去り行く人々

 一瞬、何が起きたか分からず目を見開いていると、睫毛が触れるほど間近に不死川様の顔があった。唇には温かな感触があり、口付けられたのだと気がついた。
「っ…しな…んっぅ」
 すぐに唇は離れるも、言葉を発する前に再び唇を塞がれてしまう。今度は、唇を合わせるだけの接吻とは明らかに目的が違う。不死川様の厚い舌が、僅かに開いた唇の隙間を縫って私の口内へ侵入した。無防備な舌を容易に絡めとられて官能的に口内を犯される。
 不死川様の胸を叩くもその行動はなんの意味もなさず、私はそのまま廊下へと身体を倒されてしまった。不死川様の体重が身体に圧し掛かり、手首は床に縫い付けられるように優しく拘束される。
「んんっ…はぁ…ぁ」
 上手く息を吸い込むことが出来ず、呼吸が乱れ、頭がぼうっとしてくる。四肢の力は抜けて、瞼には涙が充溢し、収まりきらない分は大きな水玉となって頬を滑り落ちた。
「きょ…じゅ…さ…」
 唇を押し当てていた不死川様が顔の角度を変えた間合いで一瞬離れた唇から、思わず零れた杏寿郎さんの名前。次の瞬間、不死川様が我に返ったように即座に私の唇を解放した。
「…悪ィ。ありえねぇ…最低だな、俺は。…名前、殴ってくれ」
 ぶんぶんと頭を左右に振るう。突然の接吻に驚いたのは事実だし、杏寿郎さん以外の男性に触れられることに、やはり抵抗を覚えてしまった。しかし、私には不死川様を殴ることなんて出来ない。こんなに優しい人を。溢れる涙がこめかみを伝っていく。
「…結局俺が泣かしてんじゃ、世話ねぇな」
「っ…ご、ごめんなさいっ」
 不死川様が親指で私の涙を拭う。彼の端正な顔に悲しみの影が走ったのが分かり、私は心臓を掴まれているような胸の苦しさを覚えた。
「もう泣くな。…もうしねぇから」
「私…私っ…ごめんなさい…不死川様の気持ち凄く嬉しいのに…やっぱり、やっぱり杏寿郎さんのこと…忘れられないっ」
 噴き零れてくる涙を解放された手で拭いながら、涙に潤んだ声で必死に言葉を紡ぐ。不死川様は身体を起こして框に寝転んだままの私の隣に腰掛けて、子供をあやすように頭を撫でてくれた。
「ああ…。あんたは最初からずっとそうだ。…俺の方こそ悪かったなァ。気持ちに答える必要はねぇと言っておきながら…名前に嫌な思いをさせた」
「不死川様…私っ、私、不死川様の優しさが本当に嬉しかったです。貴方がいてくれなかったら、きっとすぐにだめになっていたと思います。こんなに、杏寿郎さんのこと信じて…待てなかった」
「…名前」
 手根で涙を拭い取り、徐に身体を起こす。私を真剣な瞳で見つめる不死川様を涙で潤む目で見つめ返してゆっくりと口を開く。
「…杏寿郎さんが私を思い出してくれなくても、私をもう愛してくれることがなくてもっ…私は、私はずっと彼を想って生きていきます」
 胸中を占めているのは揺るぎのない決意だった。一瞬、不死川様が虚を衝いたような表情を浮かべたが、すぐに優しい微笑を口角に刻んだ。
「本当にあんたは、できた女だよなァ」
「不死川様も、凄く優しくて、素敵な男性です。…不死川様、ありがとうございます。…貴方も…どうか、幸せになって」
 不死川様の大きな手をとって、気持ちを送り込むように両手で握りしめる。不死川様は眉根を寄せて視線をそらす。その頬は、うっすらと赤らんでいた。
「チッ…人の心配してる場合かよ。…じゃあなァ」
 不死川様は出会った日みたいに演じるように舌を鳴らし、框から立ち上がって苗字家を後にする。その姿はまるで、清風が吹いたようだった。

 残暑が遠のくと、季節は秋らしい顔を見せる。涼風がどこからか金木犀の香りを運び、鼻先を擽っていく。道沿いの木々の葉は、黄金色に染まりかけていた。
 夫が亡くなってから一年。今日は夫の命日だった。
 水のように澄み切った秋の空の下、私は夫が眠る鬼殺隊の墓地へと向かっていた。胸に抱えた白の彼岸花。天に伸びた長い蕊が、冷たくなった風に吹かれるたびに柔らかく揺れている。
 胡蝶様には全ての事情を説明して、今は身体に無理のない範囲で、診療を手伝わせてもらっている。全てを洗いざらい打ち明けた私に特段驚いた様子もなかった彼女には、やはり何もかもお見通しだったのかもしれない。
 そして、あの日から杏寿郎さんには一度も会っていなかった。それは、まだ杏寿郎さんが記憶を取り戻していない、ということなのだろうか。
「――苗字様」
 凛とした声に釣られてぴたりと足を止める。その声には聞き覚えがあった。ゆっくりと肩越しに振り返ると、少し先に月島様が立っていた。頭の上で結われた艶のある美しい毛髪が、風に揺られ気持ち良さそうに靡いていた。
