きっかけはここに


 明るく冴えた秋空の下、私は白色の彼岸花を手に夫が眠る鬼殺隊の墓地に向かっていた。今日は二度目の夫の月命日だった。
 何をするでもなく、このふた月を過ごした。勿論、生活するための最低限の家事はする。しかしもうそれは夫のためではなく、夫が留守の家を守るわけでもない、ただの作業と化していた。自分の存在意義が、私は時々分からなくなってしまうのだ。
 私を気にかけて下さっている煉獄様には、当然こんな話は聞かせられないな、と自嘲する。彼は、故人のために残された者は精一杯生きるべきだと言っていた。今の私は、胸を張って生きているとは到底言えそうもなかった。
「こんにちはー!」
 憂鬱な息を吐いた私の耳に、胸がすくような明るい声が届く。私にかけられている言葉だろうか?と頭の上に疑問符を浮かべて肩越しに振り返れば、以前街で咄嗟に守った幼子とその母親がこちらに駆け寄ってくる途中だった。
 足を止め、くるりと身体の向きを変えて二人を待つ。数秒もしないうちに幼子を抱えた母親が息を切らせて私の元に到着した。
「はあ…良かった。助けていただいたのに、大したお礼も出来ないで。どこかでお会い出来ないだろうかと思っていたのです」
 胸に手をあて乱れた呼吸を整えながら、母親は目元に皺を刻んで弾けるように笑った。彼女の胸にすっぽりと収まっている幼子は、今日も可愛らしい笑みを浮かべて、「きゃっきゃっ」と楽し気に声をあげている。
「いえ、お礼なんて。私も結局…助けられてしまったようなものでしたので」
「とんでもないです。きっと貴方様がいてくださらなければ、この子は助からなかったと思います。どうお礼をしていいのか」
 母親が慈しむように幼子を見つめて、私に深々と頭を下げる。「頭をあげてください」と懇願する私にようやく顔の位置を戻した母親が、細い声で語り始める。
「実は、夫と私にはもう長いこと子がなかったのでございます。この子は、もう二人で生きていこうと決めた時に授かった子でした。神様からの贈りものだと確信しました。ですから、この子の命を救ってくれた貴方様は、神様が遣わして下さった天使だと思いました」
「…天使、私が。そ、そんな、大袈裟な」
「大袈裟ではないです。少なくとも私達家族にとってはそうです。本当にありがとうございました。貴方様のようなお優しい方に出会うことが出来た私達は幸せ者です」
 ここまで褒めちぎられたことは、生まれて初めてのことだった。身に余る言葉は、私の心をじんわりと温かくしてくれて、同時に、自分でも人の役に立てるのだという微かな希望を芽生えさせてくれた。
「ありがとうございます」
 今度は、素直な気持ちが言葉になった。
その後も一生分かと思うほど沢山の礼を述べ、最後に私の手をぎゅっと握って去って行く母と子を見送った。二人の姿が角を曲がって見えなくなると、私は再び夫が眠る地へと足を向ける。その足取りは、羽毛のように軽かった。

 亡くなった鬼殺隊士達が眠る墓地は、今日も水を打ったように静かだった。以前夫から、鬼殺隊士は家族を鬼に殺された身の上の者が殆どだと聞いたことがあった。故に隊士達の遺骨はこの地に埋葬されるが、身寄りのない彼らの元を訪れる人々も少ない、ということなのだろう。人々のために戦って散っていった過去の鬼殺隊士達を思うと、なんだか切ない気持ちになった。
 先月供えた彼岸花は既に枯れ、地面に花びらを落としていた。花立からそれを抜き取って、
代わりに、持参した白色の彼岸花を差す。桶に汲んできた水と麻布で丁寧に墓碑を洗った後は、古新聞に灯した火で線香を燃やして香炉に備える。
「あなた、ご存知でした?白の彼岸花は『また会う日を楽しみに』という意味があるのだそうですよ。…あなたの上官であった煉獄様が教えてくださいました。彼はあなたが生前話していたように、本当にご立派な方ですね」
