部屋中に充満する甘ったるい空気。綺麗なお姉さんのいい匂いだとか、恋人たちのいちゃこく空気だとかそういう意味でなく、文字通りそのまま砂糖の溶け込んだ甘ったるい匂いが鼻腔を刺激する。この部屋の生温かさがその匂いを余計に助長しているのかもしれない。甘いものは嫌いではないけれど、跳び付くほど好きというわけでもない。こんな空気の中に2時間もいればすぐに胃の上らへんがもったりと重くむかついた。


(一口も食べてへんのに胸焼けとかありえへん…)


シャカシャカと金属のこすれる音と、すーっと消え入るような滑る音だけが、時計の秒針と相まって鼓膜をくすぐる。右腕に抱えたボウルの中には甘ったるい匂いの正体、白くきめ細やかなクリームが泡立っていた。

真昼間からこんなことをしているが、本来ならば今日はわざわざ部屋の散らかることをすべきではなく、むしろその逆、掃除をすべき日だ。なぜなら、今日で今年が終わるから。つまり、今日は大晦日というわけだ。大晦日になぜわざわざ手作りケーキなんか作っているのか。最後にケーキを口にした日から、まだ日は浅い。たった7日過ぎただけだ。再び高カロリー高コレステロールの甘みを口にするには、些かインターバルが短い。それをこうして、大して甘いものが好きというわけではない自分が生クリームを泡立てているのも、健康オタクの白石が真っ先に反対しそうなこの状況に自ら意欲的に参加しているのも、それは今日が千歳千里の誕生日だから、それ以外に理由はなかった。

誰だったか、正確には覚えていないが部員の一人が千歳の誕生日を祝おうと言いだし、喜んで食いついたのはもちろん金ちゃん、それに便乗したのが俺や白石、ユウジで、面倒くさそうな顔しつつも何だかんだ自ら巻き込まれたのが財前だった。銀さんや小春はもちろんそんな部員を見守りつつ手伝ってくれる。お祭り大好きな大阪人、しかも四天宝寺中テニス部となったらここは派手に一発やらなあかんということになり、アホみたいな演出を千歳を除く全レギュラーで考え、それぞれの役割分担をした。その結果、何故か俺と白石がケーキ作りに布陣されてしまったのだ。俺は普通の味覚の持ち主だが、白石は健康オタクゆえにたまに想像もできないような味覚を発揮する。そんな人間を厨房に回すなど、命知らずだと言いたい。

そんなこんなで厨房に放り込まれた俺に早速ボウルと泡立て器を持たせ、白石が放った一言は「お前、スピードスターなんやからすぐ泡立てられるやろ」だった。満面の、キラッキラ光る女子用営業スマイルを浮かべてそう言いきった白石は神々しいを通り越してもはや禍々しい気さえした。お陰で「電動泡立て器あるやろ」という至って普通の突っこみを飲み込んでしまった。原始的に手動で泡立てる生クリームはもったりと甘い匂いを漂わせながら形作っていく。その間、白石は隣で何やら毒々しい色のスポンジを焼いていた。


「…なあ、白石」
「おん」
「…それ、なんで緑色なん?スポンジいうたら普通黄色ちゃうん…?」
「ええことに気付いたで、謙也。このスポンジにはほうれん草が混ざっとんねや」


快活という言葉が似合うような、生き生きとした笑顔で答える彼に返す言葉はなかった。この様子だと、先程型に流し込まれた赤い生地には大方トマトでも練り込んであるのだろう。だとしたらボウルに眠っている青い生地には何が練り込まれているのだろうか。背筋を何かが走るのを感じて、それ以上考えるのは止めた。それでも、流石の白石も食べ物には食べ物を合わせるというところは外さないらしく、食べられないものというわけでもなさそうだ。生地に混ぜ込んでしまえばどんな野菜を入れたとしても砂糖の味でかき消されてしまうだろう。断面図が少しグロテスク、良く言えばアメリカンになるだけの話だ。それよりも気になることが、目の前にあった。


「…なあ、白石」
「おん」
「流石にスポンジ5つは焼きすぎちゃうん…?」
「何を言うとるんや、盛大にやらな四天宝寺の名に恥じるで」
「せやけど5段重ねは…やりすぎちゃうんか…」


