惨劇の夜

 杏寿郎さんの鎹烏が、列車の脱線を伝えに来たのは三十分前のことだ。
 私は一足早く、杏寿郎さんや竈門さん達が乗車する無限列車の終着駅に到着していた。到着予定時刻を大幅に過ぎても一向に気配を見せない列車に、待機中であった隠の医療部隊にも嫌な空気が充満し始めた、その間合いだった。
 私は部隊に交じって、現場へ急行する。鎹烏は杏寿郎さんの安否に関して一切触れることはなく、事務的な伝令だけを残して、夜明けの近い藍色の空に吸い込まれるように飛び立っていった。
 きっと杏寿郎さんは無事だ。呪文のように自身に言い聞かせて、私は必死に隠部隊の後を追う。鬼殺隊に属する彼らと一般人の私では、体力や身体能力にかなりの差があった。
 時々隠の隊員が、心配そうにこちらを振り返り「無理をしないでください」と声をかけてくれたが、私はそれを笑顔でいなした。今無理をしなくて、一体いつ無理をするというのだろうか。
 現場に続く参道をひたすら走る。今まで生きてきて、こんなに速く走ったことはなかった。汗が滝のように流れ、わき腹が痛み、喉が引き攣れたように苦しかった。
 爪先が縺れて何度も前のめりになって転びそうになるのを必死で堪えて走り続けていると、人の気配が強くなり、口内に鉄の苦味が滲む。私の嫌いな血の匂いだ。嫌でも、死というものを連想させる。
「――直ぐに助けがくるから泣くんじゃねぇ!」
 聞き知った声が鼓膜を叩いたとほぼ同時に、視界が開けた。
「…こ、これは」
 横転して拉げた列車。粉々に砕けた窓ガラス。傷ついた枕木。泣き喚く人々。目を覆いたくなるほどの凄惨な現場が視界に飛び込んでくる。
「おい、名前!ぼさっとしてんじゃねぇよ!さっさと指示だせ」
 呆然として息を呑む私の意識を引き戻したのは、先ほどの声の主、嘴平さんだ。良かった。彼も無事だったのだ。
「嘴平さん、無事で良かった。状況を教えていただけますか?」
 負傷した人々を次々と担ぎ上げて一列に並べていく嘴平さんに問いながら、私は現場の人々に視線を順番に走らす。
 当初聞いていた通り、乗客数百人に被害が及んだようだが、自力で避難出来る人々も多く、深手を負っている者は確認出来なかった。
「鬼は死んだぜ!この俺様の活躍でな!怪我人は多いが、誰も死んじゃいねぇ」
 嘴平さんが、担ぎ上げていた負傷者をどさりと地面に下ろしながら言う。「誰も死んじゃいねぇ」という台詞に、心の帯を緩めたような安堵が全身に広がった。
 綻びそうになる唇を引き結んで気合を入れ直す。いくら死者も重傷者もいないからといって、処置が遅れれば致命傷になる場合もある。胡蝶様の教えを思い出し、私は身長に嘴平さんに抱えられていた怪我人を観察する。
 服装からして、どうやら列車の乗務員のようだ。両足を負傷しており、自力で動かせる状態ではなさそうだ。ひょっとすると、一番重症かもしれない。嘴平さんに聞けば、電車の下敷きになっていたというではないか。
 胡蝶様から聞いた話によると、身体の一部が重量物に挟まれ長時間圧迫されると、解放後に挫滅症候群という症状を引き起こす可能性が高いそうだ。突然心臓が止まり、命を落とす危険性も高く、注意して観察するようにと教えを受けていた。
「出血は少量ですが、挫滅症候群が怖いですね…輸液をしながら処置を開始します。まずは点滴の路を――」
「――名前さぁぁぁぁん!」
