と弟と暮らしている」
「へぇ、いいですね。こんな土地柄の良い場所にご実家があるなんて羨ましいです。…あ、そういえば煉獄先生のご実家は名士だって噂聞いたことありました」
 気恥しさを誤魔化すように会話を始めれば、思いの外話が弾んだ。
「苗字先生の自宅は少し先の駅だろう。この辺りは、よく通るのか?」
「はい。この辺りはランニングコースなんです。気が乗らない時はお散歩したり。ここの公園、緑が多くて癒されるから。…だから、煉獄先生をここでお見掛けした時は驚きました。…この辺りにお住まいなのかなって思ったんですけど、やっぱりそうでしたね」
「俺も、苗字先生を見た時は驚いた」
「ごめんなさい…告白されてるところ…覗き見するつもりはなかったんですよ」
「いや…そういう意味ではない」
「え?」
「さぁ、着いたぞ」
 言葉尻が聞き取れずに思わず聞き返すも、その答えが得られることはなかった。代わりに今度ははきはきとした声が鼓膜に響いて、立派な門戸が視界に飛び込んでくる。武家屋敷のような立派な邸宅に私は茫然としてしまう。
「あ、あのっ!私いきなりお邪魔してしまってもいんでしょうか。ご家族の方、吃驚されるんじゃ」
「いや、もうこの時間だ。きっと両親も弟も床に就いている」
「それ…尚更申し訳ない気がします」
 もごもごと口を動かす私に構うことなく、煉獄先生は門戸を開ける。すると、先日修学旅行で訪れた寺社仏閣の立派な庭園に酷似した庭が、門戸の内側に広がっていた。広大な庭に瞠目する一方で、目の前に広がるこの景色をずっと昔から知っているような、妙な気分になった。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、カラカラと引き戸を開ける音で意識が引き戻された。気づけば私は、煉獄家の立派な玄関の扉を潜っていた。古風な玄関に備え付けられた白熱灯が、ぴかぴかに磨かれた床を照らしている。
「れ、煉獄先生!流石にこの時間にお家にお邪魔するのは気が引けるので。…あの、ここで大丈夫です」
「…そうか。では、ここで少し待っていてくれるか。救急箱を取ってくるから」
 履物を脱いで框を跨ごうとする煉獄先生に訴えれば、ゆっくりと上がり框に降ろされる。大きな邸宅の中は森閑としており、煉獄先生の床を踏む音だけが微かに響いていた。彼の言う通り、ご家族は既に就寝されているのだろう。
「すまない、待たせたな」
 なんだか落ち着かずにソワソワし、玄関のそこら中に視線を走らせていた私の背後で、戻ってきた煉獄先生の声が揺らいだ。後ろを振り返るよりも早く玄関に降りた先生が、私の足元に跪くように玄関に膝を着いて座り込む。
「あ、あのっ…ストッキング履いてるんですけど」
「このままで構わない。包帯をきつめに巻いて固定する。だがあくまでも応急処置だ。明日必ず医者に行ってくれ」
 煉獄先生は私の足首に触れると、慣れた手つきで包帯を巻いてくれる。目を瞠る早さと適切な処置に舌を巻く。仮にもこちらは本職なのだが。
「煉獄先生…凄く慣れてますね。何かスポーツとかやってらっしゃったんですか」
「ああ、父が道場をやっている。俺も昔から剣を仕込まれていて、子供の頃は怪我が絶えなくてな」
「なるほど…それで」
「痛むか?」
「い、いえ!大丈夫です」
 煉獄先生が私の顔を見上げて丁寧に反応を確認しながら、処置を施してくれる。煉獄先生が親切心でやってくれていることは分かっているのに、心が甘く震えて仕方がなかった。捲り上げたシャツから見える煉獄先生の筋肉質な腕や、私の踵を持ち上げる筋張った指にどうしても目がいってしまう。
 赤くなっているであろう顔を誤魔化すように口元を両手で覆いながら、私は雑念を振り払う。しかし意識しないようにと思えば思うほど、頭の中は煉獄先生のことでいっぱいになっていく。ああ、もう。身体が物凄く熱い。
「よし。これで問題ないな。苗字先生、立ち上がれるか」
 あっという間に手当を終えた煉獄先生が、当たり前のように私の手を取り立たせてくれる。触れた部分が熱くて溶けてしまいそうだった。
「…凄い、さっきの痛みが嘘みたい。…煉獄先生って何でも出来ちゃうんですね。本職としては嫉妬しちゃうな」
 顔に集まる熱を逃がしたくてふざけた口調で言えば、煉獄先生は少し眉を下げて苦笑する。
「苗字先生に言われてしまうと恐れ多いが、これで部屋の前までは歩けそうだな」
「え?」
「車で家まで送っていく。流石にその足でここから先生の家まで歩くのはきついだろう」
「で、でもご迷惑じゃ」
「そう見えるか?」
「っ…」
 煉獄先生は囁くように言うと口元を柔らかく綻ばして、車を回してくると言い残して玄関を後にした。
 力が抜けたように再び框に腰を落とした私は、両掌で頬を挟んで長い溜息を吐く。あんな風に言うのは反則だ。煉獄先生への想いは間違いなく加速し始めている。こうして世話を焼いてくれるのは同僚だからだ。煉獄先生が優しい人であることは身をもって知ったわけで、勘違いなどしてはいけない、と自分に呪文のように言い聞かす。
しかし一方で、もし煉獄先生の言う「運命の人」が自分だったら、なんて烏滸がましいことを、少しも考えずにいることは難しかった。