射しこむ影


 煉獄様と気持ちを通い合わせてから少し経ち、私達は新しい年を迎えた。軽く閉じていた瞼を持ち上げれば、目の前の夫の墓碑を除いて、真っ白な雪が視界を純白に埋め尽くしている。
 昨晩から降り続いた雪は朝方ぴたりと止んで、からりとした上天気だった。目がくらむような雪景色のせいか、森閑とした墓地がさらにしんとし物寂しさを強めていた。
「よし、行くか」
 隣で時間をかけて黙祷していた煉獄様が立ち上がり、まだ膝を折ったままの私の眼前に大きな掌を差し出した。面映ゆさを感じつつも、私は短く礼を述べてその手を取る。冬であることを忘れてしまいそうなほど温かな手が私を軽々と引き上げて、さも自然な流れで指同士が絡み合う。
「煉獄様、随分と長い黙祷でしたね。…いつも、ありがとうございます」
 煉獄様に手を引かれ、彼の半歩後ろを歩きながら問う。
 私達二人を除いて誰の足跡もついていない新雪を踏みしめると、さくさくと心地よい音が耳に流れ込み、無傷の白さがきらきらと光った。
「…まだ、俺と名前さんのことを報告出来ていなかったからな。先月の月命日は、任務と被ってしまったし」
 少しだけ首を捻り目を細めて私を見る煉獄様に、頬がじわじわと熱くなる。
「煉獄様…ありがとうございます」
「むぅ、もう煉獄様はなしだと言ったはずだぞ」
「あ、ごめんなさい。…その、まだ慣れなくて。き、杏寿郎さん、ありがとうございます」
 拗ねたような表情を浮かべていた杏寿郎さんの顔が、打って変わって笑顔になる。こういうところは本当に可愛らしくて愛しくて、思わず釣られて口元が緩んだ。
 杏寿郎さんと恋仲になってから、彼への気持ちは日に日に大きくなっていった。
 夫を自分の中から消すことが出来ないと告げた私ごと、愛したいと言ってくれた杏寿郎さん。そして、私の幸福を何よりも願ってくれた優しい夫。私は本当に果報者だ。
 一方で、一生分の幸せを全てかき集めたようなこの幸福な時間が、時々怖いくらいだった。夫の訃報が突然だったように、この幸せが一瞬にして崩れ去ることだってある。幸せはいつも、薄氷の上に成り立っている。
 目の前の大きな背中を見つめぼんやりとそんなことを考えて、私は小さく頭を振った。折角杏寿郎さんと気持ちを通わせることが出来たのだ。だからこそこの時間を、私は大切にしなければいけない。
「名前さん、雪で見えにくいがここは少し高い段差が――」
 杏寿郎さんの注意喚起を最後まで聞く前に、私はふかふかの雪に足を取られ、身体が前につんのめる。杏寿郎さんの厚い胸板に受け止めてもらえなければ、私は地面を転がり落ちて雪だるまになっていたかもしれない。
「…っ、ご、ごめんなさい」
「ふ、考えごとか?気を付けてくれよ」
 杏寿郎さんが苦笑して、私の顔を覗き込む。端正な顔が驚くほど近く、真昼間の墓地でありながら、私達の間を漂う空気が途端に色めく。
「――名前さーん!手、借りられますか?」
 唇が触れ合うまで、あと一センチの距離もなかっただろう。お約束のように少し遠くで揺らいだ声が、容赦なく甘い空気を切り裂いた。この声は、アオイちゃんだ。新雪を踏みしめる足音が、徐々に近づいてくる。
 私は杏寿郎さんからぱっと顔を背けて、身を捩る。するとこちらの意図を汲み取ってくれた様子の杏寿郎さんが、私の身体を解放した。
「あぁ、煉獄様と一緒だったんですね。今日は旦那様の月命日でしたもんね」
 すっかり葉を落としてしまった大きな広葉樹の陰から、「こんなところにいた」とひょっこり顔を出した彼女はいつも通りだった。特に私達の関係を訝しむ様子もない。
「そ、そうなの」
「まだ勤めの時間じゃないのにごめんなさい。入院中の隊士の処置をしたいんですけど、体躯が大きくて、もう少し人手が欲しいんです」
 勝気な瞳が心苦しそうだった。私は左右に頭を振って、「お墓参りが終わってからでいいですから!」と言葉を残して去って行く彼女の後ろ姿を見送った。
 もう墓参りは終わっているのだけれど、それを伝える時間はなかった。
「煉獄様、それでは私は行きますね。…今日は、うちで一緒に夕食を――」
 私達のやりとりを近くで眺めていた杏寿郎さんに向き直り声をかけるも、次の瞬間には再び距離を詰められて唇が合わさっていた。
「…煉獄様ではないだろう」
 再び同じ言葉を口にしたら、またその唇を塞いでやると言わんばかりの表情だった。大胆ながらも齢相応の可愛らしさを残す彼を目の当たりにした私の胸は少女のように高鳴って、同時に母性のような気持ちが湧きあがる。
「…杏寿郎さん、行ってきますね」
 微かな風に靡く金糸にそっと触れると、杏寿郎さんは耳朶を赤く染める。自分では大胆なことを仕掛けてくる彼だが、私から触られることに少し抵抗があるのかもしれない。
「ああ、隊士達を宜しく頼む。……名前さん」
 金糸に伸びた私の手首を優しく掴んだ杏寿郎さんが、真剣な眼差しで私を見つめる。
「何?杏寿郎さん」
「…俺達のことを、話してもいいだろうか」
 呟くように言った杏寿郎さんは、少しだけ決まりが悪そうだった。
 杏寿郎さんと恋仲となってひと月以上が経過した。周囲に付き合いを隠したいわけではなかったが、鬼殺隊で柱という最高位に就く杏寿郎さんに迷惑をかけてしまうのではないかという漠然とした不安があった。
