押し付けた唇

 私達は互いに言葉を発しないまま、すっかり闇に包まれた河川敷に立っていた。周りには多くの人々が地面に敷いた茣蓙に寝そべって、花火が打ち上がるのを今か今かと待ち侘びている。
 時々杏寿郎さんが、何かを言いたそうに口を開く気配がしたが、私が質問を受け付けないと言わんばかりに俯いていたものだから、言葉が紡がれることはなかった。
 先程の母親の態度は、明らかに私達を知っている風だった。勿論、それは事実だから当然のことだ。しかし、記憶のない杏寿郎さんの頭には疑問符が浮かんでいるはずだ。不死川様の言う通り、ここぞとばかりに杏寿郎さんの記憶に語り掛けるべきなのか。
 突如、音が身体を揺すった。震えるような大きな音に、反射的に空を見上げた。藍色の空に、一瞬にして大きな花が開いた。次々と打ちあがり、花火が幾重にも交わる。光の粒がぱらぱらと下に垂れて、炭酸が弾けるような音が散らばる。川風が火薬の匂いを運んできて、空に溜まった花火の煙を流す。
「…名前」
 咄嗟に、夜空から杏寿郎さんに視線を移す。久しぶりに聞いた「名前」に、彼が、私の記憶を取り戻してくれたのかと思ったから。
「やっとこっちを向いたな。…妙な呼び方をしてすまない、貴方があまりにも俺の方を見ないものだから」
 杏寿郎さんは申し訳なさそうに眉尻を下げて言った。しかしその目は真剣だった。打ちあがる花火のように圧倒的な力強さに満ちている。
「あ、あのっ…」
 目を泳がし、杏寿郎さんから一歩後ずさった私の手首を彼が逃がしはしまいというように掴む。その手は力強くて、無くなってしまった左眼と記憶以外は、私の知る杏寿郎さんだった。
「やはり、貴方は何か知っているのだろう?俺の心の空白を埋めてくれる手がかりを。…それに、先ほどのご婦人の――」
 次の打ち上げの準備が整ったのか、再び大気を劈く爆音が聞こえ、杏寿郎さんの言葉をき消した。次々と色とりどりの花火が打ちあがり、巨大な星が頭上に広がる
 花火の粒が、ぱらぱらと夜空に散り落ちる。生暖かい水が、私の頬を滑り落ちた。
 花火に照らされた杏寿郎さんの端正な顔には驚きの表情が浮かんでいた。
「…っ…ごめんなさっ」
 涙で潤んだか細い声が漏れると、杏寿郎さんが私の手首を掴む自身の手にぐっと力を入れた。
「何故泣く?貴方は一体何を――」
 再び杏寿郎さんの言葉を遮ったのは、花火ではなく私の唇だった。目の前で、杏寿郎さんが零れ落ちそうなほど目を見開いている。込められていた手の力が緩んだのが分かった。
 どうして自分がこんな行動をとったのか。口では上手く説明出来そうもない。ただこの時は、こうして唇の熱を合わせれば、杏寿郎さんが私のことを思い出して、抱きしめて、「ただいま」と、「忘れていてすまない」と、言ってくれるような気がしてしまったのだ。
「ごめんなさいっ。…杏寿郎さん…ごめんなさい」
 花火に夢中の人々は、私達に気がつくこともない。直ぐに合わせた唇を離して、杏寿郎さんの手を振りほどき、踵を返して走り出す。
 責任放棄も甚だしい。いくら屈強な肉体を持つ杏寿郎さんであっても、少し前まで生死を彷徨っていたのだ。そんな病み上がりの人を置き去りにするなんて、医療者失格だ。
 でも私は、その場から逃げ出さずにはいられなかった。杏寿郎さんが、凄く困ったように私を見ていたから。
 空を食い入るように見つめる人々の間を縫って駆ける。腹の子のためにも、激しい運動は避けるよう言われていたにも関わらず、足は止めなかった。
 背後で、私の名を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、散らばる花火の叫喚に混じって、それは直ぐに分からなくなった。

