残りの一つはまたいつか

 竿に干した洗濯物を取り込みながら、私は秋空を仰ぐ。風は強い一日だったが、日が傾いて橙色に染まった空をいわし雲がゆっくりと流れていた。
 視界を覆う夕焼けが、煉獄様の金糸を想起させて、怪我は大丈夫だっただろうかと不安になる。同時に、あの現場で何も出来なかった自分が心底不甲斐なかった。煉獄様にはどのみち不要だったかもしれないが、少しでも医学の知識を持ち合わせていれば、また違った対応が出来たかもしれないのに。
 孤独や淋しさ、惨めさや情けなさがぐるぐると胸中で渦巻く複雑な気持ちだった。胸に溜まった空気を全て吐き出すように盛大な溜息を吐き、竿にかかった最後の一つを取り込み踵を返す。
すると、突然視界を厚い胸板が覆った。慌てて顔を少し上げると、私の行く手を阻むように、彼はそこに立っていた。
「れ…んごく様…」
「驚かせてすまない。玄関で何度か名前を呼んだが反応がなかったものだから、勝手に庭に上がらせてもらった」
「それは…構いませんけど」
 突然の煉獄様の訪問に、「どうしてまた彼がここに?」という単純な疑問が頭に浮かぶ。しかしそれは一瞬のことで、私ははっとして煉獄様のこめかみあたりに視線を走らす。
「安心してくれ。予想通り、怪我は大したことはない。傷口が広がってはいけないと胡蝶に三針縫われてしまったが、それ以外は何の問題もないそうだ」
 私の視線の意を汲み取って、煉獄様は穏やかな口調で言い、ほら、と少し腰を屈めて髪をかきあげ、縫合部を披露してくれた。少しだけ赤くなっているようだが、確かに傷口は綺麗に縫われて塞がっており、安堵が滲む。
「本当だ…良かった」
 ひとり言のように呟いた私の右手は、無意識に縫合部に伸びていた。掌にふわふわの金糸が触れ、私はまるで子供の頭をそうするように、傷口をゆっくり撫でた。
 呆気に取られたような煉獄様の大きな瞳が私を見つめていた。はっと我に返って、慌てて手を引っ込める。何をしているのだろう、夫の上官であった人にこんな失礼なこと。
「も、申し訳ございません。なんだか、つい無意識に」
「いや…別に謝ることではない」
 少しだけ気まずそうに私から視線を逸らした煉獄様の耳たぶがほんのりと赤くなっており、それに気が付いてしまった私の顔にも急速に熱が集まる。
「…少しだけ時間を貰えるだろうか?見せたいものがある」
 数秒の気まずい沈黙が私達の間を流れたが、その空気を塗り替えるように煉獄様がいつもの調子で言った。唐突な彼の発言に言葉の意味を推し測るも、特に断る理由も見つからない。小さく顎を引いた私に、煉獄様は「よし」と頷いて、「陽が暮れる前に急ごう」と続けた。

私は、煉獄様の後ろについて、赤色、黄色、橙色に色づき始めた木々が周囲を覆う、森の小道のような場所を歩いていた。少し急な勾配を登っていると、潮の香りが鼻先を擽る。そういえばこの辺りは海が近かったかもしれない。
「名前さん、大丈夫か?」
 煉獄様が時々振り向いては、私を気遣うように言葉をかけてくれる。その優しさに触れるたびに、彼に心無い言葉を浴びせてしまった自分の行動が悔やまれ胸が痛んだ。しかし過ぎた時は戻らない。自分が犯した過ちだ。贖罪として、今後も私はこの胸の痛みを受け入れていかねばならない。
 上り坂が緩やかになるにつれ、海の香りはどんどん強くなる。樹木が少なくなって視界が開けてくる。
「もうすぐだ」
「もうすぐ?」
 煉獄様の言葉に問い返した次の瞬間、視界が二色に染まった。一つは空の橙色とそれを反射した海の橙色。もう一つは、眼下に一面に咲き乱れる白。
「これって…」
 感嘆の溜息と一緒に言葉が漏れた。砂浜を埋め尽くすほどの花盛りの彼岸花は、見知った血のような赤色ではなく、思わず目を眇めてしまうほどの眩しい白だった。
