風にさらわれて


 焼けてしまいそうな夏の光線を浴びながら、私は不死川様と一緒に蝶屋敷までの道を歩いていた。時折目に入る道端の緑が、陽に打たれてぐったりしているのが目に入る。
 日差しを遮るものがない道中は想像以上に私の体力を奪っていき、体中から汗が噴き出して、襦袢が身体に貼り付き不快な気分が増していく。
 炎天下に息苦しさを覚えて、走っているわけでも無いのに呼吸が押し潰されてしまいそうだ。頭がぼうっとして、私の少し前を歩く不死川様の姿が霞む。
「…おい、名前、大丈夫か?」
 歩みを緩めた私を不審に思ったのか、肩越しに振り向いてこちらを見た不死川様がぎょっとした顔をして、私に手を伸ばす。傷だらけのざらざらとした掌が額に触れたと同時に、不死川様は眉を顰める。
「ちっ…熱ィじゃねェかよ」
「ご、ごめんなさい。最近、外に出ていなかったので。身体が上手く反応出来なくて」
 わざとらしく舌打ちした不死川様は、とうとう足に力が入らなくなり、ぐらりと身体が揺らいでしまった私を敏捷な身のこなしで抱きとめると、膝裏に手を差し込んで軽々と身体を横抱きにする。
「あっ、あの、大丈夫ですので」
「大丈夫じゃねェだろォ」
 渋面を作って不機嫌そうに言った不死川様は、地面を蹴って跳躍し、緑の葉が生い茂る大きな樹の根本に着地する。濃い翳が落ちていたそこに入ると、身体に貯留していた熱が少しずつ放出されていくような気がした。
「あっちに川があったな。水持ってきてやるから、少しまってろォ」
 私を木陰に降ろした不死川様は、ぶっきらぼうに言い残して瞬く間に見えなくなった。迷惑ばかりかけてしまい本当に情けない、と思いながらも、私は樹に背を預けてゆっくりと目を閉じる。瞼の裏には星が散って、まるで地震でも来たみたいに身体が揺れている気がした。 
 これは熱射病の症状だ。夏に多く、最悪死に至ることもあるのだと、以前胡蝶様が教えてくれた。悪阻で食事を碌に摂れていなかったことも影響しているのかもしれない。
 細く長い息を吐いて呼吸を整える。木陰に避難したこともあり、少しすると症状が落ち着いてきた。安堵の息を吐いて、もう少しだけ、と思い風の音に耳を澄ませていると、一緒に女性の声がどこからか聞こえる。この凛とした声には聞き覚えがあった。
「――炎柱様っ、ずっとお慕いしておりました」
 目を見開き声の方に視線を向ければ、杏寿郎さんの胸に月島様が縋りついて顔を埋めていた。不死川様は、杏寿郎さんが退院すると言っていた。ともすると、二人は蝶屋敷からの帰路なのだろうか。
 私は二人のやりとりを茫然と眺めることしか出来なかった。
「…月島…」
「炎柱様。私が、私が貴方の左眼となります。全力で貴方を支えます」
 悲鳴にも似た月島様の声が鼓膜を揺らす。彼女は泣いているのかもしれない。月島様も私と一緒だ。杏寿郎さんのことが好きで愛しくて堪らないのだ。彼女の気持ちが痛いほどに分かって心臓が切なく締め上げられる。
 杏寿郎さんが月島様の肩にそっと手を置くのが見えると、私は思わず顔を背けて立ち上がり、身を翻して二人が居るのとは反対方向に足を進めた。
 不死川様に勇気をもらった手前、敵前逃亡など今度こそ呆れられ、絶好されてしまうかもしれない。心の中で不死川様へ何度も謝罪の言葉を口にして、つい先刻まで体調が優れなかったことも忘れて私は足を速める。しかし次の瞬間、手首を物凄い力で引かれて私は足を止めるほかなかった。
 確かめるまでもない。私の手首を引っ張って杏寿郎さんと月島様の所に連れ戻したのは不死川様だ。彼の力に敵うはずもない私は、目を見開いてこちらを見つめる二人の驚愕の視線を受け止める。
「おい、煉獄!お前、本当に名前のこと思い出せねェのか?こいつとの記憶、本当に全部忘れちまったのか?」
 不死川様が、杏寿郎さんに険しい声で言葉をぶつける。内に抑えつけていた憤懣が顔中に広がっている。こめかみには青筋が立っていた。
