想うは、あなた一人だけ

 亡くなった鬼殺隊士達が眠る墓地は、今日も森閑としていた。墓所を覆う雑木林の枝葉が、囁くように風に揺れている。
 夫の墓石まで続く道をゆっくりと歩く。足許が危ないからと、段差があるからと、手を差し伸べてくれる杏寿郎さんの姿は、今は隣にない。
――貴方の記憶はないはずなのに、炎柱様はずっと苗字様のことばかり
 月島様は、確かに先ほどそう言っていた。でも、もし彼女の言葉が真実であるならば、どうして杏寿郎さんは今、私の隣に居てくれないのだろうか。
 墓石を一つ一つ確認するように歩く。鬼殺隊士には身寄りがない者も多いと聞くが、墓碑は年季が入って傷んでいる物こそあっても、どれも手入れが行き届いていた。鬼殺隊の関係者の手で、守られているのだろう。
 花立には干からびてしまった仏花も多かった。秋になったとはいえ、夏が舞い戻ってきたような暑い日もないわけではなった。そうなると、花々も瑞々しさを失ってしまうのは仕方のないことなのだろう。
「…え…」
 夫の墓の前に辿り着き、息を呑む。夫の墓石の花立に、先月の月命日に持参した仏花はなかった。
 代わりに、風に揺れる白色の花弁。秋空に伸びる長い蕊。花立には、白い彼岸花が供えられていた。
――同じ花を、持ってきてしまったな
 あの日の、杏寿郎さんの声が聞こえた気がした。

 葉が色づき始めた木々のトンネルを潜り抜け、急な勾配を駆け上がる。妊娠も安定期に入り、医者には軽い運動をするようにと言われてはいたが、流石に無理をしすぎてしまったかもしれない。
「はあっ、はあっ…」
 目的の場所に辿りついた私の息は絶え絶えで、崩れ落ちるように地面に膝を着く。草の先端が、膝頭をちくちくと擽った。
 二色に染まる視界。一色は空の橙色とそれを反射した海の橙色。もう一色は、眼下に一面に咲き乱れる白。砂浜に咲き乱れる、目を眇めてしまうほどの白い彼岸花。
 目の前には、一年前に見た景色をそのまま切り取って持ってきたような幻想的な風景が広がっていた。ただ一つ違うのは、隣に杏寿郎さんが居ないということだけ。
「っ…杏寿郎さん…っ、杏寿郎さん」
 瞼を焼くような熱い涙が、私の目から噴き零れる。結った髪に差した飾り櫛を手に取って、祈るように抱きしめる。夫婦になろうと約束した日、この場所で、杏寿郎さんが贈ってくれた宝物だった。
 夫の墓石の花立の彼岸花は、杏寿郎さんが供えたものだという確信があった。そして私は、気づけばこの場所に向かっていた。全てを思い出した杏寿郎さんが、ここで待っていてくれるような気がしたから。けれども、杏寿郎さんはここにいなかった。寄せ返す波の音だけが鼓膜に虚しく響いた。
 静かに流れていた涙は、やがて嗚咽に変わり、地面の草を掃くように、さぁっと風が吹いた。
「――名前さん」
 今日は、都合よく杏寿郎さんの言葉が聞こえてしまう日だ。そんなはずがないのに。ぎゅっと目を瞑って、飾り櫛を握る手に力を込めると、身体が小刻みに震えた。
「っ…きょうじゅろうさん…っ」
 冀う、切ない声が漏れた。
「名前さん…」
 再び、私の名を呼ぶ声がした。そして、次の瞬間には、飾り櫛を握りしめる腕を包み込むように、背中から抱きしめられていた。大好きな匂い。心地よい感触。愛しくてたまらない、彼の体温。
「きっ…きょ――」
「名前さん……ただいま。…待たせてすまなかった」
 鼓膜を打った愛しい人の声。身体を捻れば、私を優しく見つめる杏寿郎さんと視線が絡んだ。大きな瞳は片側だけになってしまったけれど、間違いなく、私が知っている杏寿郎さんのそれだった。
「っ…杏寿郎さん…っ…」
 杏寿郎さんの首に腕を巻き付け、胸に縋りつくように抱きしめる。まるで弦が切れるような勢いで飛びついたものだから、均衡を崩した杏寿郎さんが、そのまま私を抱えて後ろに倒れ込む。
「おっと。…もう貴方を容易に受け止めるくらいの身体には戻ったと思ったが、不甲斐ないな」 
「ご、ごめんなさい」
 慌てて身体を起こして杏寿郎さんを見下ろせば、小さく苦笑した後、溶けてしまいそうな優しい表情で私を見る。涙が滂沱と流れて、杏寿郎さんの綺麗な顔に大きな水玉がぽとぽとと落ちた。
「謝らなければならないのは俺の方だろう」
「杏寿郎さんっ…っ、お帰りなさい」
 杏寿郎さんが私の後頭部に手を回し、自身にぐっと引き寄せた。もう片方の手は頬を包むように添えられる。互いの吐息を間近に感じながら、ゆっくりと唇が重なった。互いを想い合い、気持ちを通じ合わせてする接吻がこんなにも幸せなものであることを、私は長いこと忘れていた。
「名前さんっ…名前っ…」
「…っ、杏寿郎さん」
 互いの空白の時間を埋めるように、私達は夢中で戯れの口付けを交わす。茜色の空は、もう間もなくその色を変えようとしていた。
 頭上が藍色に覆われるまで、私達は温もりを確かめ合うように、暫らく唇を合わせ続けていた。

