※葛+久保



(自分のことが分からない、どこにいるか分からない。そんな僕を分かってくれる人なんていない)



目が覚めた時から体が妙に気怠いとは思っていた。まるで水を吸った重い服をそのまま着ているような、いつもより動きにくい腕や足腰。けれど、言ってしまえばそれだけの話で。動きにくいのは少し不便なことだったがそれでも特に気にはしていなかった。動きにくいだけで別に動かない訳じゃなかったから。だから放っておけばそのうち元に戻ってるだろうって、そんな体の異常は全部なかったことにして出掛けた。これが朝の話。そして、その末路が今の状態



ジャケットのポケットから鍵を出して扉を開ける、部屋の中は真っ暗で葛西さんはまだ帰ってきていなかった。今日、夜勤って言ってたっけなぁとぼんやり考えながら床に座り込んで煙草に火を付けた。持たれかかった壁が少し冷たい気がして気持ちがよかった



(…やっぱ、まずいなぁ)



普段から慣れ親しんでいる筈のセブンスターの味にどうしようもない違和感を感じてまだ長さが残っていたそれを灰皿に押し付ける。吸い込んだ煙が肺に届く前に喉に絡みついているような気がして、もったいないとは思いつつもそれ以上吸う気にはどうしてもなれない。煙草が不味いって感じるなんて久々だなぁと自分のことなのにどこか他人事のように思えた



朝から感じていた気怠さは今やただの怠さでしかない。全身に纏わりついてくる怠さと重さ、体感温度はすごく熱いかと思えば反対にすごく寒かったりするから正直よく分からない。僅かに走る頭への鈍痛がなにより厄介で、色々思考を巡らしてみようとしても中々上手くいかなかった。どう見たって典型的な風邪の症状、測ってはいないけど多分ちょっとくらい熱も上がってるんだろう。唯一幸いといえるのは吐き気をほとんど感じていないことで、ここにそれが加わっていたならもっときつかったに違いない



(風邪引くなんていつぶりだっけ、家にいた頃はめったに風邪なんて引いたことなかったし)



一通り自分の体調を分析できるくらいにはまだ余裕がある。そのことに少なからず安堵した、けれど久々に体験する感覚に意識は蝕まれてしまっていたのかもしれない。駄目なことだと分かっていながら何故か昔のことを思い出した。なにもない、なにも分からない、色一つない遠い遠い過去のこと



(…ああ、そういえば)



そういえば一度だけ風邪を引いたことがあったっけ。寒かった冬のことだったのか、それとも違う季節のことだったのか。いつの頃の話だったかはもうすっかり忘れてしまったけれど覚えている。どうにもならない熱と関節の痛みを抱えて、体調が回復するまでひたすら独りで眠り続けて、苦しいと寂しいと手を伸ばしても握り返してくれる手はそこにはなくて、誰もいない誰も見ていない、あの薄暗い部屋で永遠にも思える時間を過ごした。"ああ、自分を見てくれる人はこの世界のどこにもいないんだ"って



今更なことを改めて突きつけられた、そんな自分がなにより惨めで馬鹿馬鹿しくてー



「…なんにもないんだもんなぁ、当たり前だけど」



小さくぼやいた声が僅かに掠れてるのがなんだか可笑しくて自嘲が零れた、わざわざ言葉に出してみるまでもない。自分にはなにもないしなにも分からない、なまじなにかを抱えている方がきっと辛い。それなら予めなにも持っていない方が楽だと思うから、だから自分を見ていて欲しいなんて願うのも浅はかなんだ



(余計なこと考えてないでさっさと寝よ、明日の朝には治ってるといいけど)



このまま眠ってしまいたい衝動を抑えて重い足腰を起こしかける、けれど足腰が起きるより先にまず玄関の扉が開いた。一瞬鍵をかけていなかったことを思い出したが辺りが明るくなった瞬間、扉の前に立っていた顔を見て心配は杞憂に終わった。暗闇に慣れていた目に電気の明かりはやけに眩しかった



「ああ、葛西さんか。おかえりなさい」


「…誠人、お前居たのか。居るなら電気くらいつけろ」



そう言って出迎えた俺に葛西さんは少し驚いた顔をしたあと、眉間に皺を寄せた。そんな顔ばっかしてると眉間の皺、取れなくなるよ?と軽口を叩くとほっとけ、なんてまた軽口が返ってくる。こういう葛西さんとのやり取りは案外嫌いじゃない



「早かったね、今日夜勤かと思ってた」


「今日は違うって朝言ってただろうが、ったくまた聞き流してやがったな」


「あれ、そうだっけ? ちゃんと聞いてたつもりなんだけど」



うん、大丈夫、いつも通り。葛西さんは気付いてないし俺もちゃんといつも通り振る舞えてる。ただでさえここに置いてもらってる身なのに必要最低限以上の迷惑はかけたくなかった、それに心配されたい訳じゃないんだから…あえて言うことでもない。葛西さんには怪しまれるだろうけど適当に切り上げて早く寝てしまおう、朝まで眠れば今よりは多少マシになってる


