幸い中の不幸

 目の前に人がしゃがみ込む気配がしたと同時に、聞き知った低音が鼓膜に流れ込んでくる。埋めていた膝から慌てて顔を上げれば、眉根を寄せた不死川様が私と視線を合わせるようにしゃがみ込んでいた。
「し、不死川…様」
「また泣いてんのかよ。本当、あんたは泣き虫だなァ」
 呆れたように言う不死川様の口元は柔らかかった。瞼に残った涙を瞬きで外に流すと、不死川様が隊服の袖でごしごしと私の涙を拭ってくれた。土の匂いが鼻先を掠める。任務帰りなのだろうか。
「煉獄が目覚ましたんだろ?全く、世話がやけるぜ。……けど、あんたのは嬉し泣きって顔じゃねェだろォ」
 不死川様の図星をついた発言に小さく息を呑む。言い淀む私に痺れを切らした様子の不死川様がこちらに手を差し出しながら問う。
「今度は何があったんだよ?」
 不死川様の手を取ると、私の腕を引き立ち上がらせてくれる。窺うように私を見つめる三白眼には、やはり今日も憂慮が滲んでいる。
「な、何でもないんです。…ご心配をおかけして、申し訳ございません」
 杏寿郎さんが一部の記憶を無くしていることは、いずれ不死川様にもばれてしまうだろう。だが、今この場でそれを言うことは躊躇われた。自分で言葉にすれば、余計に悲しい気持ちになってしまうかもしれないから。
「…まぁ、別にあんたが言いたくなきゃ無理には聞かねェよ」
「あ、不死川様は」
「決まってんだろォ。煉獄の面拝みに来たんだよ。散々心配かけさせやがって」
 乱暴な言い方ではあったが、杏寿郎さんを労わる不死川様の不器用な優しさが伝わってきた。
「杏寿郎さん、今は落ち着いて病室にいます。…隊士の方もいらっしゃるみたいですけど、病み上がりなのでお手柔らかにお願いしますね」
「何言ってんだよ。あんたも一緒に来ればいいだろォ」
「あ、あの、私は今は――」
 取りつく島もなく、不死川様は私の手首を掴むと勢いよく引き戸を開いて病室へと足を進める。不死川様の強い力に引かれてしまえば、私に抵抗の余地はない。
「む、不死川!」
 直ぐに私達に気づいた杏寿郎さんの溌溂とした声が揺らぐ。まだ点滴の管をいくつもぶら下げている杏寿郎さんは、寝台に腰掛け端坐位の姿勢をとっていた。直ぐ傍には、見舞い用の丸椅子に腰かける月島様の姿があった。月島様は大きな黒目を見開いて立ち上がり、不死川様に襟を正して一礼する。
 不死川様は月島様を一瞥して、杏寿郎さんの元に歩み寄る。不死川様に手を引かれたままの私も、杏寿郎さんとの距離が縮まる。
「もう起きて大丈夫なのかよ」
「ああ。…心配をかけたようですまなかった」
 少し掠れた低音が鼓膜に貼り付くように残った。私の大好きな声だ。胸の奥から熱いものが湿り気を伴いのぼってくるのを感じた。
「ったく、名前に感謝しろよォ。お前のこと信じて、ずっと待ってたんだからな」
 不死川様が口許に小さく笑みを作って、杏寿郎さんから私に視線を移す。その視線を追うように、片方だけになってしまった杏寿郎さんの眼が私を捉えた。
「名前さん、と言ったか。先ほどはすまなかった。胡蝶の部下から、俺の救命措置をしたのも、病床で甲斐甲斐しく看病してくれたのも貴方だと聞いた。…苗字の細君だそうだな…本当にありがとう。貴方は、命の恩人だな」
 杏寿郎さんが少しだけやつれてしまった顔で、太陽のように微笑んだ。人の心を明るく照らしてくれる、優しい笑顔。それなのに、今は氷のように冷たく感じた。
「…おいおい、どういうことだよ?まるで初対面みてェな言い方じゃねェか。名前はお前の――」
「不死川様!」
 眉を顰めて言った不死川様の言葉の続きを、上擦った声で封じる。怪訝そうに私を見つめる不死川様の三白眼に必死に訴えかける。後で説明します。今は触れないでください、と。
不服を眉の辺りに浮かべていたが、不死川様は敏感に私の気持ちを察知してくれたようで、そのまま口を噤んだ。杏寿郎さんは不可解そうな表情を見せ、月島様はぷいと私から顔を背けた。
一瞬、病室が息苦しいほどしんとなる。
「れ、煉獄様!意識が戻られたばかりですので、そろそろ横になってください。ふた月も寝たきりだったのですから、ご自身が思っているよりも筋力が落ちています。こうして座られているだけでも、損傷した臓器や心臓にもかなり負担がかかってしまいます」
空気を変えたい一心で言った。声の大きさを上手く調整出来ず不自然さを否めなかったが、杏寿郎さんは小さく息を吐いてゆっくりと頷いてくれた。
「うむ…そうだな。情けないことだが、名前さんの言うように、こうして座っているだけでも、正直、かなりきついな」
 杏寿郎さんの表情が微かに翳り、紡がれた言葉は自身を責めているようにも聞こえて、胸がぎゅうっと苦しくなる。
「で、ですが、意識が戻った初日に身体を動かせる方はそう多くはありません。これから機能回復訓練を重ねていけば、炎柱の煉獄様ならすぐに――」
