吐く息が白くなりそうな空気に、肩をちぢこませる。フローリングというのかタイルというのか、教室特有の木造の床は容赦なく底冷えする。無防備な足元からぐんぐんと体温を吸い取られるようだ。ふるりと震えそうな教室は人の気配はもうなくて、放課後の少し寂しい空気が漂っている。週に一度の部活のない放課後だからなのか、その空気は普段よりも余計に寂しく感じた。

手元に広げているのは日直日誌で、今日一日の出来事を時系列に埋めていく。時間割と天気とほとんど書くことのない特記事項を記録して、一体何の意味があるというのだろう、そう答えのない疑問を頭に浮かべながらも着実に空欄を埋めていく。何てことはない作業だ。


「ねえ、名前。ちゃんと最後まで書いてよ」


前の座席に後ろ向きに座り、肩肘をついてわたしの手元を眺めているのは本日のもう一人の日直で。


「だって木更津ってそれだけで多いんだもん」


たった数文字しか書くスペースの用意されていない日直欄に彼の名前を綺麗に収めると言うのは、難しくはないけれど意識しなければ出来ない事だろうと思う。真ん中に書き始めてしまえば、苗字すらも入るかどうかすら危うい。


「あと一文字書くだけじゃん。書くスペース残ってるし」


にこにことまではいかないが、口元に緩く弧を描きこちらを見つめる彼は、有無を言わせないかのような強さを持つ。結局わたしが折れて、その苗字の後ろに、「淳」と一文字書き足すのだ。

それを見届けた彼は満足そうな笑みを浮かべて立ち上がり、わたしの手元にあった日誌をひょいと取り上げた。するりと彼の腕の中に納まった日誌は行儀よくその口を閉じていざ職員室に向かわんとしている。


「日誌はおれが出してくるから。先に靴履いてて」


こうしていいところばかり持って行ってしまうのだからたまったもんじゃない。だけど、これは彼の気遣いでもあることをわたしは知っている。この教室から職員室までは結構遠いし、下駄箱に行くにはここから直接行った方が断然近い。そして机に広げられたわたしのペンケース。彼を待たせていると思ったら、きっとわたしは慌てて片付けるし、職員室との往復も小走りになることだろう。それを避けようとしてくれた結果だということはわかっている。しかしそれでもいいとこどりをされたようで何だか悔しい。

ローファーの爪先をトントンとタイルに当てていると、日誌を届け終えた彼が顔を見せる。無駄のない滑らかな仕草で皮靴に履き替える姿は、何かのワンシーンを見ているようで意識がどこか遠くの方へ行ってしまう。ひとつひとつがこんなに綺麗な男の人を、わたしは彼以外に見たことがない。彼と同じテニス部の観月も「華麗」な仕草をする部類であるとは思うが、木更津のそれとはまた違う。観月の仕草はより艶やかだ。それに対して木更津の仕草は、「知らぬ間に」という言葉が一番しっくりくるほど、何気ない。それが当然であるかのようにやってのける。一体どうしたらそんな仕草が身に付くのだろう?と疑問に思うが、その秘密を含んだ笑顔を見ればそんな疑問も消え去ってしまう。

互いに並んで歩く速さは決して速くはない。きっと彼がわたしに合わせているのだろう。その、よくよく考えれば「できる男」の仕草も、何とはなしにやってのけるのだから、女子としてはたまったもんじゃない。それでいてテニスを始めとするスポーツもこなすのだ。女の子がきゃあきゃあするのも無理はない。…はずなのだが、彼の場合はそれがあまりにも何気ないからか、観月に比べたら言い寄る女の子の数は遥かに少ない。三ヶ月に一人、思いを告げる子がいるかどうかだ。それでも1年に4人の女の子から思いを寄せられると思えば、たかが16歳の高校1年生にしては十分生意気な数字である。
そんな彼とこうして肩を並べて帰っているのは、決して付き合っているからだとか想いを寄せているからだとかそういうわけではなく、どちらかというと腐れ縁や幼馴染みに近いものがある。転校生だった彼とはまだ出会って3年目だが、もうずっと前から隣にいたようなそんな空気が生まれる。それは彼の元々持っている穏やかな空気のせいもあるかもしれないが、多分、妙にわたしと彼の波長が合うことも要因の一つに含まれていると思う。互いに互いを深く干渉しないわたしたちは、一緒にいて気遣う必要もなく適度な距離を保っていられる。けれど言わずとも分かり合えるその関係がとても心地よい。言うなればじんわり温かいバスタブの中にいるようだ。きっと彼も、わたしと大体同じことを思っているのだと、わたしは勝手に思っている。

