氷解する食欲

『名前。君がこれを読んでいるということは、私はもうこの世にはいないということか。短い間だったが、君と出会って私は幸福というものを知ったように思う。本当にありがとう。名前は日本一、否世界一の妻だ。苦労や厄介ばかりかけてしまい申し訳なかった。
 鬼殺隊士であれば、当然ながら明日の命の保証はない。君もそれは理解してくれていたと思う。しかしそれを受け入れて鬼と戦い続けることはとても勇気がいることだ。鬼殺隊は誰もが勇気と信念を持って戦っている。名前であれば分かってくれると信じている。
 女性である名前にこれだけは言っておきたい。私は、名前の幸福を願う以外ない。若い身空で未亡人として果てることは、決して幸福とは言えない。どうか、佳き同伴者を得て幸せになって欲しい。私は名前が幸せならそれでいい。君は過去に生きるのではない。勇気を持って今のこの現実を生きてくれ。名前が健やかに、幸せに暮らせることを祈っている。さようなら』
 私は呆然として、暫く手中の遺書を眺めていた。数分して思い出したように涙が溢れ頬を伝う。夫の遺書からは紙一枚では伝えきれない、自分が鬼から人々を守るという強い意志が溢れ出て来ていた。
 どうして夫が死ななければならなかったのか。その思いは拭いきれない。だがこんな遺書を残されてしまえば、子供みたいに泣き喚いて、何もかもを人のせいにして傷つけて均衡を保っていた自分を心底叱りつけたくなった。
 こんな私を見たら、きっと天国の夫は悲しんでしまうだろう。夫は世のため人のため命を懸けて戦った。その誇り高き最期を受け止めて、ご苦労様でしたと言ってあげることが妻としての役目ではないか。
「…っ…ごめんなさい…あなた…。ふっ…今日だけは…許してください」
 涙を声にする。二度と戻って来ることのない夫に懇願するように。
 くよくよして泣くのは、今日限りにすると誓います。だから今日はあなたを偲んで、思う存分泣かせてください。これからの人生で、辛い時や悲しい時、あなたを思い出して泣いてしまうことはあるかもしれないけれど、それくらいは大目にみてください。
 遺書を握りしめたまま夜通し泣き明かし、朝を迎えた。まずはしっかりと体力を戻して夫を弔い、ゆっくりとこれからのことを考えていこう。そんな決意を胸に、閨の姿見の前に立つ。両の瞳を真っ赤に泣き腫らした自分がまるで鬼のように酷い顔をしており、思わず笑ってしまった。

 夫が亡くなってから、早いもので一月が過ぎた。今日は月命日。私は、彼が眠る墓前に膝をつき黙祷した後顔を上げる。墓石に夫の優しい笑顔を見た気がした。目だけ動かして周囲を見れば、鬼殺隊士として最期を迎えた者たちの立派な墓がいくつも立てられていた。
 夫の遺骨は苗字家の墓ではなく、他の鬼殺隊士達が眠るこの地に埋葬してもらうことにした。
 夏が終わり季節は秋へと移り変わっていた。涼風が、花立に供えた彼岸花と、香炉にあげた線香の煙を揺らしていく。
「……苗字殿」
 心地よい低音が耳元で揺らいだ。その声には聞き覚えがあり、ゆっくりと振り向いた先に立つ煉獄様に私は小さく頭を下げた。煉獄様の逞しい手には、真っ赤な彼岸花の花束が抱えられており、彼の明るい毛髪の毛先に似てなんだか眩しかった。
 煉獄様は立ち上がろうとする私を手で制して、墓石の前で膝を折る。既に彼岸花が供えられていた花立に持参したそれを挿すと、合掌し大きな目を閉じた。
 その横顔は精悍でありながら、想像以上に若いことにはっとする。夫や私よりも若くして鬼殺隊を率いている煉獄様に、私はなんという心無い言葉を浴びせてしまったのだろうと、慚愧と自己嫌悪が込み上げてきた。
「同じ花を、持ってきてしまったな」
「お彼岸の時期の花ですからね。…墓前がとても華やかになりました」
「…もう一月か」
 ゆっくりと開眼した煉獄様が、短い息を吐いた後に呟く。
 夫が亡くなってからの一か月、煉獄様はずっと私を気にかけてくれていた。夫からも聞いていたが柱の階級につく隊士は多忙を極めている。当然柱である彼が私に構う暇などなく、煉獄様に会うのはあの日――私が彼の前で戻してしまった日だ――以来だが、隠の方を通して細やかな配慮をしてくださっていることは直ぐに分かった。
夫の訃報を受けた時も、玄関で倒れた私を受け止めてくれたのは煉獄様だと、後に隠の方から聞かされた。
