襲い来る困難

 苗字家から蝶屋敷に向かう足取がこんなにも軽かったことは前代未聞だ。降り続いていた雨が、糸が切れたようにふっと止んだ朝だった。
 雲の裂け目から貴重な陽が差してきて、草木の雫が宝石のような光を放っていた。雨でぬかるんだ地面も、水溜まりではしゃぐ子供達も、物置のように動かない畦道の蛙でさえも、視界に映るもの全てがきらきらと輝いて見える。
 杏寿郎さんの意識が戻ったという知らせを受けたのは、明け方のことだった。杏寿郎さんの鎹烏の要さんに、濡羽色の羽で優しく頬を撫でられて目が覚めた。主人の覚醒に、心なしか要さんも喜んでいるように見えた。
 息を弾ませて蝶屋敷の門を潜ると、白衣を身に着けることもせずに、杏寿郎さんの病室を目指す。しんとした早朝の廊下に私のドタドタとした足音が煩いくらいに響いた。胸は緊張で今にも張り裂けそうだった。心臓が激しく脈打って身体を叩いている。
 病室の前で乱れた呼吸を整えて、取っ手に手を添える。急に現実味が増してきて、心臓の鼓動は最高潮を迎える。
ゆっくりと引き戸を開けて飛び込んで来た風景に、視界が涙でぐにゃりと歪んだ。
「名前さん!早かったですね」
 胡蝶様の嬉々とした声が耳に滲む。嗚咽が漏れて、言葉を発することが出来なかった。全身から喜びが迸り、一気に体の力が抜けてその場にしゃがみ込む。両目が溶けだすように熱くなり、大粒の涙が頬を伝って病室の床を湿らせた。
 寝台の上で上半身を起こした杏寿郎さんの隻眼と、視線が結びつく。
 私の、大好きな優しい瞳。私の、愛してやまないたった一人の人。
「…っふ…」
「名前さん、本当に良かったですね。状態も大分安定しています。流石、煉獄さんですね」
 病室の入り口で脇目も振らずに泣きじゃくる私に、杏寿郎さんの診察を一旦中断した胡蝶様が近づいて、手を差し伸べてくれる。掌で涙を拭ってその手を取った。その刹那だった。
 この世の終わりが訪れたような絶望的な言葉が、私に重く圧し掛かった。
「胡蝶、その方は蝶屋敷の者か」
「何を仰ってるんですか?煉獄さん、この方は――」
「随分顔色が悪い。俺のことは後で構わない、そのご婦人を診てやってくれ」
 一瞬にして音も色も失った世界で、全てが崩れ去る悲しい音だけが、空っぽになった脳裏に微かに聞こえた気がした。

「非常に珍しいことだと思います。過去の症例では報告されていないようでしたし」
「そう…ですか」
 診察室の書庫に並べられた分厚い本のページに目を走らせながら、胡蝶様は神妙な顔をした。
 目を覚ました杏寿郎さんは、私の記憶だけがすっぽり抜けてしまっていた。まるで最初から、私達の間には何もなかったかのように。
「名前さん、煉獄さんが、少しだけ心臓が止まっていた時間があったと仰っていましたよね」
「はい。胸骨圧迫と人口呼吸で、五分以内には心拍は再開したと思います」
「ええ。心臓が停止していたとなれば、その後遺症が出た可能性は十分にあります。ただ…名前さんの記憶だけが抜けてしまっているというのが、腑に落ちませんね」
「胡蝶様でも、分かりかねてしまうんですね」
「力不足ですみません。…でも、今朝意識が戻られたばかりです。これから少しずつ、思い出していくかもしれませんし」
「そうです…よね。ごめんなさい。ちょっとびっくりしてしまって…。夫が亡くなってからは、煉獄様にも色々とお世話になっていたので」
「無理もないです。…実は、名前さんと煉獄さん、凄く素敵な雰囲気だなって思っていたのですよ。…名前さん、私の勘違いだったら申し訳ないのですが、お二人は、その…」
 私の前に腰を下ろした胡蝶様が、窺うように言って言葉尻を濁す。
 胡蝶様の言わんとすることは分かった。勘のいい彼女であれば、いつかは私達の関係に気がつくだろうと思っていたし、無事に杏寿郎さんと夫婦になることが出来た日には、正式に報告もしたかった。
