憎き炎柱

 目を開けると、見慣れない白色の天井が視界を覆った。全身を溶かすような虚脱感に包まれている。ここはどこだろう。私はどうしたんだっけ。答えに辿り着く前に、春のように麗らかな声が鼓膜に響いた。
「お目覚めになりましたか?」
 声の主を確認するように枕元の気配に視線を動かすと、柔和な笑みを浮かべた女性が目に入った。
「…貴方は?」
 自分よりも随分と若く見えるその女性へ問いかける。身体を起こそうとする私を繊細な手で制すると、彼女はゆっくりと私に掛けられていた布団を剥いだ。
「怪しい者ではないですよ。私は医者で、胡蝶しのぶと申します。まずは苗字さんを診察させて下さい」
 胡蝶と名乗るその女性は、私の病衣の前を軽く開けて胸元に聴診器をあてた。深呼吸をしてください、という彼女の声に合わせて深い呼吸を規則的に繰り返す。まだぼんやりとしている意識の中で、私は彼女の診察を受けた。
「どこも問題ないようですね」
 聴診器を耳から外して呟くと、胡蝶様は今度こそ上半身を起こそうとする私を介助してくれた。
「あの、ありがとうございます。…それで、ここは一体」
「ここは鬼殺隊の診療所のような所です。苗字さん、貴方は自宅で意識を失われて、ここに運びこまれたのですよ」
 寝台の傍にあった椅子を引き寄せて腰掛けた彼女が、神妙そうな顔で私に語り掛ける。その言葉が、私の意識を失う直前の記憶を呼び起こす。
「…っ…夢じゃないのですか」
 涙を声にしたようだった。その瞬間、彼女は心底気の毒そうな顔をした。答えを聞かずとも、夫の殉職は真実なのだと分かるほど悲痛な面持ちだった。直ぐに熱い涙が噴きこぼれ、頬を伝って布団を湿らせる。
「…ううっ…」
「苗字さん……お辛いですよね。…本当に立派な最期だったと聞いています」
 胡蝶様が慰撫するように私の背中を何度も擦る。いい歳をした大人が形振り構わず泣きじゃくるなど恥ずかしいことだと思った。配偶者が鬼殺隊士であるならば、それなりの覚悟をするのは当然のことであるし、殉職は甘んじて受け入れなければならない。
 それなのに私はどうだろう。いざ夫を失ってこんなにも動揺し絶望してしまう自分は、覚悟など爪の先ほどもなかったのだと思い知らされる。
「ううっ…はぁっ…はぁっ…」
 涙と一緒に突き上げてくる呼吸が次第に荒くなる。胸の前で心臓を押さえつけるように握りしめていた両手は痺れ、徐々に感覚が無くなっていく。
「苗字さん、ゆっくり呼吸をしてください。過換気の症状が出ています」
 胡蝶様の落ち着いた声が耳に滲む。ゆっくり、ゆっくり、と心の中で自身に言い聞かせるも、苦しくてこのまま死んでしまうのではないかと思うほどの生き地獄が襲ってくる。喉を絞められたような喘鳴が漏れ出て、死んだ方が身も心も楽になれるとすら考えた。
 症状が悪化の一途を辿る私とは対照的に、胡蝶様は殊更冷静な様子だった。彼女は私の肩を優しく押し、再び寝台に寝かせ側臥位をとらせると、強張った指先をほぐしながら「大丈夫ですよ」と優しい声音で何度も繰り返した。
 刹那、ちくっとした針で刺すような痛みを感じたかと思うと、次第に呼吸が落ち着いて瞼が重くなり始める。きっと胡蝶様が沈静剤でも打ってくれたのだろう。私の目線まで腰を落として終始穏やかな表情を見せる彼女にお礼を言おうと口を開きかけた時には、既に私は意識を手放していた。

 次に目が覚めた時、一番最初に視界に飛び込んできたのは胡蝶様の姿ではなく、私を覗き込む太陽のように雄々しく大きな瞳だった。
「目が覚めたようだな」
 眠気がこびりついた頭で、再び「貴方は?」と口にする。
「煉獄さん、ここは病室なんですからもう少し声を落としてください」
 すぐに胡蝶様の声が耳に流れ込み、その可憐な姿を視界の端に捉えた。
「そうだな…すまない。胡蝶、彼女が目覚めたようだが」
「そうですか。鎮痛剤の効果も切れる頃ですね。…苗字さん、落ち着きましたか?」
 胡蝶様が私の額に薄っすらと滲んだ汗をガーゼで拭いながら問う。次第に意識が鮮明になった私は、小さく顎を引いて徐に身体を起こす。
「すみませんでした。一度ならず二度までも、ご迷惑をおかけしてしまって」