 輸液と針の準備をしていると、背後で聞こえた鼓膜が破れそうなほどの大声に驚かされる。振り向くよりも早く、私の腰に腕が伸びる。視界の端で少年隊士の黄色の髪が揺れた。彼の背には竈門さんの妹さんも背負われている。
「我妻さん!無事で良かった」
「名前さん、禰豆子ちゃんの傷診てよ!なんか血がいっぱい出ててさ、大丈夫かな」
「我妻さん、落ち着いて。彼女は大丈夫です。傷も大きくなさそう。…それよりも我妻さんの額の傷の方が大きいので、このガーゼでしっかり押さえて止血しておいてください」
 涙と鼻汁を顔中に張り付けて私の衣類に縋りつく我妻さんに苦笑しつつ、ガーゼを渡す。ずびずびと鼻を啜りながら顔を上げた我妻さんは、自分のこめかみに手を這わして出血を確認したあと、指示通りにガーゼを宛がった。
「こんなの掠り傷だけど…。煉獄さんが、横転直前でいっぱい技を出してて、被害を最小限に抑えてくれたんです」
「きょ…れ、煉獄様が?我妻さん、煉獄様も、無事なんですよね」
 一瞬口を噤んで、我妻さんに窺うように問う。すると我妻さんは感嘆の息に混ぜてしみじみと言った。
「はい。無事もなにも、煉獄さんは無傷でしたよ。…柱って凄いんですね。多分、今、先頭車両の炭治郎の所に行ってるんじゃないかな」
「無傷…そっか…よかった」
「おい、名前!こっちの奴はどうすんだよ」
 私と我妻さんの間に嘴平さんが割って入る。彼の肩には、小柄な女性が二人担がれていた。
「嘴平さん、ありがとうございます。そのご婦人達は向こうに寝かせて貰えますか。順番に確認します」
「名前さん、俺にも何か出来ることありますか?」
「ありがとうございます。そしたら我妻さんは――」
「…強ぇ敵の気配がする」
 再び私達の会話を遮って、喉の奥から絞り出したような低い声で嘴平さんが呟いた。安堵が一瞬にして不吉な予感へと塗り替えられ、身体中を駆け巡る。
「嘴平さん…敵って」
「知らねぇ!向こうから気色悪ぃ気配がすんだよ!兎に角、俺は三太郎の所にいくぜ!」
「伊之助!おまっ、まてっ!」
「嘴平さん!」
 嘴平さんは怒鳴りつけるように言うと、勢いよく地面を蹴って先頭車両の方へ駆けていく。「三太郎の所」とは、竈門さんのことだ。とすると、先ほどの我妻さんの話によれば、それは杏寿郎さんの所、ということなのか。
 嫌な予感は益々高まり、心臓が早鐘を打って私の身体を打ち付ける。頭上の空にはうっすらと青みがかかっており、長い夜の終わりは近い。それなのに、私の心はまるで嵐が来るような雲行きの怪しさを感じる。
「我妻さん、ごめんなさい!私も嘴平さんと一緒に――」
「名前さん!この人、何かおかしいです。いきなり痙攣して、すぐ動かなくなったんだけど…」
 嘴平さんの後を追おうと慌てて腰を上げた所で、我妻さんの切羽詰まった声が鼓膜を打つ。はっとして、目下に横たわる乗務員の男性の呼吸を確認すれば、息をしていなかった。冷静さを欠いた頭で心拍を確認すると、心臓は止まっている。これは恐らく、挫滅症候群の症状だろう。
「っ、我妻さん!心臓が止まりました、心肺蘇生します!手伝って下さい」
「は、はいっ!」
 胡蝶様の教えの通り、気道を確保し胸骨圧迫を開始する。この人が無くなったら、夫を失った私のように辛い思いをする家族がきっといる。私が救わなければ。現場で、この人を救えるのは私しかいないのだから。
 杏寿郎さんのことが堪らなく心配でどうしようもなかった。しかし、私はひたすら手を動かし続けた。
 大丈夫。杏寿郎さんなら、きっと大丈夫。心の中で、神に祈りを捧げるように、何度も何度も呟いた。