「…杏寿郎さん、その、いつ私のことを?」
 あたりはすっかりと闇が立ち込めて、地上を照らすものは月と無数の星だけになっていた。私は杏寿郎さんの着物の羽織をかけられて、背後から包み込むように抱きしめられていた。
 冷たくなった夜の風が心地よく感じるほどの温かな熱に、杏寿郎さんが生きているのだと実感する。それを証明するように、背中からは杏寿郎さんの心音がとく、とく、と伝わってくる。
「貴方が、俺の心の隙間を埋めてくれる存在なのだということは、脳は忘れても身体に刻み込まれていたのだろうな。だが、不死川が、俺と貴方が恋仲であったとあの場で教えてくれてもなお、暫く記憶を取り戻すことは出来なかった」
「そう、だったのですね」
「…本当に不甲斐なかった。名前さんの泣き顔が頭にこびりついて離れないのに、俺には貴方が必要だと身体は教えてくれているのに、記憶だけがないのだ。…まるで闇の中に吸い込まれたような気持ちだった」
 私を抱きしめる杏寿郎さんの腕が微かに震えているような気がした。私の腹の辺りで組まれていた杏寿郎さんの手に自身のそれを重ね、首を少し捻って彼を見る。
「杏寿郎さん…。大丈夫。私はずっと、貴方の傍にいます。だから、もうそんなに悲しそうな顔をしないで」
「名前さん…」
 杏寿郎さんが再び私の唇を吸って、ゆっくりと言葉を続けた。
「胡蝶の屋敷を出てからは一人で…様々な場所を巡った。貴方と行った場所は覚えているのに、その時の幸福な気持ちは覚えているのに、それが何なのか、結局分からずじまいだった」
「じゃあ…どうして」
 首を捻ったまま窺うように問えば、杏寿郎さんは胸元から一枚の文を取り出した。もう何度も読み返されているのか、和紙には幾筋もの皺が刻まれている。
「これって、もしかして」
「ああ。苗字が…名前さんの夫君が、俺に残した遺書だ」
「っ…」
 ようやく引っ込んでいた涙が再来する。亡くなった夫は、空の上からずっと私達を見守り、祈ってくれていたのだろう。夫の言葉が杏寿郎さんを呼び戻してくれた。
「名前さん…もう一度、俺を信じて貰えるだろうか。貴方に救われたこの命は…、これからは貴方を守るためだけに在りたいと思う。俺はこれからも、名前さんとともに生きたい」
 泣かずにはいられなかった。乾いた頬を、熱い涙がしとどに濡らしていく。私は何度も首を縦に振り、杏寿郎さんの手を自身の腹に宛がった。もう一つの命が宿った、私の身体に。
「杏寿郎さん、私だけでは困ります。っ…ここにもう一人、杏寿郎さんを必要としている子がいます」
 涙は止まらないのに、自然と顔には笑みが浮かんでいた。杏寿郎さんの隻眼がこれでもかというほど大きく見開かれた。
「…本当なのか?」
 杏寿郎さんの胸の中で身を捩り、返事の代わりに口付けを送る。驚きの表情を浮かべていた杏寿郎さんの顔が、幸せそうに綻んだ。
 大きな掌が慈しむように腹を撫で、唇に熱が落とされる。心の一番深い所から、今までに味わったことのないような幸福が広がっていき、手足の先にまで漲っていく。
 刹那、柔らかな風が吹き抜けて、私達の身体を優しく撫でて通りすぎていく。夫婦になると約束したあの日、風にさらわれてしまった杏寿郎さんの言葉が、私の鼓膜を叩いた気がした。
 愛しい人は戻って来たのだ。忘却の彼方から。私に贈ってくれた言葉と一緒に。
――実は、白い彼岸花にはもう一つの意味があるのだ。それはな――

 想うは、あなた一人だけ。(完)