「気にしないでください。…無理もありません」
「…はい。あの、この方は?」
 胡蝶様の隣で、彼女同様心配そうな視線を私に注いでいる男性に視線を移す。胡蝶様と同い年くらいだろうか。やはり自分よりも若く見える青年だが、その立ち姿は堂々としており一際存在感を放っていた。胡蝶様もそうだが、鬼殺隊の隊服を纏っていることから、この青年も鬼殺隊士の一員なのだろう。
「挨拶もせずにすまない。俺は煉獄杏寿郎という。…昨日まで、貴方の夫君と一緒の任務に就いていたものだ」
「……煉獄…様。…貴方が」
 その名前は当然ながら聞き覚えがあった。夫が、まるで自分のことのように武勇伝を語り、誰よりも尊敬していた上官だ。
「…今回、貴方の夫君の件は本当に残念に思う。柱である俺がいながら…不甲斐なかった。本当にすまない」
 表情を強張らせ二の句が告げない私に煉獄様が丁寧に頭を下げる。本来であれば、煉獄様に謝ってもらう筋合いもない。鬼殺隊士であれば誰もが皆命を懸けているのだから、殉職者が出るたびに一人一人の家族に頭を下げていたらきりがないだろう。
 頭の中では十分理解しているつもりであるのに、脳裏を過るのは二人で過ごした最後の夜の夫の言葉だった。
――本当に強くて頼りになる存在だ。炎柱と一緒の任務で、死者が出たという話は聞いたことがない
 炎柱は、強くて頼りになる存在ではなかったの?誰も死者を出したことがなかったのでは?私の夫が、一番最初の犠牲者になってしまったということなのか。
「…柱は、お強いのですよね」
 自分でも驚くほど低い声が出た。病室の空気が緊張で強張る。その空気を切り裂くように、私は目の前の煉獄様に怒声を浴びせる。
「柱ならば、どうして夫を助けて下さらなかったのですか?部下を守ることは、上官の使命ではないのですか。夫の命など、どうでも良かったのですか。夫から、煉獄様との任務で死者は出たことがないと聞いていたのです。…っ、それなのに、どうして。どうして夫が死ななくちゃならないの…ぅう」
 煉獄様だけでなく胡蝶様も面食らったような顔をして、その後すぐにその表情を険しくさせた。
 諸悪の根源は人を喰らう鬼であり、煉獄様を責めるなどお門違いであることは十二分に理解していた。一部下であった隊士の妻に、心無い一方的な言葉で罵倒された煉獄様の心中を考えると、本当に感情任せの向こう見ずな行動だと思う。
 それでも、誰かにこのやり場のない怒りや悲しみをぶつけずにはいられなかった。こうしなければ、私の精神は今にも崩壊して心の均衡が保てなかった。
「おい!お前、柱になんてこと言うんだ!炎柱はな――」
「余計なことを言う必要はない!俺は構わない。…君はもう帰れ」
「は、はい…失礼しました、炎柱様」
 私の罵声に、病室の前で待機していた様子の黒装束が聞き捨てならないと割って入るも、煉獄様の鶴の一声で直ぐに身を引く。このやり取りからも、炎柱という存在がどれだけの人傑なのかが分かる。でも、それであればどうして、と思わずにはいられなかった。
「…本当にすまない。貴方が言うことは正しい。柱ならば、部下の盾となるのは当然だ。夫君を守れなかったこと…本当に忸怩たる気持ちだ。申し訳なか――」
「謝っていただいても死んだ夫は戻っては来ません!」
 悲痛な叫びが煉獄様の謝罪を封じる。病室に静寂が立ち込めて、数秒の沈黙があって胡蝶様が口を開いた。
「煉獄さん、一度退室願えますか。…苗字さんも混乱されているのだと思います」
「…ああ、そうだな。落ち着いたら、また顔を出す」
 胡蝶様が了解したと言うようにゆっくり頷くと、煉獄様は私を一瞥して踵を返した。白い羽織が翻ると、夫との最後の晩餐での会話が思い出され、瞼の裏が熱くなる
「…ごめんなさい。…本当はあんなこと言うつもりじゃ」
「いいんですよ、苗字さん。煉獄さんだって分かっていると思います。兎に角、今はゆっくり休みましょう」
 布団に顔を押し付けて、絞り出すように必死に言葉を紡ぐ私の頭上からは天使のような優しい声が降り注ぐ。そのまま暫く泣き続けた私は、いつのまにかまた眠ってしまっていた。