恋をするには早すぎる


 とある日の午後、私は患者のいない診察室で、胡蝶様の言葉を一字一句聞き漏らすまいと、一心不乱に手帳に筆を走らせていた。胡蝶様が貴重な時間を割いてわざわざ私だけのために「輸血」の話をしてくれていたからだ。
「胡蝶様。この血液型というのは隊士全員のものが分かるのですか?」
「ええ。血液型は二十年ほど前に西洋で発見されたのですよ。鬼殺隊でも、隊士全員の血液型は把握しています」
「では、西洋では人から人へ直接血液を投与しているということですが、鬼殺の現場でそれは難しいですよね?」
「そうですね。ですから、少し特殊な技術を使って血液を凍結しています。それを戦場で投与する、というイメージですね」
「…凄い。そんな技術があるんですね」
「名前さんは本当に勉強熱心ですね」
 分厚い医学書を閉じた胡蝶様は、関心します、と付け加えて笑みを零す。面と向かって褒められると気恥かったが、私はゆっくり頷いて言葉を続ける。
「…家族や仲間を亡くして辛い思いをする方を…少しでも減らすために何かできないか、大切な人を守れたらって、それだけなんですけどね」
「ご立派です。名前さんなら、きっと多くの隊士を救ってくれると私も信じています」
「胡蝶様…」
「それにしても、もう三ヵ月ですか。早いものですね」
「…そうですね」
 胡蝶様が亡くなった夫のことを言っているのはすぐに分かった。今日は夫の三度目の月命日だった。息を吐くように呟いた私は、ふと室内の窓に視線を移す。窓の向こう側はすっかり寒さに向かう季節になっており、空っ風が、時折窓ガラスを叩いて通り過ぎていく。
「名前さん、お墓参りに行かれるのですよね?診療所も落ち着いてますし、今日はもう上がってください。大分日も短くなりましたし、あと一時間もすれば日も暮れてしまいますから」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
 胡蝶様の気遣いを素直に受け取った私は、一礼して診察室を後にする。墓前に供える仏花を買いにいかなければ、と駆け足で胡蝶様のお屋敷を出ると、私の名を呼ぶ溌溂とした声が耳に届く。左胸がドクンと音を立てたが、気づかないふりをして後方を振り返る。
 視線の先には予想通り煉獄様が私に向かって手をあげていた。一つだけ予想外だったのは、煉獄様の隣に、以前街で遭遇した女性隊士の月島様の姿があったことだ。
「名前さん、もう上がりか?」
「あ、はい。今日は夫の月命日で、今から墓参りに行こうと思っていたのですが…」
「俺もそれを聞きに来たのだ。一緒に行っても構わないか?」
 煉獄様が歩み寄って私に問う。私を見下ろす凛々しい瞳が優しく綻び、心臓の鼓動が僅かに早まったような気がした。
 煉獄様は相変わらずこうして私を気にかけてくれていた。責任感の強い人なので、きっと夫の死に責任を感じてくれてはいるのだろうが、彼の優しい瞳に見つめられると、それだけが理由ではないのではないか、という妙な期待が胸をざわつかせた。
「…勿論それは、構わないですけど」
 煉獄様の予想外の申し出に心がじんわりと温かくなり、ゆっくりと首を縦に動かし承諾する。しかし、少し離れた所でこちらのやり取りを睨むように見つめる月島様の眼差しが気になって、私は思わず煉獄様と彼女の間で視線を行き来させる。
「ああ、月島か。確か名前さんも街で会ったことがあったか。彼女は俺の部下なのだが、任務で少し足を捻ってしまったようでな。胡蝶に診せようかと思ったのだが」
 私の視線に気がついた煉獄様が説明を加える。負傷している素振りを見せる様子は全くなかったが、怪我人と聞いてしまえばこのまま帰る訳にもいかない。私は考えるよりも先に、月島様に歩み寄って声を掛ける。
「私の方で手当てさせていただきます。診察室まで歩けますか」
「…心配は不要です。そんな軟ではありません」