「ふっ、ありがとう。入院中は、貴方や胡蝶に従わねばならんな」
 杏寿郎さんが優しく口元を綻ばすので、また泣いてしまいそうだった。心臓の深い所から熱いものが突き上げてくる。涙が零れないようにと唇を噛み締めて杏寿郎さんから視線を逸らした次の瞬間、月島様の切羽詰まった声が響いた。
「炎柱様!大丈夫ですか」
 声に釣られて杏寿郎さんへ視線を戻せば、目の前にいた月島様の肩に凭れ、手で寝台の手すりを握りしめていた。一瞬にして蒼白になった顔には、苦悶様の表情が浮かんでいる。
「…っ、すまない」
「煉獄様!恐らく血圧が下がっています。すぐに寝台に横になってください。私、お手伝いしますので」
「いえ、私の方で介助しますので構いません」
 私を目で制した月島様が杏寿郎さんの肩にさっと手を回し大きな身体を支える。
「不甲斐ないな…。すまない、月島」
「いえ、お礼など。炎柱様、今日はもうゆっくり休んでください」
 細くて華奢な身体の何処にそんな力を隠していたのだろうと思うほど、容易く杏寿郎さんを支えて寝台に横たえた月島様が、私に視線を移す。
「苗字様、私に他に出来ることはありますか?」
 二人の様子を呆然と眺めることしか出来なかった私の耳に、月島様のきびきびとした声が響いて我に返る。
「で、では、枕を足の下に敷いて下肢を挙上しておいていただけますか…。私は、念のため胡蝶様を呼んできます」
 近くの寝台の枕をかき集めて、月島さんに手渡し踵を返す。
「名前さん…っ…迷惑をかけて、申し訳ないな」
 背後から苦しそうな杏寿郎さんの声が聞こえた。彼を見ることが出来ないまま私は左右に首を振って足早に病室を出る。その場にいるのが辛くて苦しくて、胸の底で悲鳴が上がる。
 まるで私の居場所など、最初からそこにないみたいだった。

「おい、ちょっと面かせェ」
 不死川様に再び声を掛けられたのは、杏寿郎さんが胡蝶様の投与した薬で小さな寝息を立て始めた頃だった。件から、三十分も経っていないだろう。
 病室を出た所で、扉にゆったりと凭れかかっていた不死川様にぐいぐいと手を引かれ、連れて来られたのは蝶屋敷の裏庭だった。
 早朝、厚い雲の隙間から差し込んでいた陽の光は、今はもう見えなかった。灰色のどんよりとした雲が頭上を覆い、今にも空は泣きだしそうだ。夏目前の、じめじめと湿気を含んだ風が私と不死川様の間を通り抜ける。
「さっきの煉獄のことだが、どういうことか説明しろ」
 私の手首を掴んだまま、不死川様が低い声で言って渋面を作る。どのみち不死川様には説明するつもりでいた。私は小さな息を一つ吐いてからぽつぽつと言葉を紡ぐ。
「実は…私の記憶だけ、抜けてしまっているようなのです。杏寿郎さんの中からすっぽりと」
「はァ?…そんなことあんのかよ?」
「ええ…私も吃驚しました。…胡蝶様も過去にこのような症例は報告されていないと話していましたし。…ですが、杏寿郎さんが助かったこと、それ自体が奇跡なのですからこういうことも起り得る可能性だってあるのかなって…っ」
 話をしているうちに、幾条もの涙が頬を滑り落ちていた。涙に胸が咽て、最後は上手く言葉にすることが出来なかった。
「煉獄に言えばいいだろ?隠す必要があんのかよ?」
「言えないです!…っ、言えない。だって…杏寿郎さんは、私のこと、少しも覚えていないんですよ。それなのに、貴方と恋仲でしたなんて、結婚の約束をしていましたなんて…言えるはずないです」
「…名前」
「それに、意識は戻りましたが大事な時期です。…慎重に機能回復を進めていかなければいけない…杏寿郎さんに、負担をかけてしまうかもしれない。彼は優しいから…きっと困ってしまうっ…」
 私は子供のように泣きじゃくっていた。触れなくとも、自分の姿を確認しなくとも、顔が不細工なほどぐちゃぐちゃに濡れていることは直ぐに分かった。それでも、煮えるような涙は止まらない。 
 不死川様が悲痛な面持ちで私を見ていた。また彼に余計な心配をかけてしまっているな、と自責の念が込み上げてくる。
「っ、でも、胡蝶様が、少しずつ、思い出していく可能性もあるからと…仰っていました。だから私は――」
 掴まれていないもう片方の手の甲で涙をごしごしと拭い、強引に笑みを作ろうとした刹那、私は強い力で腕を引かれ不死川様の胸に引き寄せられていた。不死川様の傷だらけの胸が私の涙で濡れる。
「っ…あの」
 状況の理解に頭が追いつかず慌てて身体を離そうとするも、後頭部を掴まれさらに強く胸に押し付けられてしまえば、それをすることは困難だった。
「そんなに辛そうに笑うんじゃねェよ…。守ってやりたくなんだろうがァ」
 不死川様の悲しそうな声が鼓膜を掠める。
 頭上に広がる曇天がまるで私の真似をするように泣き始め、乾いた地面を濡らしていった。