空白を埋めたい

 濡れた着物を着替えてて居間に戻ると、不死川様が夫の仏壇をじっと見つめていた。
 あれから不死川様は、私を自宅まで送り届けてくれた。この家で、夫や杏寿郎さん以外の異性と二人きりになることは初めてのことだ。不死川様に特別な気持ちがあるわけでないが、先日や今日みたいなことがあると、俄かに緊張した。
「不死川様、本当に着替えをされなくても大丈夫ですか。そのままだと不死川様が風邪を引いてしまいます」
「いや、もう乾いてる。隊服は機能性重視だからなァ。…それで、今度は一体何があったんだよ」
 渡したタオルで濡れた髪をがしがしと拭いた不死川様が、眉根を寄せてこちらを見る。居間の机を挟んだ反対側にゆっくりと腰を下ろした私は、不死川様の前に熱々の煎茶を差し出して、重い口を開く。
「…最近体調が悪い日が続いていたので、お医者様に掛かりました。蝶屋敷の隊員の方にも怒られてしまったので…そしたら」
 一瞬言葉を噤み、無音の溜息を吐く。不死川様は急かすことなく私の言葉を待ってくれた。
「……妊娠、していました」
「…妊娠?おい、それは」
「はい。…不死川様のご想像の通り、杏寿郎さんとの子です」
「……本当かよ」
「亡くなった夫との間には、授かれなかった子です。…私は、もう自分の子供をこの手で抱くことなど諦めていました。…それなのに、それなのに、なんで今更っ…」
 再び涙が突きあげてきて、声が震える。下唇を噛んで目を伏せると、机に大きな水玉がぽたぽたと落下した。
 時間が唐突に停止してしまったかのような沈黙が、苗字家の居間を支配する。突然こんなことを打ち明けられたのだ。言葉を失って当然だ。
「……最近は、櫛つけてねェよなァ。旦那の仏壇に置きっぱなしなのかよ」
 不死川様が唐突に言う。私は、濡れた目を手でごしごしと擦って顔を上げる。すると不死川様が仏壇に置いてあったはずの、杏寿郎さんから貰った飾り櫛を、すっと私の前に差し出した。
「あの…不死川様?」
 行動の意味を測りかね、問うように名前を呼ぶ。
「俺は学がねェから色々調べてみたんだけどよ…人の記憶つーのは、それに関連したものに触れるだけでも、変化が見られる可能性があるらしい」
「…え?」
「この櫛は、あんたや煉獄にとっても思い出深いもんだろ?別に櫛じゃなくてもいいけどよォ、二人で行った場所とか、思い出の品とか、なんでもいいんだよ。兎に角、あいつの記憶に語り掛けろ」
「…記憶に…語り掛ける」
 不死川様の言葉を復唱しながら、眼下の飾り櫛を手に取りぎゅっと握りしめる。
「大丈夫だ。…あんたがこんなに思ってんだ。あいつは思い出す。だから、安心して子供も産めばいいだろォ。…堕胎なんて、考えるなよ」
「っ…私だって信じたいです。…信じたいけど」
 本当は声を大にして叫びたい。私は杏寿郎さんと恋仲だったと。結婚の約束をしていたのだと。私の腹には杏寿郎さんとの子がいるのだと。
 でも、もし思い出すことがなかったら?自分が苦しいだけでなく、きっと杏寿郎さんも苦しめてしまう。困らせてしまう。
 唸るような情けない声だけが漏れ、言葉にならない思いが熱い涙となって頬を流れる。
「万が一、煉獄ががあんたを思い出さないようなことがあれば」
 いつの間にか立ち上がった不死川様が机を回ってこちらに歩みより、大きな手を私の頭に置いた。
「あんたも腹の中の赤ん坊も、俺があいつから奪ってやるから…。だからもう、そんなに泣くなよ。…名前の気持ちは、もう十分伝わってる」
 触れた手から不死川様の温かな気持ちがじわじわと伝染する。この人はどうしてこんなにも優しいのだろうか。私によくしてくれるのだろうか。
「っ…ごめんなさっ…私っ…」
「俺はもう行く。…今日はもう休めェ」
 口許を微かに緩めた不死川様は、私の髪をくしゃりとすると、風のように私の横を通りすぎた。
 慌てて後ろを振り向いて、私はその颯爽たる風姿を、襖の扉がぴしゃりと閉じられるまでずっと見つめていた。

 あれから十日ほど経っただろうか。私は、杏寿郎さんと肩を揃えて歩いていた。彼と恋仲になる前に、何度か二人で歩いたあの街だ。
 ゆっくりと歩く私達の横を、浴衣に身を包んだ子供たちが楽しそうに駆けていく。女学生の黄色い声も鼓膜に流れ込んで来た。街はいつになく賑わいの色を見せていた。近くの河川敷で、今日は花火が打ち上げられることになっているからだ。
 どうしてこんなことになったのか。話は少し前に遡る。