 夕焼け空に向かって伸びた長い蕊が、強い風に吹かれながら揺れており、別世界に来たかと思うほどの幻想的な風景だった。
「白い彼岸花があることは、世間でもあまり知られていないか」
 絶景に言葉を失っていた私に、煉獄様がしみじみと言った。私は視線をそのままにゆっくり頷いて、言葉を続ける。
「…はい、私は存知あげなかったです」
「幼少の頃、よく母に連れてきてもらった場所なのだ。…彼岸花は、どうしても死を想像してしまうだろう。『死人花』『毒花』の異名もある」
「ええ、そうですね。どこか、怖い印象を受けてしまう方も多いかもしれません」
「しかし実際はそうでないと、亡くなった母が言っていた」
「お母様が?」
 海が近いせいか勢いを増した潮風に靡く髪を押さえつけて、ちらりと隣の煉獄様を見る。夕日に照らされた煉獄様の横顔。改めて見るその顔は、とても端正に整っていた。凛々しい眉、二重瞼の下の大きな瞳、長い睫毛、すうっと通った鼻筋。大人びて見えるけれども彼がまだ弱冠であることを思い出させるきめ細かい肌。
――煉獄様は美丈夫なんだよなぁ
 夫の言葉がふと脳裏を過って得心する。
「特に白い彼岸花には二つの花言葉があるのだそうだ。そのうちの一つは『また会う日を楽しみに』という意味がある。…俺の母もそうだが、鬼殺隊の多くの仲間が亡くなった。それはとても辛く悲しいことだが、人というものはいつか必ず死ぬ。遅いか早いか、それだけだ」
 煉獄様は一語一句大切そうに言葉を紡いだ。私は何も言わずに彼の言葉に耳を傾ける。
「残された者は、故人の分まで精一杯生きなければならないと、俺は思う。いつか黄泉の国で再会した時に語る自分の生き様が、恥ずべきものでないように」
 煉獄様の視線が前方から私に移る。その大きな瞳は、一つの曇りもなく澄みきっていた。
「『また会う日を楽しみに』…か」
「ああ。…別れを悲しむ花ではなく、再会を楽しみにする花。俺の母はそう教えてくれた」
 煉獄様は目を細めて言い、彼の言葉に少しだけ目頭が熱くなった。そして、目を潤ます私の胸の辺りを、長い指でとんと優しく叩いた。
「煉獄様…」
「勿論名前さんの夫君は、ここでずっと貴方を見守っている。悲しみを一切取り払ってしまうことは、当然出来ない。しかしそう考えれば、少しだけ気持ちが楽にならないだろうか」
 頬を一筋の涙が伝った。煉獄様は、落ち込んでいる私を元気づけようとここに連れてきてくれたのだろう。お母様との思い出が詰まった大切なこの場所に。
 彼の優しさに涙が出た。夫を守れなかったという責任感からではなく、彼の純粋な優しさであることが、今はすぐに分かった。
「むぅ、泣かないでくれ。…泣かせるつもりで連れてきたわけではないのだが」
 煉獄様が困ったように眉を下げて、私の胸に置いていた指で次々と溢れ出てくる涙を拭ってくれた。
「違うんです…ごめんなさい…っ」
 震える声で言って頭を左右に振る。この涙は、夫の死への悲しみに暮れる涙ではない。煉獄様の優しさや、強さや、生き様に、心が震えて流れた涙。そして、そんな彼に一時でも辛くあたってしまった自分の弱さへの涙。
 それをうまく口には出来なかったけれど、水浸しになった視界に映る優しそうな笑みを湛えた煉獄様の顔は、私の気持ちを理解してくれているようだった。
 私達は、燃えるような陽が水平線の向こう側に沈むまで、果てしなく広い海と白い彼岸花を、静かにじっと見つめていた。
 夫を失ったことで、ぽっかりと空いてしまった心の穴に、ぽっと火が灯ったような気持ちになった。それは、煉獄様の優しさに触れたからなのだろうか。いや、少し違うような気がする。