「…月島様、ご無沙汰しています」
 神妙な顔つきでこちらとの間隔を詰める月島様からは緊張が見てとれて、伝播するように自身の全身が強張ったのが分かった。何を言われるのだろうか。杏寿郎さんのことだろうか。私にとっては耐え難い何かを言われるのかもしれない。月島様が口を開いた間合いで、私も思わずごくりと唾を呑む。
「酷いことを言って、申し訳ございませんでした」
 腰を直角に折り、私に向かって頭を下げる月島様から紡がれた言葉に、私は目を見開く。
「あ、あの、よく分からないですが顔を――」
「貴方に、とても辛くあたりました。…何食わぬ顔で炎柱様の傍にいると罵倒し、面の皮が厚いと罵りました」
 杏寿郎さんと恋仲になる以前の、蝶屋敷前での出来事のことを言っているのだと直ぐに合点がいく。あの時は、確かに月島様の言葉に傷ついたのは事実だ。しかし、そう罵られても仕方のないことをしてしまったのだから、月島様に謝られてしまうと、殊更心苦しい気持ちになった。
「あの、月島様、お願いですからお顔を上げてください。私は当然の報いだと思っています。夫を失ったばかりの私は、杏寿…煉獄様に酷い言葉を浴びせてしまった」
 私の懇願に漸く顔を上げた月島様の美しい顔は、今にも泣きだしそうなのを必死に堪えているようだった。
「私は…ずっと炎柱様をお慕いしておりました。彼に少しでも近づきたくて、血の滲むような努力もしました。炎柱様と一緒の任務が出来るようになると、彼の偉大さを知って。柱としての責任を果たそうとする姿勢を強く感じるようになりました…。だから、だから炎柱様を何もしらない貴方が彼を罵倒するのが許せなかった」
 月島様の言葉にゆっくりと顎を引く。何もかも彼女の言う通りだと思った。
「…炎柱様は時々淋しそうなお顔をするのです。勿論、私達のような一般隊士に炎柱様がその理由を話して下さることはなかった。私達の前では、いつも偉大な柱だった。でも…貴方と、苗字様と出会ってからは、とても幸せそうな顔をなさるのです。本当に、この世の幸せをかき集めたみたいに…温かなお顔で」
「え…」
「それも、私を余計に惨めな気持ちにしたのです。ずっと炎柱様をお慕いしてきたのは私の方なのに、突然出て来た貴方に炎柱様を取られてしまうのがとても嫌だった。…子供のようなやっかみです。…ですから、不必要に苗字様を傷つけたと反省しています。…本当に申し訳ございませんでした」
「もういいんです。過ぎたことです。それに、先ほども申しましたが、私は言われて当然のことをしました」
 ゆっくりとかぶりを振ると、数秒の沈黙を挟んで再び月島様が口を開く。
「……それに、もう一つ謝らなければなりません」
「え?」
「…私は、貴方と炎柱様が恋仲であることを知っていました。…ずっと彼を見てきたのです。炎柱様が貴方を特別な目で見ていらっしゃることはすぐに分かりました。ある任務でご一緒した時に聞いてしまったのです…怖いもの見たさとでも言うのでしょうか。聞きたくないのに、確かめたくなって。そしたら…バツが悪そうに、それでも幸せそうに、貴方のことを話すのです。今は他言しないで欲しいと、その時、念を押されました。…炎柱様と初めて共有した秘密が苗字様のことでした」
「っ…そう…だったのですか」
 自身を鼻で笑うかのような月島様の言葉に、心臓がぎゅっと締め付けられた。私が彼女の立場だったとしたら、苦しくて切なくてきっとどうにかなってしまうだろう。
「知っていながら、私は苗字様の記憶を失ってしまった炎柱様に、貴方のことを何一つお伝えしませんでした。あわよくば、思い出さないで欲しい。私のことを見て欲しい…そう思ったのです」
 月島様の気丈な声が涙に震える。目尻にきらりと涙が光った。彼女は涙を呑み込むように深く息を吐いて、言葉を続ける。
「でも、だめなんです。悔しかったです。炎柱様の心の隙間を埋めてあげられるのは貴方しかいないのだと、漸く理解しました。最初から、私が入り込める場所なんてなかった。最低なことをしたと反省しています。…すみませんでした」
「そう…だったのですか」
 呟くような自身の声が耳に滲む。
「…言いたいことはそれだけです。お時間を取らせてしまい申し訳ございません。私はもう行きます」
 二の句が継げなくなってしまった私に一礼すると、月島様は踵を返した。そして、僅かな間を置き、最後に私を振り返る。今度こそ、彼女の頬には涙が貼り付いていた。
「月島様…」
「…苗字様。…っ、炎柱様を助けて下さって、本当に、本当にありがとうございました」
 囁くような小さな月島様の声を鼓膜が拾った時には、彼女の姿はもう見えなくなっていた。