 東の空が明るんできた。山の端から朝日が昇り、橙の光がゆっくりとこの世に零れ広がる。
 乗務員の男性の心拍と自発呼吸はすぐに再開した。処置が早かったのも大きいだろう。腹の底から息を吐いて、こめかみを伝う汗を拭って空を仰げば、青の中に小さな黒い点のような影。徐々に大きくなるそれは、杏寿郎さんの鎹烏だった。
「カァァーッ!負傷!煉獄杏寿郎、上弦ノ參ト格闘ノ末負傷!重症、重症!」
 一番恐れていた伝令が、鎹烏の口から飛び出した。
 背中に戦慄が走り、身体中の汗腺から冷や汗が吹き出す。不吉を警告するように肋骨の内側で心臓が動悸を打つ。考えるより先に足が動いた。目頭が熱くなり、すぐに涙が噴きこぼれる。
 どうして悪い予感というものは、こうも的中してしまうものなのだろう。
 間に合って。お願いだから。
 先頭車両まで到着した私の瞳に飛び込んできたのは、泣きじゃくる竈門さんと、地面に膝を着いた杏寿郎さんの後ろ姿。隣には、その様子を茫然と眺める嘴平さんの姿があった。
 悽愴な現場に心臓が動きを止めてしまいそうだった。
 激しい戦闘を物語る裂けた地面が、大量の赤い液体をゆっくりと呑み込んでいくのが、少し離れた場所からでもはっきりと分かった。あれは、杏寿郎さんの血液だ。
 全身から血の気が引くのを感じた。一方で、目からは洪水のような涙が零れ落ちる。
「――竈門さん!はやくっ、はやく杏寿郎さんを横にして!」
 身体が引き千切れるような叫び声を上げて杏寿郎さんに駆け寄ると、既に意識はなかった。慌てて手首の脈を確認すれば、蚊の心音のような拍動を微かに感じた。杏寿郎さんの身体は、まだ温かい。私が知っている大好きな彼の温もりだ。
「まだ息があります!諦めないで!出血が酷い!竈門さん、嘴平さん、圧迫止血を!足を挙上して、兎に角、心臓に血を送って!」
「は、はい!」
 止まらない涙を手の甲で何度も拭いながら、竈門さんと嘴平さんに怒号のような指示を送る。二人の手によって横たえられた杏寿郎さんの顔は既に青白い。
 お願い、死なないで。死んじゃ嫌だ、杏寿郎さん。
 逞しい二の腕をゴムで縛り上げ輸血の路を確保しようと試みるも、既にほぼ機能を果たしていない心臓のせいで、浮かび上がってくる血管はない。必死で杏寿郎さんの腕を叩く。
「――名前さん!煉獄さん、息してないです!」
 その刹那、竈門さんの悲鳴に似た声が、死の宣告のように耳に滲む。
「っ、杏寿郎さんっ!杏寿郎さん!死なないで、お願い!絶対に死なないって約束したでしょ!」
 嗚咽とも怒号ともつかない叫びが喉を破る。目から零れ落ちる涙が杏寿郎さんの血の気が失われた顔に降り注ぐ。
 私は杏寿郎さんの頭部を持って気道を確保し、胸骨圧迫を開始する。五分心臓が停止してしまえば、杏寿郎さんはまず助からない。掌を重ね合わせて、渾身の力で心臓を外側から圧迫し続ける。
「お願い、お願いっ、動いて、動いて!」
 身体が弾み、涙が弾け飛ぶ。体力だけが奪われて意識がぼうっとする。身体は杏寿郎さんの血に塗れ、噎せ返るような鉄の匂いに気分が悪くなる。それでも私は手を休めなかった。
 しかし、杏寿郎さんの自発呼吸は戻らない。
 天国の夫でも、神様でも、仏様でも誰でもいい。どうか、彼を救ってください。死なせないで。私の、愛しくてたまらないこの人を。
 杏寿郎さんの唇を塞いで息を送り込む。合わせた唇は、冷たくて、苦かった。
 私の知る杏寿郎さんの熱は、いったいどこに消えてしまったというのだろう。