 暫く暇をいただきたい、と胡蝶様に文をしたためたのは、件の翌日のことだった。胡蝶様の鎹烏はすぐに私のもとに返事を運んできた。文には彼女らしい優しい字で、労わりの言葉が綴られていた。そして、まるで私の頭の中を覗いたかのように、杏寿郎さんが無事に屋敷に帰宅したと添えられていた。
 胡蝶様は、私を責めることもしなければ、何も詮索してくることもなかった。心底有難い反面、孤独な気持ちが募る。そうかといって杏寿郎さんと顔を合わせることなど到底出来そうもない。
 雨戸も障子も閉めっ放しの家の中は、まるで夜のように暗かった。夫の仏壇の前で身を丸めて、自分の腹に手を置きながら涙を流した。
 ねぇ、あなた。あなたは、私の幸せを願う以外ないと言ってくださいましたよね。過去に生きるのではなく、勇気を持って今の現実を生きろと。私はどうしたらいいのですか。今の私に勇気なんて、とても持てそうにないです。

 苗字家の、来客を告げる玄関の鈴が鳴ったのは、それから数日経った昼間のことだ。涙に暮れていたせいで酷い顔をしている自覚はあった。腫れた瞼が重い。しかし姿見を見る気力もない私は、気怠い身体を引きずって玄関へと足を向ける。
 引き戸を開ければ、不機嫌そうに眉の間に皺を刻んだ不死川様が立っていた。
「し…なずがわ…様」
「…また泣いてたのか」
 不死川様の顔を見上げて呆然とする私の涙堂に、節くれだった彼の指がそっと触れた。
「ど、どうして」
「今日任務から戻って胡蝶の所に行ったら、あんたが休んでるって聞いたんだよ。…何かあったのか?普通は…こんなに目腫らすほど泣かねェだろォ」
「あ、あの…」
 心配そうな視線を注いでくれる不死川様に申し訳なさを感じつつも、私は上手く言葉で説明することが出来なかった。口を開いたり閉じたりする私に、不死川様は小さな息を吐いた。
「言いたくねェなら無理強いはしねェ。…それよりも、煉獄が退院する話は聞いてんのかよ?」
 不死川様が、これが本題だとばかりに言葉を続けた。私は目を見開いて首を小さく左右に振った後、瞼を伏せる。
「それは…知らなかったです。…そっか、杏寿郎さん退院出来るんだ。…っ、良かった」
 意思に反して声が潤む。また泣き虫だと不死川様に呆れられてしまうかもしれない。
「…聞けば、暫らくは隠とあの女隊士が身の回りの世話するって話だぜ。…あんたは、それで良いのか?」
 不死川様の声が鋭さを孕む。怒ったり責めたりするわけではない。煮え切らない私の背中を押してくれる声援にも聞こえた。
 「女隊士」というのはきっと月島様のことだろう。心臓がずきずきと痛む。良いわけなんかない。けれども、杏寿郎さんと向き合うのも怖かった。先日の花火大会での彼の困った顔が脳裏に蘇る。記憶を無くしてしまった杏寿郎さんにとって、私は不要かもしれないというのに。
「なぁ、名前。何があったか知らねェが、今のあんたは逃げてる。気持ちは分かるが、それじゃ何も変わらない。思い出せるもんも、思い出せなくなっちまう」
「っ…良くない。そんなこと分かっています。…でも、でも怖いっ」
「大丈夫だ。万が一の時は、俺がいるだろ。…ったく、何度も言わせんなよなァ」
 瞬きで涙を外に弾いて声を絞り出した私の耳元で、不死川様が呆れたように呟いた。
「なんで、なんでそんなこと。…どうして私なんかに…っ」
「おい…本気で言ってんのか?……俺はあんたに、とっくに惚れてる。…普通分かんだろォ」
 驚いて顔を上げれば、一瞬決まりが悪そうに視線を逸らした不死川様が目に入る。二の句が継げなくなってしまった私の頬に、不死川様が手を滑らせて、口角に優しい笑みを浮かべた。
「惚れた女は幸せにしてやりてェと思うだろ」
「…っ…あのっ…」
 突然の告白に、顔に熱が集まってくる。狼狽の色を隠せない私に、不死川様が小さく溜息をついて、今度は苦い笑みを浮かべた。
「…名前の気持ちは分かってる。別に俺の気持ちに答えて欲しいわけじゃねェから安心しろォ。…ほら、行くぞ」
 不死川様が唐突に私の手を引く。彼の優しさに引っ張られて、いつしか私の恐怖は勇気に代わっていた。