黄泉からの便り

 あれから私は三日間を胡蝶様の診療所で過ごし、自宅に帰った。その間殆ど食事も喉を通らず、胡蝶様や診療所で働く隊員の方に心配をかけてしまった。
「もう暫く蝶屋敷で過ごしてはどうか」という胡蝶様の有難い申し出は丁重にお断りした。診療所で、息つく間もないほど忙しそうな胡蝶様や隊員の方の姿を目にしてしまえば、いつまでも迷惑をかけるわけにはいかなかった。
 理由はそれだけではない。診療所に運ばれてくる負傷した隊士の中には、救命措置虚しく命を落としてしまう者もいた。そんな光景を見るのが耐えられなかったのだ。
 久々の自宅は寒々としてどこか寂し気だった。大黒柱を失って、喪に服しているよう、だ。 
 有難いことに、留守中の自宅の手入れや葬儀の手配は、鬼殺隊で行ってくれた。突然家族や大切な人を亡くし希望を失った人々への、組織なりの配慮なのだろう。
 また、夫が亡くなっても、死ぬまで経済的な支援も受けられると聞いた。それだけ危険な組織に夫が身を置いていたことを再認識し、当然の権利だと開き直りたくなるも、死んだ夫は帰ってこないのだ。正直な所、今の私には身の回りの世話も経済的な支援もどうでも良かった。
 気怠い身体を引きずって、やっとの思いで我が家の玄関に辿り着いた私は、框に腰掛け重たい息を吐く。この家に夫が帰ってくることはないのだと思うと、気の遠くなるような孤独感に包まれて涙が突き走る。この数日で、身体が干上がりそうなほど涙を流したが、一向に枯れる気配はなかった。
 胡蝶様のお屋敷では誰かしらが傍にいてくれたものだから、いざこうして一人になってみると淋しさと孤独が骨の髄まで喰い込んでくるようだった。
 暫く玄関でさめざめと泣いていた私の耳に「コンコン」と玄関のガラスを叩く音が響く。主を失ったこの家に一体誰が訪れるというのだろうか。真っ赤になった目を擦って頬に貼り付いた涙も拭い、重い腰を持ち上げた私は恐る恐る玄関の扉を開ける。
「良かった。無事に帰り着いていたか」
 視界を覆ったのは、夫よりもかなり大きな体躯だった。声につられて見上げれば、先日一方的に罵声を浴びせてしまった彼の顔が飛び込んできた。
「煉獄様…」
「胡蝶から、先ほど蝶屋敷を出たと聞いた。…先日の様子から少し心配でな。御館様に苗字殿の家の場所を教えていただいた。…すまない、勝手なことをして」
 最後は申し訳なさそうに言った煉獄様の息は微かに弾んでいた。ひょっとすると、心配してかなり急いで駆けつけてくれたのかもしれない。
 面倒見のいい人だな、と思う反面、心底放っておいて欲しかった。煉獄様の顔を見るたびに殉職した夫を思い出し、私は彼に酷い言葉を浴びせてしまうだろうから。
「…ご心配をおかけして申し訳ございません。それと、先日の無礼をお詫びします。…この通り私は大丈夫ですので、どうぞお引き取りを」
「…しかし」
 爆発してしまいそうな感情を押し殺して絞り出すように言うも、煉獄様は引き下がらなかった。そんな彼の態度が私の導火線に火を点ける。
「死んだ部下の配偶者の面倒も、柱の務めなのですか?柱という方々は余程お暇なのですね」
 罵詈雑言のような皮肉に胸糞が悪くなる。自分がこんなにも非情な言葉を口に出来る人間だとは思いもよらなかった。
「俺でよければ何とでも言ってくれ。それで貴方の気持ちが少しでも楽になるのなら――」
「楽になんてなるわけないでしょう?貴方を責めて夫が帰ってくるのであればいくらでもそうします。でも…そうじゃない。同情はいりません」
 怯むことなく、全身で私の気持ちを受け止めようとする目の前の男が気に入らなかった。底無しの親切心や、罵られても余裕を見せる様子が憎らしい。未亡人に目を掛けてやっているんだと嘲笑われているようで、淋しさや怒りとは違った惨めな気持ちが突き上げてくる。
 勿論そんなことはないと分かっている。夫から聞いていた炎柱という男は、弱冠にして肉体だけでなく精神力も凄まじいのだと聞いていた。しかし今の私には、こうすることしか出来ない。それが今の自分を守る唯一の方法。
「苗字殿、大丈夫か?」