 数分の黙祷を終え顔を上げた私は、目の前で眠る夫に語りかける。爽やかな秋風に彼岸花の花びらが揺れ、まるで夫が「そうだろう」と笑って答えてくれているようだった。
 その時、背後で地面の砂利を踏む音が聞こえた。先月もこんなことがあったな、と私は勝手に既視感めいたものを感じて、姿勢をそのままに顔だけで振り返る。すると、予想通りと言うべきか、煉獄様の姿がそこにあった。
先月と違うのは、彼の手に握られていた彼岸花が白色だったことと、雄々しい瞳が翳っていたことだ。
「煉獄様。今月も来て下さったのですね。お忙しいのに夫のために申し訳ございません」
「名前さんにここで会うのは二度目だな。…俺がしたくてしていることだ」
 低い声で呟くように言って、煉獄様は私の隣に両膝をついた。その声が微かに震えているような気がして、その理由を聞いてもいいものかと考える。人には触れられたくないことの一つや二つあって当然だ。しかし、いつもは堂々とした立ち居振る舞いも、精悍な顔つきも、今日はなんだか心細そうに見えて、私は少し不安になった。
 何かありましたか、の一言を口に出すか出すまいか逡巡しているうちに、煉獄様は長い睫毛を伏せた。そこに涙の玉が光っているように見えたのは、私の気のせいではないはずだ。その理由を聞くことが出来ない私は、煉獄様に倣って今一度掌を合わせた。
 静謐な時間が、暫く私達の間に流れていた。そして唐突に、その言葉は紡がれた。
「…また、仲間を守ることが出来なかった。一命はとりとめたが、意識が戻る見込みはないそうだ。所謂、脳死だな」
 私ははっとして、隣の煉獄様を見る。端正な横顔が辛そうに歪んでいた。
「煉獄様…」
「…柱という階級にありながら、本当に情けないことだ。…貴方の夫君を失ってから、もう誰も死なせないと心に誓った。しかし俺は」
 今度ははっきりと分かるくらい、煉獄様の声が震えていた。涙を声にした悲痛な叫びにも聞こえた。そして彼は豆だらけの手で、ぎゅっと自身の鼻根を摘まんだ。涙が零れてしまわないように必死に我慢しているのであろう。
 煉獄様は、いつもこうして心を痛めていたのだろう。他人にそんな素振りを見せることは微塵もないが、彼は心の中でいつも寂しく泣いていたのかもしれない。それなのに、私は彼に何て酷いことを言ってしまったのか。私の言葉が、彼にどれほどの深い悲しみを負わせたか、今初めて理解する。私が申し訳ないと思う気持ちの何倍、何十倍、この優しい青年を苦しめてしまった。
 それなのに煉獄様は、何も言わずに私の気持ちを受け止めてくれた。優しく気遣ってくれた。それを思うと、私は目の前の彼に愛しさを感じずにはいられなかった。それは、異性に対する愛とは少し違うのかもしれないが、気づけば私は大きな煉獄様の身体をぎゅっと抱きしめていた。
「情けなくなんかないです!情けなくない…っ…だからそんなに自分を責めないでください」
「…名前さん…」
 腕の中で、煉獄様が呆気に取られたような声を出したのが分かったが、私は構わず抱きしめる手に力を込めて、片手で彼の金糸を撫でた。まるで母親が子供をあやしているようにも見えて、煉獄様もいい気分はしないかもしれない。それでも今この瞬間の私は、こうせずにはいられなかった。
 彼が他人に弱い部分を見せることはきっと勇気がいることだ。それがどうして私だったのか、彼にとっては部下であり私にとっては夫だった人を失った同士だからなのか、その理由は分からない。ただ私は素直に、煉獄様の思いを受け止めたかった。煉獄様が私に、そうしてくれたように。
「…ありがとう」
 煉獄様の安堵したようなその一言を聞きながら、私はこの日、ある決意を固めた。