 私は杏寿郎さんの元部下の妻なのだから、この関係を公表すれば、邪推する者や快く思わない者が出てくる可能性だってある。
 月島さんの存在も気になった。彼女はひょっとすると杏寿郎さんに特別な感情を抱いているのかもしれない。彼女が私達の関係を知ったらどう思うのだろう、と考えると胸が苦しかった。
 しかしそれも、手前勝手なことではないか。目の前のこの青年は、全部ひっくるめて私を愛すると言ってくれたのだ。たとえ障害があったとしても、私も彼の気持ちに答えたかった。
「はい。…私は、構いません。杏寿郎さんがご迷惑でなければ」
 ゆっくりと首肯した私に向かって相好を崩した杏寿郎さんが、再び私を胸の中に収めた。
「迷惑なものか。…俺の方こそ、駄々をこねている子供のようだな。不甲斐ない…だが」
 低く心地よい声が鼓膜を擽ったかと思えば、再び私の唇は杏寿郎さんのそれと重なっていた。
「…落ち着かないのだ。最近の名前さんは本当に輝いて見える。…そんな貴方に俺と同じような気持ちを抱く者も――」
 少しだけ離れた唇から漏れた可愛らしい彼の嫉妬に思わず頬が緩み、今度は私が形の良い唇を奪った。
「大袈裟です。夫もそうですけど、杏寿郎さんも大概物好きですね」
 一瞬目を見開いた杏寿郎さんが、幸せそうに微笑んだ。痺れを切らしたアオイちゃんが戻って来はしないだろうかと思いながら、私達はもう暫くの間、子犬同士みたいに弾むような口付けを何度も何度も交わした。

「なァ、あんた、煉獄と恋仲なのかァ?」
 目の前で私の処置を受ける不死川様の口から飛び出した言葉に、手中のピンセットが落下する。微かな金属音が不死川様と二人きりの処置室に響いた。
 蝶屋敷にお世話になって数か月、生傷が絶えない不死川さんの処置をする機会も多く、私達の関係は、初対面の時とは比べ物にならないほど砕けた関係になっていた。しかし、こんな風に色恋の話をするのは初めてだった。
「ご、ごめんなさい」
「随分慌ててんなァ。俺が知ってたらまずいことでもあんのかよ?」
 狼狽の色を隠せない私に不死川様が苦笑して、代わりに落下したピンセットを拾いあげ手渡してくれる。
「ありがとうございます。…でも、どうして…ご存知で」
「…どうしてって…あんな、鬼殺隊の墓地で堂々と乳繰り合ってたら、嫌でも目に入んだろォ」
 頭をぽりぽりと掻いて眉根を寄せた不死川様の言葉に、顔がカッと熱くなる。不死川様の傷口から噴き出す血液よりも私の顔は赤いのではないかと思うほどの熱さだった。
「あ、あの、えっと」
「別に隠してるなら周りに言うつもりはねェから安心しろ」
「その、隠しているわけじゃなかったのですが」
「…まぁ、あんたの気持ちが分からないでもねェが。…旦那を亡くして日も浅ェし、相手は炎柱様だからなァ」
 不死川様が全てを見透かしたような瞳で私を見る。相変わらず鋭い光を放っているけれど、それ以上に憂慮が滲む優しい眼差しだった。
「…相変わらず不死川様は鋭いですね。…仰る通り、未亡人の私と恋仲などと、煉獄様の面目を潰してしまうかと思ったのです。…それに、自分も周囲からどう思われるのかなと、少し怖い気持ちがありました。…自分勝手ですよね」
 優しい不死川様を前にして、思わず私の口からは本音が零れた。誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。
「そんなもんだろォ人間なんて」
「…でも、煉獄様がどんな私でも受け入れると言って下さって…。亡くなった夫も私の幸せを望んでくれていました。…だから、私も気持ちに答えたいと思ったんです」
「なんだァ、結局のろけかよ」
「す、すみません」
「いや、よかったじゃねェか。…じゃぁ近々祝言も挙げんのか?煉獄ん所は代々鬼狩りの家系だから、向こうの家に入ったら何かと面倒なことが多そうだが、その様子なら心配いらねェか」
 口元の笑みを深めた不死川様と対照的に、私の身体が一瞬にして強張った。恋仲となった私達のその先に、結婚があると考えるのは当然のことだ。杏寿郎さんだって、きっとそのつもりで私に想いを伝えてくれたはずだった。だが、不死川様が何気なく言ったであろうその言葉が、私の心臓を驚かす。
「代々…鬼狩りの」
 確かに生前の夫も、杏寿郎さんのお父様も炎柱であったと言っていた。明らかに声の調子が変わった私に眉を顰めながらも、不死川様は続けた。
「ああ。炎の呼吸の起源は煉獄家だと聞いたぜェ。何百年と前の話だ。炎柱は代々煉獄家から輩出されている…」
 後に続いた不死川様の話は、右耳から左耳に通り抜け、殆ど理解出来なかった。表層的な相槌を打つだけの私をいよいよおかしいと思ったのか、不死川様が眉間の皺を深めて「大丈夫かァ」と私の顔を覗き込む。
「…不死川様。やはり、今日見たことは他言無用でお願い出来ないでしょうか」
 囁いているような弱々しい声だった。片眉を吊り上げた不死川様は、一瞬首を傾げるも、そのままゆっくり頷いてくれた。
 やはり幸せは、いつも不安定だ。あっという間に足元の薄氷が崩れ落ちる。
 私は杏寿郎さんと一緒になるべきではない。夫との子に恵まれなかった私が、大事な煉獄家の跡継ぎを身ごもることは、きっと出来ないだろうから。