次々と焼き上がるレインボーカラーのスポンジに絶句しつつ言うと、15段を5段にしたんやから十分妥協しとるやん、と至って真面目な眼差しと口調で返されてしまった。彼は何の躊躇いも迷いもなく、純粋に5段ケーキは通常の範囲内と思っているようだ。何を馬鹿なことを言っているのだ、とでも言いだしそうな瞳はきょとんと丸く見開かれているのに、それが正論であると信じて疑わない強さを持っている。けれど一般的に考えて、5段ケーキなんて、もはや誕生日を通り越してウェディングケーキだ。15段なんて人間の食べるもんやない。

その感覚に淡い絶望感を覚え立ち尽くす隣で、包帯を巻いた左手は器用にフルーツを切り分け、手際よく彩りも鮮やかに器に入れられていく。俺が丁寧に且つ最速のスピードで泡立てた生クリームのボウルは今や白石の腕に抱えられ、パテで綺麗に虹色のスポンジに広げられる。白いクリームの上には、切り分けられたばかりの鮮やかなフルーツが寸分の狂いもなく綺麗に並べられていく。まるで何かのマスゲームを見ているようだ。緑色のスポンジの間には苺を、青いスポンジの間にはオレンジをと、ご丁寧にわざわざ補色関係にあたる色合いのフルーツを並べていく姿には流石と感心させられるが、その見た目がアメリカンを通り越して食欲を減退させる姿となってきていることに気付いてほしいと切に願う。スポンジ、クリーム、フルーツ、クリーム、スポンジ、クリーム…と、用意されたクリームとフルーツは次々と彼の繊細な指先によって丁寧かつきっちりと所定の位置へと納まっていく。基本に忠実な男はケーキ作りにおいても基本に忠実だった。


「…なあ、白石」
「おん」
「そんなにクリーム塗ってええんか」
「クリームたっぷりの方が美味しいやろ?千歳かてクリームケチってすっかすかのスポンジよりクリームたっぷりで溢れてくるくらいの方がええやろ」
「せやけどクリームこれが最後やで」
「は?」


腕の中で角が立つほど形をなした生クリームのボウルを、白石に差し出した。これが最後の生クリームだ。もう泡立てようにもクリームのもとがない。焼きあがったスポンジはまだ最下層の上に2色目のスポンジが乗せられただけで、ケーキクーラーの上であと3色分が出番を待っている。もちろん全て裸のスポンジが見えている状態だ。このままでは裸のスポンジにロウソクを刺すことになるのが目に見えて明らかだった。


「…謙也」
「なんや」
「何でもっと早くそれを言わへんかってん」
「せやから焼きすぎちゃうか言うたやないか」
「それで誰もクリームが足りひんとは思わへんわ」
「…そもそも5段も焼くなんて誰も思わへんわ」


カチ、カチ、っとアナログ時計の秒針の音がやけに耳に響く。ネズミの息の根さえ止めてしまったかのように静かな、それでいて永遠のように長い時間が彼と自分の間に流れた。ゆるゆると流れる穏やかな川が、空気を読まずにさらりと頬を撫でていくようなそんな感覚は、二人の思考を麻痺させ居直らせるのには十分だった。

先に動いたのはやはり白石だった。


「…あー、せや、それは見えへんことにしておこうか」
「せ、せやな…知らへんかったことにしとくか」
「せやで、謙也。小さなことにいちいち気ィ取られとったら負け試合になるで!」
「せやな!!勝ったもん勝ちやからな!!」
「それこそ四天宝寺の精神や!」


はははと乾いた笑いがお互いの口から零れたが、それはお互い目をつむり心の底からの笑いであると信じる。自分たちが信じなかったら、今のこの現実はどうしようもなく凍てついた寒い状況だ。空笑いが虚しく鼓膜をかすめた。

白く息の濁る寒空の下では忙しなくも新年に向けて浮き足立った人々が心を弾ませているというのに、今、俺の心は錆びた鉄のような心地さえした。きっとそれは目の前で珍しく笑みを凍らせる白石も同じなのだろう。ああ、これが今年最後のボケだなんて、なんて悲しいのか。ぱちりとぶつかった視線は、口に出さずとも互いに心を通わせ合った。言いたいことはきっと同じだ。




残量については考えっこなしで








〜おまけ〜
「で、俺は何をしたらええん?」
「とりあえず千歳の機嫌取って来い」
「は?」
「せやからこの現実は考えんと、ケーキは俺に任して千歳の機嫌とって来ぃや言うたんやで」
(思いっきり現実考えとるやんか!)
「せやけど任せる言うてもまだ…」
「もうクリーム泡立ててもうたんやろ?せやったらもう謙也の仕事ないからええで。行きや」
「…おん」



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