めでたしのその後でA


 蕎麦屋を出ると、まだ午後三時を回ったばかりだというのに、太陽は随分と西へ傾いていた。柔らかな春の風に、うっすらと夕方の気配が混じり始めている。
「この先に、おはぎが美味しい店があるのだ。名前さん、まだ食べられそうか?」
「はい。甘いものは別腹ですから」
 先程の邪念を水に流すような満面の笑みで、私はゆっくりと首肯し腹のあたりをさすりながら言う。すると杏寿郎さんはほっとしたような息を吐き、私の手に絡めていた自身のそれに力を込め、おはぎが有名だという甘味処まで先導してくれた。
 おやつ時の甘味処は、若い女性やアベックで賑わっていた。餡子の甘い香りが店の周辺に漂い、別腹という言葉通り、満腹だった胃に隙間が出来たように、食指が動く。
 注文を済ませ、赤い野点傘の下の縁台に、杏寿郎さんと隣り合わせで腰掛け出来上がりを待っていると、丁度甘味処から出て来た、見知った後ろ姿が視界に飛び込んでくる。背中の羽織に施された「殺」の刺繍は、いやでも人の目に留まってしまうだろう。
「不死川様!」
 私は、考えるよりも早く彼の名を呼んでいた。肩をびくりと震わせ立ち止まった不死川様は、ゆっくりとこちらを振り返り、眉間に皺を刻んで罰が悪そうな表情を浮かべた。「どうして話しかけた?」とその顔が語っている。
「不死川か!こんなところで会うとは奇遇だな。そういえば、君の好物はおはぎだったか」
 しかし隣の杏寿郎さんが、私の何倍も大きな声を弾ませるものだから、不死川様は諦めたような深い溜息を吐き、ゆっくりと私達の方に戻ってくる。
「こんなところで嫁と逢引か、煉獄。余裕だなァ、前線を引退した奴は」
 口角を微かに持ち上げながら言うと、不死川様はよっこらせと私達の向かいにあった縁台に腰を下ろした。
「お、お久しぶりです。不死川様」
「ああ、あの日以来だな」
 自分から不死川様を呼び止めておきながら、彼の言葉に大きく心臓が跳ねる。彼の言う通り、確かに私と不死川様が会うのは、「あの日」以来だ。「あの日」というのは、まだ杏寿郎さんの記憶が戻る前、不死川様に玄関で押し倒されて唇を奪われた日だ。
 恥ずかしい気持ちと一緒に、不可抗力とはいえ、杏寿郎さんにはその事実を伝えていなかったため、後ろめたい気持ちが思い出したようにじわじわと湧き上がってきて、私は思わず不死川様からぱっと顔を逸らしてしまう。しかし彼はあまり気に留める様子もなく続けた。
「そういや、胡蝶から聞いたぜ。ガキが生まれたんだってな。よかったじゃねェか」
「うむ、ありがとう。余計な世話かもしれんが、不死川も良き伴侶に出会えるといいな」
「本当に余計な世話だなァ」
 嬉しそうな笑みを溢して即答した杏寿郎さんに、不死川様が苦笑する。亡くなった夫が、柱は皆とっつきにくいと言っていたが、この二人の柔らかい雰囲気を見ていると、とてもそうは思えなかった。同じ階級で互いの背中を預ける者同士、信頼し合っていたからかもしれないが。
「それにしても、煉獄の宏量っぷりには感心すんなァ」
 話が一段落し、そろそろ任務に赴くと立ち上がった不死川様が、私と杏寿郎さんを交互に見てから、決まりが悪そうに言った。言葉の意味を推し測るも答えに辿り着けなかった私達は、口を揃えてどういうことだと聞き返す。すると不死川様は、事も無げに続けた。
「自分の嫁が他の男に横恋慕されたら、いい気はしねェだろォ」
 杏寿郎様が、ぴくりと凛々しい眉を動かす。大きくて柔和な瞳が、途端に鋭くなった。
「…不死川、それはどういうことだ」
 明らかに不機嫌さを滲ませ低くなった声に、不死川様は眉を顰める。そして、確認するように私に問うてきた。
「おい、名前。お前、煉獄に言ってねェのか。俺が名前を好きだって言って押し倒した――」
「ちょっ、あのっ、不死川様っ」
 慌てて立ち上がり、両手で不死川様の口を覆うも、一度口から出た言葉をなかったことには出来ない。背中に、痛いくらいの視線が突き刺さっているのが分かる。そしてその直後、地を這うように低く、しかしどこか苦しそうな杏寿郎さんの声が揺らぐ。
「…本当なのか、名前さん」
「あ、あの、杏寿郎さん。違うんです。私、その」
「やっぱりお前も人の子だな」