そんなことをぼおっと考えながら歩いていたわたしは、前が見えていたのか見えていなかったのか、アスファルトの僅かなでっぱりにつまづきバランスを崩す。寒さに負けてコートのポケットに突っこんでいた両手はそう簡単には出てきてくれない。このままアスファルトに額から突っこむと思い、目を閉じた。


「あぶない」


ふわり。思っていた衝撃よりも遥かに優しい衝撃がわたしの身体に伝わる。ふわふわのウールに加え、ほんのりと温かな熱を感じたことに驚き目を開けると、目に飛び込んできたのはキャメル色の学校指定コートだった。そして紺色のマフラー。がばりと勢いよく顔を上げると、きょとんと眼を丸くしたのちに苦笑する彼の姿があった。


「ほんと、いつまでたっても危なっかしいんだから」


そう動く唇から目を離せなかった。

近くで見てみれば、今まで気付かなかった沢山のことに気付く。顎先から耳まで続くすっとした輪郭だとか、少し長めの前髪から覗く切れ長の目、少しだけ飛び出ている喉仏、意外と力の強い腕や、細身だと思っていたのに自分よりずっと大きいその身体。彼が男の人であるということを嫌でも意識させられる。微かに香る彼の匂いに、わたしは何も出来なかった。


「**?」


彼の覗きこむ仕草に、わたしの心臓は早鐘を打つ。視線を逸らさずには居られなかった。顔ごと逸らすと、彼は驚いたような、それでいて楽しそうな笑みを浮かべた。わたしを支える腕に力が入る。


「やっと、気付いた?」


見透かされたように言われてしまえば、もう認めるほかに道はなかった。

互いに深く干渉することを好まないわたしが、彼が、どうして一緒に帰るなんてことを毎度のようにするのか、どうして言葉にしなくてもしたいことや言いたいことが伝わるのか、どうして隣にいることが落ち着くのか、そんなの答えなんてわかりきったことだった。それは相手に想いを寄せているからに他ならない。少しでも長い時間隣にいたいから、言葉にしなくてもわかってしまうくらい相手のことを見ているから、好きだからその体温が心地よい。ただそれだけのことだった。

自覚してしまえばそんな自分が恥ずかしくてたまらない。だってわたしはそういうキャラじゃないのだ。恋する乙女、なんて可愛らしいのは柄に合わない。もっとふざけあって性別の壁なんてないかのような振る舞いをしても許されるのがわたしたちだったはずだ。なのに、こんな、心臓が痛いくらいに跳ね上がるなんて。


「は、なして」


苦し紛れの懇願は、小さな小さな囁きのような声にしかならなかった。世界中の恋する女の子はみんなこんな気持ちを抱えているのだろうか。今まで経験してきた気持ちでは形容できない、心臓が締め付けられて顔が熱くて涙が出てくるようなこの気持ちを。

ぐっと俯くと、頭上でくすっと笑う声が聞こえ、わたしを抱きしめていた腕の力が緩んだ。その隙にすばやく腕の中から抜け出る。やっと息がつけた気がした。


「そんな逃げなくても」
「だ、って」
「でも、これでもう抑えなくてもいいよね?」
「え?」


彼が少しかがんでわたしの耳元のその唇を寄せる。避ける間もなく、吐息が耳に触れた。


「覚悟していて」


飛び跳ねて耳を押さえるわたしの顔は真っ赤に染まっているに違いない。そんな様子をおかしそうに、けれど少しだけ頬を染めてくすくす笑う彼の姿は、わたしの幸せに違いなかった。
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