「名前さん。煉獄さん、そろそろ外に出て訓練をしてもいいと思うんです。まだ流動食ですが、食事もお口から摂れるようになってきましたし」
 診察室で備品の整理をしていた私にそう言ったのは胡蝶様だ。
「外に出て、訓練ですか?確かに機能回復訓練で大分体力も戻られているようですし…。あんなに酷い怪我でふた月も意識がなかったはずなのに…本当に凄いですね」
「ええ。点滴も取れましたし、名前さん、煉獄さんの訓練に付き合ってあげてくれませんか」
 胡蝶様が整った唇に笑みを湛えて私を見る。窓から差し込む焼けるような陽光が、胡蝶様の白い肌をじりじりと照らしている。じめじめとした梅雨は明け、季節は夏へと移り変わっていた。
「わ、私がですか?…でも、もし何かあった時に対応出来るか」
「名前さんだからお願いしているのです。私も一緒に行けたらいいんのですが、今日は屋敷に目が離せない重症隊士も多いですし」
「わ…分かりました。胡蝶様が…そう仰るなら」
 複雑な気持ちが胸中で渦巻く。不死川様は、杏寿郎さんとの思い出を巡ってみろと教えてくれた。ひょっとすると二人で出かけることで、杏寿郎さんの記憶に何か変化が起こるかもしれない。でも、そうではなかったら?僅かな希望が砕け散った時、私はどうなってしまうのだろう。
「了承していただけて良かったです。では、お願いしますね」
 夏のそよ風のように優しい声で言うと、胡蝶様は踵を返す。蝶の羽を思わせる美しい羽織を見つめていると、扉に差し掛かった彼女が徐に私を振り返った。
「そういえば、今日は河川敷で花火が上がるみたいですよ。名前さん、最近お疲れのようですし、煉獄さんとゆっくり観てきたらいかがですか。そういう時間も、人間には大切ですから」
 きっと胡蝶様は、私と杏寿郎さんの関係に気づいているのだろう。私の気持ちを汲んでくれているのか胡蝶様は何も言ってくることはないが、杏寿郎さんの抜けてしまった記憶を取り戻す方法を、思考錯誤してくれているのかもしれない。

「煉獄様、体調は問題なさそうですか。かなりの距離を歩いたと思うのですが」
 目に染みるほど濃かった夏空が、淡い紫に染まり始める時刻になっていた。私は隣を歩く着流し姿の杏寿郎さんを見上げた。病衣を纏わない彼の姿を見るのはいつぶりだろうか。整った横顔に、全身の血がトクトクと音を立てる。
「気遣いをありがとう。どうやら、全く問題ないようだ。食事を摂れるようになったからかもしれんな」
「早く、固形物も食べられるまで回復するといいですね。…煉獄様、食べるのがお好きでしたから」
 何気なく呟いた言葉で、ふいに杏寿郎さんが足を止める。そして、陽光を固めたような瞳の焦点を私の顔に静止させる。
「…まるで、以前から俺のことを知っていたように言うのだな」
「えっ…」
 杏寿郎さんが呟くように口にした言葉に、私ははっと息を呑む。ゆっくりと空を仰いだ彼は、まるで自分に言い聞かせるように続けた。
「名前さんに言うことではないのかもしれないが……目が覚めてから、心に穴が開いてしまったみたいに空白があるのだ。…何か大事なものを抜き取られたような」
「…大事なもの」
「…名前さん、貴方は――」
 私に視線を戻した杏寿郎さんが一呼吸置いて口を開く。しかし、その言葉の続きは、聞き知った女性の声にかき消されてしまう。
「ご無沙汰しております。やだ、またお会い出来るなんて」
 嬉しそうに私達に駆け寄ってきたのは、私達が救った幼子の母親だ。もう会うのは四度目になるだろうか。すっかり一人で歩けるようになった幼子が、彼女の足に甘えるように縋りついている。
「ご、ご無沙汰しております。本当に偶然ですね」
 平静を装い返事を返す。しかし心臓は早鐘を打ち始める。杏寿郎さんに、彼女の記憶はあるのだろうか。
 恐る恐る隣の杏寿郎さんを見れば、片方の瞳を見開いていた。
「…あの、もしかして旦那様、お怪我をなさってしまったのですか?目が、以前はそんな風にはなっておりませんでしたよね」
 驚いた表情を浮かべて杏寿郎さんの顔を凝視する母親の言葉が、怒涛のように押し寄せてくる。全身の毛穴から脂汗が滲んだ。
 刹那、鼓膜を破ってしまいそうなほどの泣き声が響く。足元を見れば子供が癇癪を起したみたいに激しく泣き喚いていた。
「やだ、もう、この子ったらどうしたのかしら。ほら、泣かないの!ごめんなさい、一旦失礼しますね。お二人も花火を観に来たのですよね?楽しんでくださいね」
 咄嗟に我が子を抱き上げた母親は、慌てて私達に向き直り、笑顔を残して去っていった。
 彼女の言葉を聞いた杏寿郎さんは一体何を思ったのだろう。確かめたくて堪らないのに、確かめるのが怖かった。
 私は、杏寿郎さんの顔を見ることが出来なかった。