 葬儀の際に匿名で多額のお香典を寄せてくれたのも恐らく彼だったのだと、こうして月命日にわざわざ夫の墓参りに来る姿を見て、私は確信する。
「煉獄様。あの日の、主人が亡くなった後の数々のご無礼を謝罪させて下さい」
 地面に膝をついたまま煉獄様へ身体を向け、私は言葉を続けた。
「夫の死で動揺していたとはいえ、本当に煉獄様に酷いことを言ってしまったと後悔しております。…夫が残した遺書を読み、鬼殺隊士の方々は生半可な気持ちで剣を握っているのではないのだと、気づかされました。ましてや柱であられる煉獄様は、私のような凡夫には到底考えも及ばない様々な思いを抱えられていることと存じます。それを、感情的になって一方的に悪罵して…本当に自分が情けないです。本当に申し訳ございませんでした」
「いや、貴方が謝る必要などない。本当に俺の不徳の致す所――」
「決してそんなことはございません」
 煉獄様の言葉を自身のそれで遮って、私は左右にゆっくり頭を振る。
「…鬼殺隊士の妻としての覚悟も、足りなかったのだと思います。私がした行為は、鬼殺隊士として誇りを持って最期まで戦い抜いた夫を侮辱するものです。…夫の遺書を読んで、ようやくそれに気づかされました」
「…苗字殿…」
「煉獄様、生前は夫が本当にお世話になりました。どうぞ気が向いたら、またこうして夫の元に足を運んでいただけると幸いでございます」
 神妙な顔を崩さない煉獄様に、私は深く頭を下げた。しばらくして、ふっ、と彼が息を吐くように笑う気配がした。
「女性は強いな…。貴方を見ていると、俺の母を思い出す。…母も強く優しい人だった」
 耳に響いたその言葉はどこか淋し気で、煉獄様の母親は既に故人だと夫が話していたことを思い出す。
 こんな立派な青年の母親だ。さぞ出来た人なのだろう。彼に母親を想起させるなど、身に余る言葉だと気恥しくなりながらも、顔を上げた私は言葉に詰まる。数分の沈黙が私達の間に立ち込めた。
 暫くして、隣で煉獄様が立ち上がる気配がしたので、私もそれに倣う。
「…大分日が短くなった。間もなく日も暮れる。苗字殿、自宅まで送っていこう」
「とんでもございません。お忙しい煉獄様のお手を煩わせる訳にはいきません。…それに、そんなに責任を感じていただかなくても、私はもう大丈夫です」
「そういう訳ではない。…女性の夜の一人歩きは危険だ。鬼とは違った危険な輩もいる」
 少しだけむきになって反論する煉獄様が齢相応の青年に見えてなんだか可愛らしかった。
「分かりました。では…お手数をおかけしますが宜しくお願いします。…その代わり、私からも一つお願いがあります」
「お願い?俺で叶えられることだろうか」
「ええ。実は…苗字と呼ばれるのは少し抵抗があって…。私は名前という名前があります。出来れば、名前で呼んでいただけますか」
「…それは構わないが、しかし――」
「正直に言ってしまうと、苗字と呼ばれるたびにまだ夫のことを思い出してしまって…辛いのです。情けないですよね」
「……情けないものか。自分の大切な人を失ったのだ、当然の反応だ。恥じる必要などない。俺の方こそ、気づかず申し訳なかった」
 自嘲気味に胸の内を明かした私に、煉獄様は眉根を寄せて呟いた。その言葉に救われる思いがして、無意識に口元が緩んだ。
「ふふ…ありがとうございます。では、宜しくお願いします」
 小さく笑みを零した私に、煉獄様も安堵したように険しい表情を緩め、「うむ!」と威勢のいい声と共に頷いた。
 刹那、ぐぅっと、墓地特有の物寂しい空気を切り裂くように腹の虫が鳴く。大きなその音は自分ではなく、目の前の青年のものだった。少しして、恥ずかしそうに眉間を掻く姿に、私は堪らず吹き出した。
「むぅ、…すまない。不甲斐ない」
「元気な証拠です。まだお若いんですから。…よければうちで夕餉を召し上がっていってください。…大したものは準備出来ないですけど。…これから任務に出向かれるのですか?」
「いや、任務ではないが」
「じゃあ、是非。…先日の無礼のせめてものお詫びの気持ちです」
 そんな風に言われてしまえば煉獄様も私の申し出を断ることは忍びないようで、ゆっくり首を縦に振ってくれた。
「…俺はよく食べるが…本当にいいのだろうか?」
 墓の前で手を合わせる時のように神妙な面持ちで言う彼に、私はまた笑ってしまった。