 全身に脂汗を滲ませ狼狽する私と、眉間に刻んだ皺をさらに深めた杏寿郎様の間に割って入った不死川様が、取り成すような口調で言う。
「名前を責めんなよ、煉獄。全部俺がしたことだ。ま、煉獄に忘れられても自分は一生お前を想って生きていくって、全力で拒否されたけどなァ」
 な、と確認するようこちらに視線を向けてくる不死川様に、大袈裟に首肯する。杏寿郎さんの周りには、いつになく剣呑な空気が漂っているような気がした。
「お前の記憶がない時に、抜け駆けして悪かった。気が済むまで俺を殴ってくれて構わねェが」
「いや…鬼殺隊士同士での殴り合いはご法度だ」
 両手を広げる不死川様に、杏寿郎さんは淡々とした口調で返す。
「はっ、相変わらずクソ真面目だなァ」
 そんな彼の様子に、不死川様が呆れたように肩を竦めた、その時だった。
 薄い皮膚一枚隔てただけの、硬い骨と骨がぶつかる鈍い音が、ぴりついた空気を震わせた。それは、杏寿郎さんが不死川様の頬を殴った音だった。突如襲った衝撃に、地面に倒れ込み目を見開く不死川様を見下ろしながら、杏寿郎さんは重々しい口調で言った。
「だからこれは…君の友人としてだ。金輪際、名前さんに手を出すようなことはしないで欲しい」
「ふっ、そうだなァ。俺も、片目とはいえお前とやり合うのは御免だぜェ」
 ぷっと、口に溜まった血を地面に吐き出した不死川様は、口角をニンマリと持ち上げ、ゆっくりと立ち上がる。そして、私の頭を大きな手で撫でると「幸せになれよ」と言葉を残し、一瞬のうちに姿を消してしまった。
 その場に残された私は、甘味処の店主と、好奇の視線を向けてくる客達に「なんでもないんです。ごめんなさい」とぺこぺこと頭を下げる。杏寿郎さんも、店主に色を正して一礼したものの、少し大目にお代を縁台に置くと、いつもよりずっと強引に私の手を引いた。
 やはり彼を怒らせてしまったと、焦燥感に追い詰められる。杏寿郎さんはいい思いはしないだろうと、不死川様との一件は伏せていたが、結果としてあまり良くない形で露呈してしまった。これは私の不徳の致すところだ。
「杏寿郎さん、ごめんね、ごめんなさい。私が、ちゃんと言わなかったから」
 縋るような声で、大きな背中に許しを請う。すると彼はぴたりと足を止め、くるりと私に向き直った。杏寿郎さんは、色々な感情が綯い交ぜになったような表情を浮かべていた。
「いや…俺の方こそ…大人気ない態度をとってすまない。俺が名前さんを忘れてしまっていたことが一番悪いと分かっているが」
「違います!杏寿郎さんが悪い訳がありません。悪いのは、私です。ちゃんと、杏寿郎さんに言わなかったから。不死川様とのことを正直に言ったら…貴方に嫌われてしまうような気がして、怖かったんです」
「俺が名前さんを嫌うはずなどないだろう」
 喉から絞り出したような声で言うと、杏寿郎さんは、両手で私の頬を挟んで上を向かせる。そしてそのまま言葉を続けた。
「…だが、やはり妬けてしまう。…不死川は、貴方の体に触れたのか?この唇を…吸ったのか?」
 杏寿郎さんの太い親指が、私の下唇をゆっくりと撫でる。図星を突かれ思わず言葉を噤むと、それが肯定だと敏感に察知した彼は、噛みつくように私の唇を塞いだ。西の空が薄い茜色に染まり始め人も少なくなる時間帯ではあるが、それでもここは街の真中だ。しかし杏寿郎さんは、僅かな隙間から躊躇なく舌をねじ込んで、私のそれを絡めては吸い、吸っては絡めを繰り返す。
 突き刺さるような人の視線を感じ、恥ずかしくて堪らないのに、溢れる唾液を交換するような口付けに、たちまち惑溺してしまう。
「んっぅ、きょう、じゅろ…さ…、ここ、っ…外ですから…んっ…見られちゃうっ…ん」
 鼻にかかった息に混ぜ、唇の角度が変えられる間合いで必死に言葉を紡ぐ。すると獰猛な色を孕んだ視線で射抜くように私を見つめていた杏寿郎さんが、名残惜しそうに下唇を吸って、艶気を帯びた声で言う。
「外でなければ、構わないのか?」
 まるで麻薬のようなその声に、私は懇願するよう首を縦に振る。背伸びをして彼の首に手を回し、自分の持つありったけの色気を込めて囁いた。
「んっ…さっきのお蕎麦屋さん、連れて行って。私も、杏寿郎さんに愛して欲しい」