無神経な善人


 架台にぶら下がる輸血の袋をぼうっと見つめながら、私は小さな息を漏らす。溜息の原因は、先ほどの不死川様とのやり取りだった。胸中に立ち込めた灰色の雲は、全く晴れる気配はない。
「名前さん、お疲れですか?…後は私が診ておきますから、今日はもう上がってください」
 背後から聞こえた澄み通った高い声に振り返ると、胡蝶様が小さな唇に笑みを浮かべていた。
「胡蝶様、失礼しました。大丈夫です、ごめんなさい。輸血中は副反応がないかしっかり確認する、ですよね」
「ええ、でも、この方は容態も落ち着いていますから、問題ないですよ」
「でも――」
「医療に携わる者であれば、自分自身の健康管理もしっかりしないと。名前さんが倒れてしまっては、私達も困りますので」
 胡蝶様が、隊士の手首に手をあてて脈を確認しながら諭すように言う。
「ありがとうございます。でも、この方の輸血だけ、見届けてからにします」
「相変わらず仕事熱心ですね。では、手の空いている隊士に送らせましょう。もう日も暮れますし、夜は鬼が出て危険ですし――」
「いや、その必要はない!名前さんは、俺が送って行くので安心してくれ」
 胡蝶様の声を遮ったのは、杏寿郎さんの溌溂とした声だった。「杏寿郎さん」と言葉が飛び出す寸前で下唇を噛むと、杏寿郎さんは私を見て目を細めた。いつの間に診察室に入ってきたのだろうか。胡蝶様や不死川様もそうだが、柱に君臨する人達の人間離れした能力にはいつも驚かされてばかりだ。
「煉獄さん…。いつも申し上げていますけど、病室ではお静かに」 
「うむ、すまない」
「それより、どうして煉獄さんが?」
 胡蝶様が少しだけ首を傾げて、私と杏寿郎さんに交互に視線を送る。
「ああ、そのことなのだが、実は――」
「あ、あのっ!…今日は、夫の生前の任務のことで煉獄様にお聞きしたいことがあって。それでお時間を取っていただいたのです」
 咄嗟に口を衝いて出た嘘で、杏寿郎さんの言葉を封じた。杏寿郎さんが、息を呑む気配がした。
「…そうですか。煉獄さんが送ってくださるなら安心ですね。じゃあ名前さんを宜しくお願いしますね。名前さん、輸血が終わったら上がってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
 ひょっとすると勘の良い胡蝶様は何かを察してしまったかもしれない。しかし深く追求することはせず、隙の無い優しい笑みを残して診察室を後にした。胡蝶様が居なくなった診察室の空気は湿気を吸ったように重たくなった。
「あの、あと少しで終わります。…少し待っていていただけますか」
「…ああ。俺も、御館様に報告を済ませてから、また声をかける」
 空気を変えたい一心で、杏寿郎さんに向き直り無理やり言葉を絞り出す。視線が不自然に泳ぎ、彼の顔を直視出来なかったが、困惑と悲しみが混ざったような表情がぼんやりと見て取れて、私の左胸はぎゅっと痛んだ。

 今朝の甘ったるい空気が嘘のように、二人きりの食卓は静かだった。恋仲になったといっても、多忙を極める杏寿郎さんとゆっくり食事をする機会などそう何度も訪れない。この時間を大切にしたくて仕方がないのに、しんとしたやるせない空気が苗字家の居間に流れていた。
「…すまない。…やはり俺が無理を言ってしまったのだろうか」
 口火を切ったのは杏寿郎さんだった。食後に入れた煎茶は手つかずのまま、彼の前で湯気を立ち上らせている。
「違うんです。…ただ」
 杏寿郎さんが、先ほどの胡蝶様とのやり取りについて話しているのはすぐに分かった。恋仲であることを周囲に知らせたいと言ってくれた杏寿郎さん。それを承諾した私。それであれば私の先ほどの態度は何だ?と杏寿郎さんが思うのは当然のことだった。
「…寝台に横たわる隊士の方達を見ていて、自分だけがこんなに幸せでいいのかと、思ってしまったのです」
 本当らしく聞こえる嘘を吐く自分に嫌気がさした。直ぐにでも本当のことを杏寿郎さんに言うべきなのかもしれない。杏寿郎さんであれば、それでも構わないと一蹴してくれるのではないか。
 しかし周りがそれを知ってしまったらどう思うだろう。彼の家族が知ってしまったらどう思うだろう。杏寿郎さんの人生が、取り返しがつかなくなるようなことはしたくなかった。でも私は、彼と一緒にいる時間を手放すことも辛かった。私は、本当に狡い。
「初めてなのだ…こんな気持ちになったのは」
「え?」
 杏寿郎さんの低い声が独り言のように漏れた。
「貴方を…名前さんを知って、愛しいという気持ちを、知ったように思う。勿論家族や仲間も大切で、尊い存在だ。…だが、名前さんを思う気持ちとは、違う。貴方のことを考えて、触れて、触れられると、自分でも気持ちの制御が追いつかない時がある。…情けないことだが」
「杏寿郎さん…」
 熱烈な愛の告白に胸が高鳴る。一方で、心臓の切ない痛みが増していく。
「…存外俺も浮かれていたのだな。夫君を亡くしてまだ半年も経たぬという名前さんに無理を言った。…貴方の気持ちの整理が出来るまで、俺は待つ」
 杏寿郎さんは私の手を引いて、もう片方の手で髪から頬に手を滑らせると、そのまま流れるように口付けた。唇が甘く痺れる傍らで、彼の真っ直ぐな言葉が針のようにちくちくと心に刺さった。無理をしているわけではない。本当は杏寿郎さんの気持ちに精一杯答えたかった。
 それなのに私は怖くて仕方がなかった。私という存在が、杏寿郎さんの、煉獄家の未来を誤った方向に導いてはしまわないだろうかと。