 ここ数日碌に食事を口にしなかったこともあり、かなり体力も気力も落ちてしまっていたようだ。勢いに任せて言った後は、視界が回転し強い眩暈に襲われる。平衡感覚どころか立位を保つことも困難で、足に力が入らなくなった私は前方に雪崩れるように倒れ込む。
「無理をするな。当然だが、まだ本調子ではないのだろう」
 労わりが匂う心地よい低温が耳に滲む。大きな身体がすぐに私を受け止めてくれたかと思えば、軽々と身体を横抱きにされてしまった。
「…お、降ろしてください」
「いや、悪いが寝室まで運ばせてもらう。一人で歩けるとは到底思えん」
 「失礼する」と言った煉獄様は、玄関で履物を脱ぐと框を跨ぐ。諦めて寝室の場所を告げれば、彼はあっという間に私を運び、敷いてあった布団に横たえてくれた。
 横になってきつく目を瞑ってもなお、世界がぐるぐると回転しているような不快な気分だった。そのうち、喉元から悪心がせり上がり胃の中の物を戻しそうになる。溜まらず掌で口を押えると、その手をゆっくりと引きはがされて、柔らかな手拭いのようなものがあてられる。同時に大きな手が汗ばんだ背中をゆっくりと擦った。
「ここに出してくれて構わない。吐物で窒息する危険がある。顔を横に向けられるか?」
 煉獄様の言葉に引っ張られるように、胃の内容物が口から零れだす。僅かに食残が混じっていたが、その殆どが胃液だった。酸臭が鼻を突き、芳香とはお世辞にも言えないその匂に次の悪心が込み上げてくる。なんて情けない姿なのだろう。
「…っ」
「遠慮せずに出してしまえ。少しは楽になる」
 息を止めて唇を噛み締め、腹の奥から這い上がってくる酸を必死に食い止めようとする私に、煉獄様の温かな言葉がかけられる。すると、今度は胃液と一緒に涙も零れた。
 そうして私は暫く、煉獄様の優しさに甘えることとなってしまった。

 額に触れた水の冷たさで目が覚める。また暫く眠ってしまっていたようだ。最近の私は眠っては目覚めての繰り返しであり、まるで本当の病人のようだと自分をせせら笑いたくなった。
「ご気分はいかがですか?大分顔色が戻られましたね」
 冷水で絞った手拭いで、顔の汗を拭ってくれていた枕元の人物に視線を移す。黒装束が全身を覆っており、双眸しか確認することは出来ないが、その目はとても優しそうに綻んでいた。声色や体格からして、女性なのだと分かる。
「…はい。もう眩暈もなくなりました…あの、煉獄様は」
 確かに私は眠りにつく前、彼に介抱を受けていたはずだった。
「煉獄様は、任務に向かわれました。柱はお忙しいので。代わりに私が参りました。私達は隠という部隊の者で、主に事後処理や柱の身の回りのお世話を担当しております。苗字様の旦那様にも、大変お世話になっておりました」
 私の疑問に、黒装束の女性が穏やかな口調で説明してくれた。
「そうですか、主人のこともご存知で。こちらこそ…生前は夫が大変お世話になって…」
「奥様も、お辛い時期かと存じます。煉獄様の命もあって、暫くは私の方で身の回りのお世話をさせていただきますので」
「いえ、そんなご迷惑をおかけするわけには――」
「鬼殺隊は上下関係が厳しいのです。上官の命令は絶対で、どうぞご容赦ください」
 隠の女性は少しだけ悪戯っぽく言ってのける。煉獄様の性格を考えればそんなことは絶対にないだろうと思うも、そう言われてしまえば申し出を辞退するのは憚られる。
 沈黙を肯定と捉えた様子の女性は、居住まいを正して私に一通の文を差し出す。
『名前へ』
 封筒には、一言私の名前が記されていた。
「…これは…」
「炎柱様から預かりました。自分が渡すと、また奥様を動揺させてしまうかもしれないからと。旦那様が残した…遺書のようです」
「遺書…」
 手に握らされた文が、読む前から涙で見えなくなる。
「一旦、私は失礼します。こちらに、雑炊を用意しましたので食欲が出たら召し上がってください。それと、旦那様の鎹烏を置いていきます。緊急時は、鎹烏で知らせてください」
 丁寧な説明の後に恭しく頭を下げると、女性は寝室を後にした。彼女も気を遣ってくれたのだろう。一人取り残された私は、再び襲ってくる孤独に抗いながら、文の封を開けた。