「不死川様いいんですっ、もう私」
「いいわけねェだろォっ!」
 懇願するように言うも、私の言葉を遮って不死川様は語気を強める。
「不死川、俺は――」
「いいか煉獄、よく聞け。名前はな、お前と恋仲だったんだぞ」
「っ…」
 不死川様の口から告げられてしまった事実に、杏寿郎さんが目を見開いて息を呑む。
「こいつの記憶だけないだと?ふざけんなよ。そんな都合のいいことあってたまるか。…名前が、どんな思いで煉獄を助けて、意識が戻らねェ間も世話してたか」
「不死川様っ、本当に、もういいですから!」
 絞り出すように漏らした悲痛な声は、涙で潤んでいた。目からは湯のような液体が滲んできて仕方がない。しかし不死川様は杏寿郎さんに畳み掛けるように乱暴な言葉を浴びせ続ける。まるで、今にも手が出てしまいそうな勢いだ。杏寿郎さんは眉を顰めて苦しそうな表情を浮かべている。その表情が意味することは、何なのだろうか。
「おい、黙ってねぇで何とか言えよォ!名前の腹ん中にはなァ――」
 とうとう堪忍袋が破れてしまった様子の不死川様が、杏寿郎さんめがけて右手を振り上げる。彼は恐らく本気で殴るつもりはなかったかもしれないし、杏寿郎さんであれば、いくら病み上がりとはいっても容易に拳を受けることは出来たのかもしれない。
 しかし、杏寿郎さんに当たる、と思ってしまった私は、考えるよりも早く二人の間に飛び込んでいた。
「やめてっ!」
 叫びが喉を衝いて出て、鈍い音が空気を震わせた。次の瞬間、頭にがつんと強い衝撃が来て、ぎゅっと瞑った瞼の中に光が散る。飛び出した私に気づいて、不死川様がすぐに手を止めてくれたおかげで実際は掠った程度であったが、稲妻が走ったような痛みが全身を駆け抜ける。
「っ、名前さん!」
「名前っ!」
「っ…ぅ」
 杏寿郎さんと不死川様が私の名を叫ぶ声が聞こえた。身体がふらふらとよろめき、もう自身の足で立っていることは困難だ、と観念した次の瞬間、身体が宙に浮く。
 ゆっくりと瞼を持ち上げれば、泣き出しそうな顔をした不死川様が唇を噛んで私を見下ろしており、また彼に横抱きにされたのだと気づく。
「…っ、馬鹿野郎ォ」
「ご…ごめんなさい。大丈夫です。…でも、二人の仲を、っ…壊したいわけじゃないんです」
 身体の痛みと心の痛みで、瞼に滲んでいた涙が一筋頬を伝う。
「…もういい。…もう分かった」
「不死川っ!いくら掠っただけとはいえ君の拳を受けたのだ。脳震盪を起こして――」
「うるせぇっ!もういい」
 不死川様の肩を掴んで切羽詰まったように言った杏寿郎さんが、不安そうな面持ちで私を見る。しかし不死川様は、杏寿郎さんの腕を振り払ってそのまま地面を蹴った。
 目にも留まらぬ速さで景色が通り過ぎていくのに、不思議と不快な感じはなかった。不死川様が濡れ紙を剥がすように私を抱えてくれているせいだろう。
 頬にあたる蒸した空気が涼しく感じてしまうほどの速さだった。気づけば私は苗字家に連れ戻されていた。框に私を座らせた不死川様が所見を確認するように瞳を覗き込む。
 確かにこめかみに微かな痛みを感じたが、不死川様にここまで心配してもらうほど重症とも思わなかった。
「…不死川様、もう大丈夫ですから。直撃したわけではないですし、直後は少しびっくりしてよろけてしまいましたけど、もう全然なんとも――」
「腫れてんじゃねぇか…くそが…」
 不死川様が苦しそうに端正な顔を歪めて、私のこめかみに大きな手を這わす。その手の温かさを感じた次の瞬間には、骨が砕けてしまいそうなほどの強い力で抱きしめられていた。
「な…不死川様っ、何を」
「もう…俺にしとけよ」
「えっ…」
「…好きだ、名前」
 耳元を擽った言葉の意味を認識する前に、抱き締める力を緩めて私を見た不死川様に顎をぐいと持ち上げられて、唇を合わせられていた。