 月島様は素っ気なく答えて私から顔を背けた。彼女と会話をするのは、街で煉獄様に助けていただいた日以来であったが、相変わらずどこか冷たい印象を受けた。
「大変失礼しました。それでは、ご案内しますね」
「いいのか名前さん。これから墓参りだろう?」
「大丈夫です。そこまで時間はかかりませんので」
「そうか、すまないな。では頼む」
 安堵した表情を浮かべた煉獄様は、少し外すと言って直ぐに視界から姿を消した。毎度のことではあるが、その目にも止まらぬ速さに関心していると、錐のような鋭い言葉が私の耳を刺した。
「貴方、一体何様なんですか」
「…え」
 それは、月島様の口から紡がれたものだった。
「炎柱様や蟲柱様に取り入って、何なんですか?何が目的なんですか?…あの日…炎柱様にあんなに酷い言葉を浴びせておいて、よく平然と接することが出来ますね?」
 まるで詰問のような口調で問われて、私は言葉を失う。月島様の綺麗な顔が、露骨に不快感を表現していた。
 あの日、というのは私が夫の訃報を聞いた日のことだろう。蝶屋敷での私と煉獄様のやり取りを月島様は聞いていたのだろう。
「…ごめんなさい。あの時は、私も夫を失ったばかりで取り乱してしまって。…煉獄様に酷いことを言ってしまったと本当に後悔しました。でも、でも今は、本当に煉獄様に感謝しています。彼のお陰で前を向くことが出来たと、そう思っています」
 月島様の刃物のように鋭い視線を必死に受け止めて、私はゆっくり言葉を紡ぐ。しかし、月島様は畳み掛けるように私に冷や水を浴びせた。
「炎柱様が何故貴方に気をかけているかご存知ですか?旦那様が炎柱様に残した遺書のせいですよ。遺書に、自分が死んだら妻を頼むと書かれていたから。炎柱様はお優しいから、無視出来ないんです!」
 悲鳴に近い月島様の声が耳に滲む。今度こそ私は本当に何も言えなくなってしまった。
「まさか、炎柱様が気を遣って下さることに他に理由があったとお思いですか?…私は、貴方を許せません。炎柱様は最後まであなたの旦那様を救おうとした。…身体を血で染めながら、必死に現場で救命措置をしていたのは炎柱様です。それなのに貴方は何も知らずに一方的に炎柱様を罵倒して、何食わぬ顔で傍にいる。面の皮が厚くて驚きます」
 最後は吐き捨てるように言って、月島様は蝶屋敷には寄らずに姿を消した。私は奈落の底にひとり突き落とされたような気持ちで、呆然と地面を見つめることしか出来なかった。
 
「――さん、名前さん!」
「あ…ご、ごめんなさい。ぼうっとしてしまって」
「大丈夫か?先程から、様子が変だぞ?」
 煉獄様が眉を顰めて私を見る。
 結局あの後、私に代わって仏花を準備してくれた煉獄様と夫の墓参りをすませた。当然の如く「送って行こう」と言ってくれた煉獄様の言葉に、心臓を爪で引掻かれたような痛みを覚えた。
 すっかり辺りは闇が立ち込めて、深い藍色の冬空には、星が淋しそうに音もなく瞬いていた。夜の墓地は、まるで墓の中にいるみたいな静寂で溢れていた。私達の地面を踏みしめる音だけが、静謐な空間に響く。
「暗くて足許が危ない。掴まってくれ」
 段差を踏み外してしまわないようゆっくりと足を進めていた私の手を、煉獄様が取った。きっと先ほどまでの私なら、素直に煉獄様の気遣いを受け入れることが出来ただろう。しかし、月島様の口から真実を聞かされてしまった私に、煉獄様の優しさを素直に受け入れる余裕などなかった。
 夫が煉獄様にどんな遺書を宛てたのかは分からない。しかしその遺書に、私のことを気にかけて欲しいと書かれていたことだけは事実なのだろう。煉獄様は部下の残した遺言通り、私を気にかけてくれていただけなのだ。煉獄様にとってはそれ以上の気持ちなどない。
 酷く惨めで悲しい気持ちになった。心臓を鷲掴みにされたような苦しさが襲う。その理由は明白だった。
 煉獄様といると優しい気持ちになれた。煉獄様といると、初恋を知った少女のように胸が弾んだ。煉獄様といると、自然と頬が緩んだ。