「…?」


だけど顔を上げた瞬間、なぜか葛西さんと目があった。まるで何かを品定めしているような、刑事の時の葛西さんの目。でも俺の叔父でもある葛西さんの、目


「…葛西さ、」


流れる沈黙と視線がなんとなく気まずくて葛西さんの名前を呼んだ、途端に薄暗くなった視界に息が詰まる。さっきまでネクタイを緩めていた掌が額に触れていた



「…いつからだ」


「…なにが?」


「いつから黙ってた、風邪引いてるって」



短く息が漏れた、驚きすぎて。絶対気付いてないと思ってたのに、気付かれていたことがあまりにも意外で。未だ驚いてる俺に「答えろ」と葛西さんは言葉を続けた、完璧に尋問する口調になってる葛西さんから俺みたいなガキが逃げられるとは流石に思っていない



「うーん、いつからだろ…多分今日の朝?」


「多分ってお前自分のことだろう、なんだその曖昧さは」



「だって自分でもよく分かってないんだから仕様がないじゃない。あ、でも本格的に悪化したのは夕方辺りかなぁ、朝はまだ気怠いくらいだったから」


「…そうか、よく分かった。おい、誠人」


「ん?」


「歯ぁ食いしばれや」



と、言ってから数秒後には額に触れていた掌が拳になって落ちてきていた。頭の中が揺れたおかげで一瞬鈍痛がどこかに吹き飛ぶ。優しいだけじゃないとは思ってたけど病人相手にも容赦が無い辺り、やっぱり葛西さんはどこまでもブレないなぁと殴られた頭を摩った



「よし、今日はこのくらいにしといてやる。次は容赦しねぇからな、覚えとけよ」


「いや、今も結構容赦無かったでしょ。コブ出来たら嫌だなぁ」



あ、でもコブ出来るくらいで済むなら優しい方か。本気で殴られたらそれこそコブじゃ済まないだろから…ある意味これも優しさなのか



素知らぬ顔で煙草を吸い始めながら葛西さんの尋問は続いていく



「熱は?」


「まだ測ってないけどあるだろね」


「そりゃあそんだけ熱けりゃあるだろよ、頭痛は?」


「ちょっとだけ、それより今殴られたとこの方が痛かったんですけど」


「自業自得だ、我慢しろ」


「なんで気付いたの?」



ふと、逆に問いかけてみる。葛西さんは俺がした問いかけにほんの少し困った顔をした。持っていた煙草が灰皿の中で揉み消える



「…四六時中一緒にいる訳じゃないが、なんとなく反応が遅いような気がしたんでな。あとは勘だ、特にこれといった理由があった訳じゃない」


「勘、ね…それで分かるもんなんだ」


「一応こちらとら人間観察することに関してはプロだぞ、全てを分かることは出来なくても分かるもんは分かる。見えてんだからな」



分かるものは分かる、この目に見えているから。葛西さんは確かに俺のことを見てそう言った、ちらりと流れた黒い瞳に俺の姿が映る。なにもないなにも分からない、見えない筈の俺が何でかそこには映っていた。…ああ、そっか、よく忘れそうになるけど



葛西さんには見えてるんだっけ、俺のことが。見えてるから、だからなんとなくでも分かったり出来るんだ



額に触れていた掌はお世辞にも綺麗とはいえなかった。欲しいと願っていたものとは到底違う、乱雑で容赦のないそれ。けど、それでも。それがたとえ俺が求めていたものとは違っていても、もし誰かが見ていてくれたならーー



「とりあえず水分取ってさっさと寝ろ、寝りゃあ少しはマシになるだろ」



冷蔵庫から取り出し放り投げられたペットボトルを受け取る。あ、風邪引いてるからって特になにかしてくれる訳じゃないんだ。普段と変わらない葛西さんらしい対応が可笑しかった



「ねぇ、葛西さん」


「なんだ」


「俺、葛西さん家の子供に生まれれば良かった」



本心なのか冗談なのか。自分のことさえ分からない俺が呟いた、どこにも行き着かないただの譫言。それが行き着くことは永遠に来ない



「……馬鹿野郎、俺はお前みたいなガキを息子に持つなんざまっぴらごめんだ」



まぁそうだよね、俺も嫌だもん、こんなガキ。予想していた通りの答えに笑えば「いいから寝ろ!」と大きな激が飛んだ



少し、照れ隠しみたいにみえた



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風邪っぴき中学生久保ちゃんと葛西さん。久保ちゃんの世界に色を与えたのが時任なら、自分が分からなかった久保ちゃんを最初に見つけてずっと見ていたのは葛西さんだといい。私は葛西さんに夢見てる



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