「…胡蝶様、それは勘違いです。…煉獄様は、あくまでも私の夫の元上官。それだけです。煉獄様には色々とお世話になったので、忘れられてしまったのは少し悲しいですが、また一から関係を築いていくしかないですね」
 私は上下の瞼を合わせて、ゆっくりと首を左右に振る。
 杏寿郎さんが毫も私のことを覚えていないのに、「杏寿郎さんと恋仲でした。夫婦になる約束もしていました」などと口にすることは到底出来そうもなかった。それは、酷く惨めで滑稽な気がしたから。
「そうでしたか…。それは失礼しました」
 胡蝶様が少しだけ目を張った後、悲しそうに視線を逸らした。彼女に嘘を吐いてしまったことに良心の呵責を感じるも、今はこうするのが唯一の正解のように思えた。
「…強く思っているからこそ、その記憶だけが抜けてしまう、という仮説が立てられそうな気もしたのですが」
「…強く思っているからこそ…ですか。もし、本当にそんな仮説が立つのだとしたら、忘れてしまった本人も忘れられた相手も、幸せになれない結末ですね」
「…そうかもしれないですね」
 重い沈黙が私達の間に流れた。無理に言葉を紡ぐことが、より一層空気を重たくしてしまう気がして、私は暫く口を開くことが出来なかった。
「――名前さん、煉獄様が、名前さんにお礼を言いたいそうです!」
 重く張り詰めた空気を切り裂いたのは、アオイちゃんのきびきびとした声だった。胡蝶様と顔を見合わせた後、アオイちゃんに視線を移せば、やれやれといった表情を浮かべて腕組をしている。勝気な瞳は、いつもより気が立っているように見て取れる。
「アオイ、どういうことですか?」
「名前さんが現場で救命措置にあたったことと、今日までのことについて、煉獄様にご説明したんです。そしたら是非にとのことです」
「そうですか。それは名前さんさえ良ければ構わないですけど。…アオイ、何かありましたか?」
「胡蝶様、聞いてください!煉獄様、無理に身体を動かそうとなさるのです。あんなに重症でずっと意識がなかった人です。筋力だって落ちているし、いつ循環が崩れるかも分からないのに」
「あらあら、困った人ですね。それじゃあ、名前さん、少し様子を見に行ってくれますか。命の恩人の言うことなら、素直に聞くかもしれないので」
 アオイちゃんを宥めると、胡蝶さんが整った唇に優しい笑いを作って私に仰せつける。
「はい、分かりました」
 私を忘れている杏寿郎さんを前にして、冷静でいられる自信など爪の先ほどもなかった。一方、心のどこかでは、ひょんなことをきっかけに私を思い出してくれるのではないかという期待もあった。
 複雑な気持ちを引きずって、私は再び杏寿郎さんの病室へと足を向けた。
「――炎柱様、本当に良かったです。もう、意識がお戻りにならないかと」
「うむ。本当に君には心配をかけたな。だが、恐らくこの身体で隊士への復帰は難しいだろうな。…当然、柱などは務まらんだろう」
「炎柱様、そんな…」
 杏寿郎さんの病室で繰り広げられる会話が廊下まで漏れて来て、私は引き戸にかけた手を引っ込める。杏寿郎さんの病室から聞こえる声には聞き覚えがあった。凛として透き通った高い声。杏寿郎さんの部下の月島様だと、容易に推測がつく。
「蝶屋敷の、名前さんという方が、現場で俺の救命措置をしてくれたと聞いた。亡くなった俺の部下の…苗字の細君のようだ。月島、君は彼女を知っているか?」
 杏寿郎さんの口から突然飛び出した自分の名前に心臓が跳ねて、次の瞬間には、瞼の裏が焼けるように熱くなる。愛する人の口から紡がれる名前が、嬉しくて堪らないのに、どうしようもなく苦しかった。
 廊下に誰もいないのをいいことに、私はその場にしゃがみ込み、膝に顔を埋めて嗚咽を堪える。顔を見たいのに、触れたいのに、伝えたいのに、愛したいのに、私は病室に入ることが出来なかった。
 二人で過ごした時間も、語り合った愛も、刻み合った熱も、約束した未来も、今は忘却の中へ、溶け込んでしまったのだから。