 私はきっと、煉獄様に恋をしている。
 しかしその恋心に気がついた瞬間、私は自分を鼻で笑いたくなった。三ヵ月前に夫を亡くした未亡人が何を馬鹿げたことを言っているのだろう。煉獄様を酷く傷つけてしまった自分が、彼に恋だのとよくも言えたものだ。
 まるで最初から何もなかったかのように自分の気持ちに蓋をして、私は声を絞り出す。
「煉獄様…もう気を遣っていただかなくて結構です」
「…名前さん?」
 突然足を止めた私を振り返った煉獄様が不思議そうな表情を浮かべ、窺うように私の顔を覗き込む。
「夫の遺書に書かれていたのですよね…。私の世話を頼むって。…もう、夫の遺言は忘れて下さい。私のことはいいので、煉獄様は煉獄様のやるべきことをしてください」
「……名前さんがどこでその話を聞いたか知らないが…俺は、俺のしたいようにしているだけだ」
 訴えかけるように切実な声を震わせた私とは対照的に、煉獄様の口ぶりはいつにもまして力強かった。
「煉獄様は勘違いなさっています。確かに煉獄様は、ご自身がしたいようにしているのかもしれません。自分の気持ちに忠実なのかもしれない。でもそれは、貴方の責任感が人一倍強いからこそ、そう思うのではないですか。煉獄様は、自分で自分に責務を課してしまっている。それは煉獄様の本当の気持ちではないはずです。気がついていないだけできっとそう。私はもう貴方を縛るのは嫌。もういいんです。もう、私は大丈夫ですから」
 煉獄様に口を挟ませまいと、私は息継ぎする間もなく喋り続けた。煉獄様は虚を衝かれたような表情を浮かべてこちらを見ていた。
「ごめんなさい…先に帰ります。今晩は、胡蝶様のお屋敷にお世話になりますので、ここで大丈夫です」
 一方的に言った私は、俯いて煉獄様の手を解いた。自分からそうしたにも関わらず、呆気ないほど簡単に離れた手に、胸が切なく硬直した。これ以上彼と一緒にいると、この気持ちが涙となって洪水のように溢れてきてしまいそうだった。私は唇を噛み締めて、地面を蹴って煉獄様の横を通り抜ける、はずだった。
 次の瞬間、私は強い力で抱きしめられていた。それは、いつか街で救われた時よりも、ずっと強い力だったかもしれない。
「…名前さんの言う通り、最初はそうだったのかもしれん。確かに苗字が俺に宛てた遺書には、貴方を頼むと、そう綴られていた。俺は、自分の責務を果たさねばならないと、そう思った。…しかし、今はそうではない」
「れん…ごく…様…」
 耳元で囁かれる低い声が鼓膜を震わす。骨が砕けてしまいそうなほど強く抱きしめられて、今度は自分で振り解くことなど到底出来そうもなかった。心臓が異常なほど早く身体を打ち付けている。触れ合った部分から伝わる煉獄様の心音も同じ律動を刻んでいた。
「俺は……俺は一人の男として貴方を守りたい」
「っ…」
 煉獄様の声に思わず息を呑む。彼の腕の中にすっぽりと収まった身体が熱を帯びていく。
「この三ヵ月、色んな名前さんを見た。怒っている姿も、泣いている姿も、笑っている姿も、悲しみの底から這いあがって…前を向く強い姿も。…俺は、俺はそんな貴方が…どうしようもなく愛しい」
 低く、力強く紡がれた言葉に熱い涙が突き走る。心が嬉しさに咽ぶ。それなのに、私の口から零れたのは、煉獄様を拒絶する言葉だった。
 脳裏にこびりついている夫の優しい微笑み。もう私の元に生きている夫が返ってくることがなくても、彼を忘れることはない。自分が愛した人なのだから。
 こんな気持ちで、煉獄様の優しさに甘えること、縋ることは出来ない。そんな自分は許されないような気がした。
「…離してください。…ごめんなさい…っ、ごめんなさい」
 煉獄様の腕の力が一瞬緩んだ。その瞬間を逃さなかった私は、煉獄様の身体を突き放す。再び勢いよく地面を蹴ると、墓地の麓の蝶屋敷に向かって、冷たい冬の風を切って駆けた。