 あの日からまたひと月が経った。真冬の冷たさを持つ風の中にも、淡く春の匂いが混じるようになったとある日に、私は長期の任務から帰還した杏寿郎さんと肩を揃えて街を歩いていた。こうして二人で街を歩くのは、とても久しぶりだった。
 最近は、鬼の活動が以前にも増して活発になっているのだそうだ。そのため杏寿郎さんは任務に出ずっぱりであったし、蝶屋敷に運ばれてくる隊士の数も明らかに多くなっていた。そして私は互いの忙しさを理由に、大切なことを何一つ杏寿郎さんに伝えることが出来ていなかった。
「…ここに来るのも、随分と久しいな」
 しみじみとした声が耳に滲む。杏寿郎さんを見上げれば、凛々しい瞳が優しく綻ぶ。
「ええ、本当に。そうですね」
「あの時は、名前さんが無茶をしたな」
「でも結局、杏寿郎さんが助けて下さいましたよね」
 あの日のことが無ければ、鬼殺隊や医療にも関わることもなかっただろうと思うと、不思議な気持ちになった。そういえば、あの日の親子は元気だろうか。ふと幼子の可愛らしい顔が脳裏を掠めたと同時に、着物の裾がくいと引かれる。慌てて足元を見れば、計ったように幼子がこちらを見上げていた。数か月前と比べるとすっかり歩行も安定して、子供の成長の早さを感じさせる。
「この子供は」
 杏寿郎さんが少しだけ目を見開く。彼も覚えていたのだろう。私は微笑して頷くと、よっこらせと幼子を持ち上げる。幼子は重かった。軽いのに重かった。命の重さだ。
「また一人で歩いてるの?お母さんは?」
「まま、まま」
 腕の中で笑顔を振りまく幼子から周囲に視線を移すと、いつかの母親が慌てた様子で走ってくる姿が目に入り、私は幼子の手を持って彼女に振ってみせた。
「ご無沙汰しております。また、お会い出来るなんて。…貴方様にはお世話になりっぱなしで。目を離すとすぐにどこかに行ってしまうんですよ」
「私もお会い出来て嬉しいです。少し見ないうちに随分と大きくなりましたね。ほら、お母さんに心配かけちゃだめだよ」
 申し訳なさそうに眉尻を下げる母親に幼子を戻すと、小さな天使の笑みが弾ける。
「今日は旦那様も一緒なんですね。旦那様にももう一度お礼を言わなければと思っていたのです。…あの時は、身を挺して息子を守って下さって本当にありがとうございました。お二人には一生足を向けて寝られないです」
 私と杏寿郎さんは思わず言葉に詰まり、顔を見合わせる。杏寿郎さんは私の「旦那様」では勿論ないのだが、それを否定するのもなんだか違う気がした。
「お二人は新婚さんなんですか?前回も、お二人でしたよね。お子さんはこれからかしら」
 返事に窮していると、母親は興味深そうな目で私達を見て言葉を続けた。彼女に悪気がないことは明々白々なのだが、その言葉は私の心に鋭い刃物となって突き刺さった。
「奥さん、俺達は……名前さん、どうした?」
 口を開いた杏寿郎さんが一旦口を噤んで私に問う。その声は少し動揺が滲んでいた。当然だ。私は発作のように突き上げてくる涙を堪えきれずに、突然泣き始めたのだから。
「やだ、私ったら、何か」
「ち…違うんです…っ、ごめんなさい…っ」
 困惑した母親の声に申し訳ない気持ちになって、私は勢いよく頭を振って否定する。しかし、唇を噛み締めて、いくら泣くまいと思っても、際限なく涙が溢れて来た。
「名前さん、一度家に帰ろう。奥さん、驚かせてすまないな」
 見かねた杏寿郎さんが、私を胸に引き寄せて慰撫するように耳元で囁いた。厚い胸に顔を埋めて聞く杏寿郎さんの声はいつも以上に優しかった。
 おろおろする母親の気配に心苦しさを感じながら、私は杏寿郎さんの胸に縋って帰路についた。